知恵が呼びかけている 2025年3月19日(水曜 聖書と祈りの会)

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知恵が呼びかけている

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 1章20節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:20 知恵は巷で喜び歌い/広場で声を上げる。
1:21 城壁の頂で呼びかけ/城門の入り口で語りかけて言う。
1:22 「いつまで思慮なき者は思慮のないことに執着し/嘲る者は嘲り続け/愚かな者は知識を憎むのか。
1:23 私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたがたに注ぎ/私の言葉を知らせる。
1:24 だが呼びかけてもあなたがたは拒み/手を伸べても意に介さず
1:25 私の忠告にすべて知らぬ振りをし/私の懲らしめに応じなかった。
1:26 あなたがたが災いに遭うとき、私は笑い/恐怖に襲われるとき、私は嘲る。
1:27 恐怖が嵐のように襲うとき/災いがつむじ風のように起こり/苦難と困難があなたがたを襲うとき
1:28 その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。/探し求めても、私を見いだすことはできない。
1:29 彼らが知識を憎み/主を畏れることを選ばず
1:30 私の忠告に応じず/懲らしめをすべて軽んじたからだ。
1:31 彼らは道端の果実を食べ/自らの計画に満足している。
1:32 思慮なき者の背きは自らを殺し/愚かな者の安らぎは自らを滅ぼす。
1:33 私に聞き従う人は安らかに暮らし/災いを恐れず、安心して過ごす。」
箴言 1章20節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第1章20節から33節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 20節から23節までをお読みします。

 知恵は巷で喜び歌い/広場で声を上げる。城壁の頂きで呼びかけ/城門の入り口で語りかけて言う。「いつまで思慮なき者は思慮のないことに執着し/嘲る者は嘲り続け/愚かな者は知識を憎むのか。私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたがたに注ぎ/私の言葉を知らせる。」

 ここでは、知恵(ホフマー)が擬人化されています(ホフモット)。『箴言』を学ぶ目的の一つは「知恵と諭しを知る」ためです(1:2参照)。ここでは、知恵そのものが呼びかけているのです。知恵は、巷で喜び歌い、広場で声を上げます。城壁の頂きで呼びかけ、城門の入り口で語りかけるのです。つまり、知恵はたくさんの人がいる公共の場で声を上げ、呼びかけているのです。知恵とは、少数の人に、秘密裏に与えられるものではないということです。知恵は、すべての人に、公共の場で、こう呼びかけます。「いつまで思慮なき者は思慮のないことに執着し/嘲る者は嘲り続け/愚かなものは知識を憎むのか。私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたがたに注ぎ/私の言葉を知らせる」。ここで注意したいことは、知恵は強制することも、命令することもないということです。小見出しに「知恵の勧め」とあるように、知恵は勧めるだけであるのです。「思慮なき者」については、第1章4節に記されていました。「思慮なき者に熟慮を/若者に知識と慎みを与えるため」。『箴言』は、もともとは高級官僚の子供たちの教育のために記された教科書であったと言われます。ですから、ここでは知恵を学ぼうとしない思慮のない子供たちのことが念頭に置かれているようです。そうすると、「嘲る者」は、学ぶことの意味を否定して嘲る者と言えます。「愚かな者は知識を憎む」とありますが、ここでの知識は、第1章7節に、「主を畏れることは知識の初め」と記されていた「知識」のことです。ですから、愚かな者は主を知ることを憎む、主を知ろうとしないのです。そのような者たちに、知恵は懲らしめを受け入れるようにと勧めます。「私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたに注ぎ/私の言葉を知らせる」。懲らしめられること(叱責されること)は、誰でもいやなことですが、その懲らしめを受け入れるとき、その人に知恵の霊が注がれ、知恵の言葉が示されるのです。

 24節から30節までをお読みします。

 「だが呼びかけてもあなたがたは拒み/手を伸べても意に介さず/私の忠告にすべて知らぬ振りをし/私の懲らしめに応じなかった。あなたがたが災いに遭うとき、私は笑い/恐怖に襲われるとき、私は嘲る。恐怖が嵐のように襲うとき/災いがつむじ風のように起こり/苦難と困難があなたがたを襲うとき/その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。探し求めても、私を見いだすことはできない。彼らが知識を憎み/主を畏れることを選ばず/私の忠告に応じず/懲らしめをすべて軽んじたからだ。」

 知恵は、思慮なき者や嘲る者や愚かな者に、私の懲らしめを受け入れるようにと呼びかけます。しかし、彼らは知恵を拒みました。知恵が手を差し伸べても気にも留めず、知恵の忠告に知らぬふりをし、知恵の懲らしめに応じなかったのです。それゆえ、知恵は、「あなたがたが災いに遭うとき、私は笑い/恐怖に襲われるとき、私は嘲る」というのです。ここで注意したいことは、思慮のない者が知恵の懲らしめに応じなかったゆえに、災いを被ったのではないということです。ここで言われていることは、知恵が傍観者を決め込んで、自分を嘲った者を嘲るということです。恐怖が嵐のように襲うとき、災いがつむじ風のように起こり苦難と困難が襲うときに、知恵に呼びかけても、もう遅いのです。そのときになって、知恵を探し求めても、見いだすことはできないのです。なぜ、知恵は呼びかけても答えてくれず、探しても姿を表してくれないのでしょうか。それは、「彼らが知識を憎み/主を畏れることを選ばず/知恵の忠告に応じず/懲らしめをすべて軽んじたから」です。つまり、「時すでに遅し」であるのです。私たちは災いに遭う前に、苦難と困難に襲われる前に、知恵の懲らしめを受け入れ、主を畏れることを選ぶべきであるのです。

 31節から33節までをお読みします。

 「彼らは道端の果実を食べ/自らの計画に満足している。思慮なき者の背きは自らを殺し/愚かな者の安らぎは自らを滅ぼす。私に聞き従う人は安らかに暮らし/災いを恐れず、安心して過ごす。」

 ここには、知識を憎み、主を畏れることを選ばず、知恵の忠告に応じず、懲らしめをすべて軽んじた人が迎える結末が記されています。31節に、「彼らは道端の果実を食べ/自らの計画に満足している」とありますが、『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企(たくら)んだことで腹を満たす」。この言葉は、使徒パウロの言葉を思い起こさせます。パウロは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第6章7節で、こう記しています。「思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる。これも格言ですね。この格言のとおり、思慮なき者は自分の行いの実を食らい、自分の企(たくら)みで腹を満たすことになるのです。つまり、思慮なき者の背きは自らを殺し、愚かな者の安らぎは自らを滅ぼすことになるのです。しかし、知恵に聞き従う人は安らかに暮らし、災いを恐れず、安心して過ごすことができるのです。この知恵とは、究極的に言うと、神の知恵であるイエス・キリストのことです(一コリント1:30「キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」参照)。神の知恵であるイエス・キリストは、すべての人に、公共の場で呼びかけています。ラジオやインターネットを用いて、また、教会で行われる礼拝において、「私に学びなさい。そうすれば知恵の霊と知恵の言葉を授けよう」と招いているのです(マタイ11:28「すべて重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」参照)。しかし残念ながら、多くの人は、神の知恵であるイエス・キリストの招きに応じようとはしません。けれども、死んだ後に、あるいは、イエス・キリストが天から再び来られたときに、知恵を探し求めても遅いのです。今という恵みの時に、イエス・キリストの招きに応じなかった人は、自分の背きの実として滅びを刈り取ることになるのです。そうならないように、私たちは、今という恵みの時に、イエス・キリストの懲らしめを受け入れたいと願います(二コリント6:1、2「私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。なぜなら、『私は恵みの時に、あなたに応え/救いの日に、あなたを助けた』と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ救いの日です」参照)。

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