主を畏れることは知識の初め 2025年3月05日(水曜 聖書と祈りの会)

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主を畏れることは知識の初め

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 1章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。
1:2 これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。
1:3 見識ある諭しと/正義と公正と公平を受け入れるため。
1:4 思慮なき者に熟慮を/若者に知識と慎みを与えるため。
1:5 知恵ある人は聞いて判断力を増し/分別ある人は導きを得る。
1:6 箴言と風刺を/知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。
1:7 主を畏れることは知識の初め。/無知な者は知恵も諭しも侮る。箴言 1章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 先週で『ヨブ記』を学び終えましたので、今朝から『箴言』をご一緒に学びたいと思います。先程は第1章全体を読みましたが、今朝は1節から7節を中心にしてお話しいたします。

 1節に、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」とあるように、この書物は、ソロモン王によって記されました。ソロモン王の知恵については、『列王記上』の第5章9節から14節に記されています。旧約の520ページです。

 神はソロモンに、非常に豊かな知恵と英知、そして海辺の砂浜のような広い心をお与えになった。ソロモンの知恵は、東方のどの人たちの知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさっていた。彼は、エズラ人エタンや、マホルの子であるへマン、カルコル、ダルダの誰よりも賢く、その名声は周りのすべての国々に知れ渡っていた。ソロモンは三千の箴言を語り、その歌は千と五を数えた。レバノンの杉から、石垣に生えるヒソプに至る草木について論じ、獣や鳥、這うものや魚について語った。ソロモンの知恵を聞きつけたあらゆる国の王のもとから、その知恵を聞こうとあらゆる民がやって来た。

 ここには、東方にも、エジプトにも知恵のある賢人がいたこと。その賢人の誰よりもソロモンの知恵は勝っていたことが記されています。知恵は国や民族の違いを超える国際性を持っているのです。12節に、「ソロモンは三千の箴言を語り」とあります。私たちはその一部を学ぼうとしているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の973ページです。

「箴言」という言葉を『広辞苑』で引くと、「いましめとなる短い句。格言」とあります。しかし、「箴言」と訳されているヘブライ語のミシュレー(マーシャルの複数形)は、知恵の言葉、たとえ、ことわざ、格言、謎といった広い意味を持っています。そのことを念頭において、私たちはソロモンの箴言を学びたいと思います。

 2節から6節までをお読みします。

 これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。見識ある諭しと正義と公正と公平を受け入れるため。思慮なき者に熟慮を/若者に知識と慎みを与えるため。知恵ある人は聞いて判断力を増し/分別ある人は導きを得る。箴言と風刺を/知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。

 ここには、ソロモンが『箴言』を記した目的が記されています。また、私たちが『箴言』を学ぶ目的が記されているのです。『ヤコブの手紙』の第1章5節に次のように記されています。「あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です」。私たちが自分に知恵が欠けていることを自覚して、知恵を求めて『箴言』を学ぶならば、神様はこの学びを通して、私たちに知恵を与えてくださるのです。私たちは、知恵と諭しを知り、分別ある言葉を見極めるために、見識ある諭しと正義と公正と公平を受け入れるために、知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるために、『箴言』を学びたいと願います。

 2節から6節をよく読むと、学ぶ者として2つのタイプが言われています。4節に、「思慮なき者に熟慮を、若者に知識と慎みを与えるため」とあるように、一つのタイプは「思慮の足りない若者」です。また、5節に「知恵ある人は聞いて判断力を増し/分別ある人は導きを得る」とあるように、2つ目のタイプは、「知恵と分別のある人」です。つまり、思慮の足りない若者も、知恵と分別のある人も、『箴言』を学ぶならば、それぞれに益を受けることができるのです。若者は知識と慎みを受け、知恵ある人はいよいよ判断力を増すことができるのです。このことは、すべての人が『箴言』を学ぶべきことを教えています。私たちが思慮の足りない者であっても、あるいは知恵ある人であっても、『箴言』を学ぶことによって、知恵と諭しを知り、正義と公正と公平を受け入れることができるようになるのです。

 7節をお読みします。

 主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵も諭しも侮る。

 この御言葉は、『箴言』全体の土台とも言える御言葉です。「主を畏れることは知識の初め」。ここでの「主」はヤハウェと発音されたであろう神の御名前です。主は天地万物を造り、治めておられる唯一の生けるまことの神です。その主を畏れることが知識の初めであるのです。「主を畏れる」とは、天地万物を造り、統べ治めておられる神を畏れ敬い、その御心に従うことです。主を畏れ敬い、その御心に従うことによって、私たちは知識を得ることができるのです。このことは、主を畏れない人は知識を得ることができないことを教えています。天地万物を造り、治めておられる主を知らないならば、その人は本当の知識を持っていない。知るべきことをまだ知らないのです。このことは、イエス・キリストの使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第1章で記していることです。新約の269ページです。18節から23節までをお読みします。

 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 ここでパウロは、神を崇めることも感謝することもない人間について語っています。彼らは知恵ある者と称しながら愚かであると言うのです。そして、その具体例として、不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えた偶像崇拝の罪を指摘するのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の973ページです。

 主を畏れないのであれば、いくら勉強して知識を得たとしても、その人は愚かであるのです。なぜなら、「主を畏れることは知識の初め」であるからです。主を畏れること、そこに知識の源があるのです。もっと言えば、主を畏れることこそ、まことの知識であるのです。

 「主を畏れることは知識の初め。無知なものは知恵も諭しも侮る」。ここでの「知恵」(ホクマー)は主が造られ、治めておられる宇宙と人間社会と人生の秩序のことです(箴8:12~31参照)。また、「諭し」(ムーサール)とは神の秩序に基づく訓戒のことです(新改訳2017参照)。主はすべてのものを、秩序をもって造り、秩序をもって治めておられます。その秩序こそ、神の知恵(ホクマー)であるのです。そして、神の秩序に基づく訓戒こそ「諭し」であるのです。主がお造りになり、治めておられる世界には、さまざまな秩序があります。その神の秩序に調和して生きるとき、私たち人間はより良い人生を生きることができるのです(創世1:31「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」参照)。

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