心と言葉と行いの一致 2025年3月02日(日曜 朝の礼拝)

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心と言葉と行いの一致

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 6章43節~49節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:43 「悪い実のなる良い木はなく、また、良い実のなる悪い木もない。
6:44 木はそれぞれ、その実で分かる。茨からいちじくは採れず、野ばらからぶどうを摘むこともない。
6:45 善い人はその心の良い倉から良い物を出し、悪い人は悪い倉から悪い物を出す。およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである。」
6:46 「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。
6:47 私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。
6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった。
6:49 しかし、聞いても行わなかった者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
ルカによる福音書 6章43節~49節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第6章43節から49節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉は「平地の説教」の結びであります。

 39節に、「イエスはまた、たとえを話された」とありますが、今朝の御言葉も、イエス様が話されたたとえであります。「悪い実のなる良い木はなく、また、良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる」。ここで「分かる」と訳されている言葉は直訳すると「知られる」となります。良い実を結ぶか、悪い実を結ぶかによって、その木が良い木であるか、悪い木であるかを知ることができる。同じ種類の木であっても、食べられない悪い実を結ぶか、食べられる良い実を結ぶかによって、その木が悪い木であるか、良い木であるかが分かるのです。ここでイエス様は、「木」は「人」を、「実」は「言葉と行い」を意味しています。その人がどのような言葉を語り、どのような行いをしているのかを見れば、その人がどのような人であるのかが分かると言うのです。

 続けてイエス様はこう言われます。「茨からいちじくは採れず、野ばらからぶどうを摘むこともない」。「茨」と「野ばら」は、どちらもトゲのある植物で「悪い人」を象徴しています。他方、「いちじく」と「ぶどう」はおいしい果物で「良い言葉と良い行い」を象徴しています。ここでイエス様が言われていることは、「悪い人」から「良い言葉と良い行い」は出てこないということです。

 さらにイエス様はこう言われます。「善い人はその心の良い倉から良い物を出し、悪い人は悪い倉から悪い物を出す。およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである」。ここでイエス様は、言葉の出どころである心を問題にしておられます。善い人が良い言葉を語るのは、その人の心が良いからだと言うのです。また、悪い人が悪い言葉を語るのは、その人の心が悪いからだと言うのです。なぜなら、「およそ心から溢れ出ることを、口は語る」からです。「心にもないことを言ってしまう」こともありますが、おおよそは心から溢れ出ることを私たちは語るわけです。私たちは、自分の心も、他人の心も見ることはできません。しかし、自分が、また他人が語る言葉によって、自分の心の内を、あるいは他人の心の内を知ることができます。心は「知識と感情と意志の座」であり「人格そのもの」と言えます。ですから、語る言葉によって、その人がどのような人であるのかが分かるのです。そのような意味で、言葉を語ることは自分の心をあらわにする啓示的な行為であるのです(このことは顔においても言える)。たとえば、冷たい言葉を語れば、それを聞いた人は「この人は冷たい人だ」と思うし、自分も「私は冷たい人間だ」と思う。また、あたたかい言葉を語れば、それを聞いた人は「この人はあたたかい人だ」と思うし、自分も「私はあたたかい人間だ」と思う。そのようにして、私たちは、自分を知り、他人を知っていく。そして、互いに忍耐しながら、赦し合いながら、ときには助言をしながら一緒に歩んでいる。それが私たちの教会生活であると思います。

 では、イエス・キリストの弟子である私たちは、心の良い倉から良い物を出す良い人なのでしょうか。それとも、悪い倉から悪い物を出す悪い人なのでしょうか。その答えを知る手がかりが、続く46節の御言葉にあります。「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」。イエス様を主と呼ぶこと。これは私たちが語る「良い言葉」です。そうであれば、私たちキリスト者は、心の良い倉から良い物を出す善い人であるのです。他の人がそのように判断しなくても、イエス・キリストを遣わして、主とされた神様は、「イエスは主である」と告白する私たちを「善い人」であると見なしてくださいます。このことは、使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第10章で記していることです。新約の283ページです。第10章9節と10節をお読みします。

 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。

 私たちは心で、「神様がイエス様を十字架の死から復活させて、主とされた」と信じて、口で「イエスは主である」と告白しています。そして、神様は、そのような私たちを正しい人、善い人であると認めてくださり、救ってくださるのです。「イエスは主である」と告白することは、神様に対して「良い言葉」を語ることであるのです。このことは考えてみれば当然のことであります。神様は、人間を救うために独り子であるイエス・キリストを遣わして主とされました。ですから、神様が人間の口から一番聞きたい言葉は、「イエスは主である」という言葉であるのです。

 ただ、一つ注意しておきたいことは、「『イエスは主である』という言葉は、生まれながらの人間の心からは出てこない」ということです。はじめの人アダムにあって良き創造の状態から堕落した人間は、悪い心の倉から悪い言葉を出す悪い人であるのです。人間どうしを比較して「あの人は善い人だ」と言うことはできても、心を御覧になる神の御前に善い人は誰もいないのです(詩14:2、3「主は天から人の子らを見下ろし/神を求める悟りある者はいないかと探られる。すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない」参照)。では、私たちは、なぜ、「イエスは主である」という良い言葉を語ることができるのか。それは神の霊である聖霊のお働きのゆえであります。使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第12章で次のように語っています。新約の309ページです。第12章1節から3節までをお読みします。

 さて、きょうだいたち、霊の賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい。知ってのとおり、あなたがたは、まだ異邦人だったとき、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれました。そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。

 神様は、悪い人である私たちに、聖霊を与えてくださり、私たちの心を良い心に造り変えてくださいました。そして、私たちを、「イエスは主である」という良い言葉を語る者としてくださったのです。このことは先程のイエス様のたとえではあり得ないことです。「悪い木が良い実を結ぶこと」はあり得ないことです。しかし、神の霊である聖霊は、私たちの悪い心を良い心に造り変えてくださり、私たちを良い言葉を語る者にしてくださったのです(二コリント5:17「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の113ページです。

 イエス様は、「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」と言われます。私たちもイエス・キリストの名によって集まり、「主よ、主よ」と呼んで礼拝をささげています。その私たちに対して、イエス様は、「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」と言われるのです。ここでイエス様が問題にしていることは、言葉と行いの不一致です。「イエスは主である」。この告白は、「イエスは主人である」「イエスは主なる神である」という告白です。そうであれば、私たちは僕として、造られた者として、イエス様の言うことを行うべきであるのです。

 イエス様は、「私のもとに来て、私の言葉を聞いて行うものが皆、どんな人に似ているかを示そう」と言われます。そして、家と土台のたとえを話されるのです。ある人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てました。また、ある人は、土台なしで地面に家を建てました。傍目には、どちらも同じように見えます。地面の下のことは見えませんから、同じように見えるわけです。しかし、その違いが明らかになるときが来ます。それは、洪水になって水が押し寄せるときです。集中豪雨によって川の水が溢れて、家に押し寄せてきたとき、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えた家は、しっかり建ててあったので、びくともしませんでした。他方、土台なしで地面に建てた家は、水が押し寄せると、たちまち倒れ、その壊れ方がひどかったのです。ここでの洪水は、さまざまな試練を意味しています。さらに言えば、神の裁き、最後の審判を意味しています。私たちがイエス様を「主よ、主よ」と呼び、イエス様の言うことを行うならば、私たちはさまざまな試練や最後の審判に耐えることができます。しかし、私たちがイエス様を「主よ、主よ」と呼ぶだけで、イエス様の言うことを行わないならば、私たちはさまざまな試練や最後の審判に耐えることができないのです。ここでイエス様が求めていることは、私たちがイエス様を主と呼ぶだけではなく、イエス様の言うことを行う者になることです。洪水になって水が押し寄せてきても、びくともしない家を建てること。それは、私たちにとって、主イエス・キリストの御言葉を聞くだけではなく、行う者になることであるのです(ヤコブ1:22「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません」参照)。

私たちは聖霊のお働きによって悪い心を良い心に造り変えていただいて、良い言葉、「イエスは主である」という言葉を語る者としていただきました。それだけではなく、私たちは聖霊によって、神様を愛する心、イエス様を愛する心をいただいているのです(ローマ5:5「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」参照)。「イエスは主である」という言葉は、イエス様に対する私たちの愛の告白でもあるのです。私たちは聖霊によって与えられた愛によって、イエス様のもとに来て、イエス様の御言葉を聞いて、行う者とされているのです。イエス様が、「私を愛する人は、私の言葉を守る」と言われたように、私たちは聖霊によって注がれている神の愛によって、イエス様を愛し、イエス様の御言葉を行う者とされているのです(ヨハネ14:23)。そのような私たちに対して、イエス様は「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」と言われるのです。

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