イエスが驚いた信仰 2025年3月09日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
イエスが驚いた信仰
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 7章1節~10節
聖書の言葉
7:1 イエスは、民衆の聞いている所でこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている僕が、病気で死にかけていた。
7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、僕を助けに来てくださるように頼んだ。
7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
7:5 私たちの国民を愛して、会堂を建ててくれました。」
7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からあまり遠くない所まで来ると、百人隊長は友人たちを送って言わせた。「主よ、ご足労には及びません。私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。
7:7 それで、私のほうからお伺いすることもいたしませんでした。ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください。
7:8 私も権威の下に服している人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。」
7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。ルカによる福音書 7章1節~10節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は、『ルカによる福音書』の第7章1節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝のお話の舞台は、ガリラヤの町カファルナウムです。カファルナウムは、ガリラヤ湖の北西沿岸にある町でした。第4章31節から44節には、イエス様がカファルナウムで安息日ごとに教えられたこと。人々から悪霊を追い出されたこと。人々の病を癒されたことが記されていました。平地の説教を語り終えられたイエス様は、再びカファルナウムに入られたのです。
カファルナウムに、ある百人隊長がいました。百人隊長とは、百人ほどの兵隊の指揮をする隊長のことです。この百人隊長は、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの軍隊に属していたと思われます。この百人隊長から重んじられていた僕が病気で死にかけていました。そのようなとき、この百人隊長は、イエス様のことを聞いたのです。イエス様はどのような病をも癒すことができる。そのようなことを聞いたのだと思います。それで、この百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、僕を助けに来てくださいと頼んだのです。なぜ、この百人隊長は、自分でイエス様に頼みに行かなかったのでしょうか。それは、この百人隊長が、ユダヤ人ではない異邦人であったからです。異邦人は、神の契約とは関係のない者と考えられていました。そればかりか、宗教的に汚れた者たちであると考えられていたのです。ですから、この百人隊長は、自分でイエス様のもとに行かないで、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、僕を助けてくださるように頼んだのです。この百人隊長は異邦人ですが、イスラエルの神を信じる「神を畏れる人」であったようです(使徒13:16参照)。と言いますのも、4節で長老たちはこう言っているからです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちの国民を愛して、会堂を建ててくれました」。この百人隊長は、ユダヤ人に好意的であり、会堂を建てるために多額の献金をしてくれました。それは、この百人隊長が、異邦人でイスラエルの神を信じる「神を畏れる人」であったからです。イエス様は、ユダヤ人の長老たちと一緒に、百人隊長の家に出かけました。ところが、その家からあまり遠くない所まで来ると、百人隊長は友人たちを送って、こう言いました。「主よ、ご足労には及びません。私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。それで、私の方からお伺いすることもいたしませんでした」。自分で「僕を助けに来てください」と頼んでおいて、近くまで来たら「ご足労にはおよびません」と断るのは、かえって失礼なように思いますが、ここには、ユダヤ人は外国人の家を訪問することは許されないという当時の慣習があります(使徒10:28参照)。百人隊長は、僕を助けて欲しいあまり、イエス様に自分の家に来てくださるように頼みました。しかし、しばらくして考え直したのだと思います。自分はイエス様をわが家にお迎えできるような者ではない。そればかりか、自分のほうからお伺いすることもふさわしくない。それで、今回も友人たちを遣わすのです。この百人隊長の自己認識は、ユダヤ人の長老たちとはまったく違いますね。ユダヤ人の長老たちは、「あの方はイエス様に助けていただくのにふさわしい人だ」と言いました。しかし、百人隊長本人は、「私はイエス様をわが家にお迎えできるような者ではない。私のほうからお伺いするのもふさわしくない」と言うのです。それで、百人隊長は、「ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください」と言うのです。百人隊長は、職業柄、イエス様が主なる神の権威の下に服していることを見抜いていました。ですから、続けてこう言うのです。「私も権威の下(もと)に服している者ですが、私の下(した)には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。百人隊長は、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの権威の下にありました。兵隊たちは、百人隊長の命令を領主ヘロデ・アンティパスの命令として聞き、そのとおりにするのです。そうであれば、主なる神の権威の下にあるイエス様の命令は、主なる神の命令であり、そのとおりになると、百人隊長は言うのです。ここにあるのは「神の言葉はそのとおりになる。神の言葉は出来事になる」という信仰です。『創世記』の第1章3節に、「神は言われた。『光あれ。』すると光があった」とあるように、神の言葉はそのとおりになる。神の言葉は出来事になるのです。また、『イザヤ書』の第55章10節で、主はこう言われます。「私の口から出る私の言葉は/空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし/私が託したことを成し遂げる」。このように主の言葉は空しく戻ることはない。主が望むことを必ず成し遂げるのです。このような御言葉への信仰こそ、信仰の父アブラハムの信仰でありました。『創世記』の第15章1節から6節までをお読みします。旧約の18ページです。
これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださると言うのですか。私には子どもがいません。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」すると、主の言葉が彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
アブラム(後のアブラハム)には高齢でありながら、子供がいませんでした。しかし、アブラハムは、「あなたの子孫は数えきれない夜空の星のようになる」という御言葉を信じたのです。主の御言葉はそのとおりになる。主の御言葉は出来事になることを信じたのです。そして、主は、そのようなアブラハムを正しいと認められたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の113ページです。
イエス様は百人隊長の言葉を聞いて驚き、付いて来た群衆の方を振り向いてこう言われます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」。イエス様が驚かれた「これほどの信仰」とは、イエス様が主なる神の権威の下にあるゆえに、イエス様の言葉はそのとおりになるという信仰です。それは、信仰の父アブラハムの信仰でもありました。その信仰を、イエス様は神の民であるイスラエルの中にではなく、異邦人である百人隊長に見出されたのです。
10節に、「使いに行った人たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた」とあります。百人隊長の僕は、イエス様のお言葉によって救われたのです。百人隊長は、イエス様にお会いすることなく、ただ御言葉によって救われました(僕の救いと百人隊長の救いは一体的である)。同じことが、私たちにおいても言えます。私たちはイエス様にお会いしたことがありません。しかし、イエス様のお言葉によって救われているのです。この説教を準備しながら、私はとても違和感を覚えました。異邦人である百人隊長がユダヤ人の長老たちを使いに出して、イエス様にお願いするのは分かります。ユダヤ人にとって異邦人は宗教的に汚れた者であるからです。しかし、百人隊長が自分の家に近づいて来たイエス様のもとに友人たちを遣わすということが納得できないのです。と言いますのも、この友人たちは百人隊長と同じ異邦人であると考えられるからです。そうであれば、百人隊長自らがイエス様のもとに来て、自分の口で語るほうが自然だと思います。しかし、百人隊長は、イエス様のもとに友人たちを送って、友人たちの口を通して語らせるのです。そのようにして、福音書記者ルカは、百人隊長とイエス様を会わせないのです。これは意図的であると思います。つまり、今朝の百人隊長の物語は、イエス様の時代のことと『ルカによる福音書』が記された時代のことを重ねて記す「二重のドラマ」であるのです(ヨハネ9:22「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちはすでに、イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」参照)。福音書記者ルカは、異邦人である百人隊長が、イエス様にお会いすることなく、御言葉だけで救われたように、福音書の読者である私たちも、イエス様にお会いすることなく、御言葉だけで救われると言いたいのです。と言いましても、百人隊長と私たちでは大きく違う点があります。百人隊長はイエス様にお会いしていませんが、イエス様は百人隊長の家の近くまで来ていました。しかし今、イエス様はどこにおられるでしょうか。十字架の死から復活されたイエス様は、天の父なる神の右に座しておられます。イエス様は天におられ、私たちは地にいるのです(コヘレト5:1参照)。イエス様と私たちとの間には天と地ほどの隔たりがある。それでも、私たちはイエス様のお言葉だけで救われると言えるのでしょうか。結論から申しますと、「言えます」。なぜなら私たちには、イエス・キリストの聖霊が与えられているからです。『ルカによる福音書』の続編である『使徒言行録』の第2章を読むと、天に昇り、父なる神の右の座に着かれたイエス・キリストが、御自分の弟子たちに神の霊、聖霊を与えてくださったことが記されています。「イエスは主である」と告白する私たちにも聖霊が与えられています(一コリント12:3参照)。それゆえ、私たちは、イエス様にお会いすることなく、御言葉だけで救われるのです。もっと言えば、イエス様を肉の目で見たことがなくても、イエス様の聖霊とイエス様の御言葉によって、イエス様と人格的にお会いしているのです(一ペトロ1:8参照)。
百人隊長がイエス様のお言葉だけで救われたように、私たちもイエス様のお言葉だけで救われます。そのことは、私たちが百人隊長と同じ信仰に生きていることを示しています。イエス様が驚いた信仰に私たちも生きているのです。それは、「ただお言葉をください。そうすれば僕は癒されます」という信仰、「主イエス・キリストの御言葉はそのとおりになる」という信仰です。イエス・キリストは、神の永遠の御子が、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、罪を別にして私たちと同じ人となられた御方であります(ルカ1章参照)。イエス様は、まことの神でありつつ、まことの人であられるのです。まことの人という人性から言えば、イエス様は神の権威の下にあります。しかし、まことの神という神性から言えば、イエス様は父なる神と等しい御方であるのです。すなわち、父なる神の御言葉がそのとおりになるように、御子イエス・キリストの御言葉もそのとおりになるということです。そのような信仰を、私たちは神の霊である聖霊によって与えられているのです。イエス様が驚いたほどの信仰を、私たちは聖霊によって与えられているのです。