人を裁くな 2025年2月23日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 6章37節~42節
聖書の言葉
ルカ 6:37 「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。
ルカ 6:38 与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
ルカ 6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人に盲人の手引きができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
ルカ 6:40 弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。
ルカ 6:41 きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
ルカ 6:42 自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」ルカによる福音書 6章37節~42節
メッセージ
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『ルカによる福音書』の第6章には、イエス様が山から下りて語られた「平地の説教」が記されています。イエス様は、弟子である私たちに、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われました(ルカ6:20)。また、イエス様は、弟子である私たちに、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われました(ルカ6:27)。続く今朝の御言葉でイエス様は、弟子である私たちに、「人を裁くな」と言われます。
37節と38節をお読みします。
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は枡に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエス様は、弟子である私たちに、「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない」と言われます。ここでイエス様は裁判制度を否定しているわけではありません。ここでの「人を裁く」とは人間関係において「人を判断して決めつける」ことを言います。私たちは、人のことを、このような人だと判断して決めつけることがあります。人間は複雑であり、そう簡単には分からないのに、私たちは、その人の一面だけを見て、この人はこのような人であると決めつけてしまうのです。しかも、それはしばしば悪い判断であるのです。私たちは自分が優れているような気になって、人を悪く判断して決めつけるのです。しかし、イエス様は、「人を裁くな」「人を悪く判断して決めつけるな」と言われます。「そうすれば、自分も裁かれない」と言われるのです。これは「自分も神によって裁かれない」という意味です(神的受動態)。人を悪く判断して決めつけなければ、神があなたを悪く判断して決めつけることもないのです。私たちは人を裁くとき、本来の裁き主は神様であり、自分が神様によって裁かれるべき存在であることを忘れています。私たちはあたかも自分が神であるかのように、人を裁くのです。しかし、そのとき、神様は私たちのことを神と等しい者になろうとする悪しき者として裁かれるのです。そのようなことがないように、イエス様は、「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない」と言われるのです。
また、イエス様は、「人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない」と言われます。ここでの「人を罪に定める」ことも人間関係においてのことです。「人を罪に定める」とは「人のことを神の掟に背く罪人である」と決めつけることです。ファリサイ派の人々は、律法を守らない人々、また、律法を守れない人々を罪人と呼びました。しかし、イエス様の弟子である私たちは、人を罪に定めてはならないのです。「人を罪に定めること」は、先程の「人を裁くこと」とつながっています。私たちは人を裁いて、罪に定めるわけです。しかし、「人を罪に定める」ことも神の特権であります。心を御覧になる神様だけが、私たち人間を正しく裁き、罪に定めることができる御方であるのです。私たちは人を罪に定めるとき、本来、神様が人を罪に定める御方であることを忘れています。そして、自分が正しい神であるかのように振る舞って、人を罪に定めるのです。しかし、そのような私たちをまことの裁き主である神様が罪に定められるのです。そのようなことがないように、イエス様は、「人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない」と言われるのです。
また、イエス様は、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦される」と言われます。ここでイエス様は、私たちが自分に対して罪を犯した人を赦すようにと言われます。それは、私たち自身が神様によって罪を赦していただいた者であるからです。もし、私たちがそのことを忘れて、人の罪を赦さないのであれば、神様も私たちの罪をお赦しにならないのです(マタイ18:21~35参照)。そのようなことがないように、イエス様は、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦される」と言われるのです。
また、イエス様は、弟子である私たちに、「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる」と言われます。私たちが人に与えるならば、神様も私たちに与えてくださるのです。ここでは特に、施しのことが言われているようです。『箴言』の第17章5節には、「貧しい人を嘲る者は造り主を見くびる者」とあります。また、第19章17節には、「弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること。主はその行いに報いてくださる」とあります。貧しい人を憐れんで施すならば、貧しい人の造り主である神様が報いてくださるのです。そして、その報いは溢れるほどに豊かな報いであるのです。「人々は枡に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる」とありますが、ここでの「人々」も神様のことです(新改訳2017、新共同訳では「人々」は訳出されていない)。神様は私たちが人に与えたのと同じ分だけを与えてくださるのではなくて、枡に溢れるほど量って、懐に入れてくださいます。そうすると、「あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである」とのつながりはどうなるのでしょうか。私は、この御言葉は、38節の続きであるというよりも、37節と38節に記されている四つの命令の締めくくりであると思います。イエス様は、「裁くな。そうすれば、裁かれない」。「罪に定めるな。そうすれば、罪に定められない」。「赦しなさい。そうすれば、赦される」。「与えなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。これらのことに共通していることは、私たちが「自分の量る秤で、神様によって量り返される」ということです。私たちは、自分の量る秤で神様によって量り返される者として、人を裁いて罪に定めることが禁じられているのです。また、私たちは、自分の量る秤で神様によって量り返される者として、人を赦し、与えることが命じられているのです。特に、与えること、貧しい人に施すことは、溢れるほどの豊かな報いが約束されているのです。
39節から42節までをお読みします。
イエスはまた、たとえを話された。「盲人に盲人の手引きができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」
ここでの「盲人」とは、「心の目が塞がれていて神の真理を悟ることができない人」のことです。もし、盲人が盲人の手引きをするなら、二人とも穴に落ちてしまいます。そのようなことがないように、イエス様は、弟子である私たちがイエス様に学んで見えるようになれと言うのです。私たちは、イエス様をまだ信じていない人々の手引きをするために、私たち自身がイエス様を深く知る必要があるのです。
また、ここでの「師」は、イエス様ご自身のことです。イエス様は、弟子である私たちに、「誰でも、十分に訓練を受ければ、師である私のようになれる」と言われます。これは励ましに満ちた約束ですね。私たちは誰でも、十分に訓練を受ければ、イエス様のようになれるのです。では、師であるイエス・キリストは、私たちをどのようにして訓練してくださるのでしょうか。それは、御言葉と兄弟姉妹との交わりによってです。『テモテへの手紙二』の第3章16節と17節には次のように記されています。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練をするために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです」。イエス・キリストは、神の言葉である聖書によって、私たちを神に仕え、善を行う者として訓練してくださるのです。また、イエス・キリストは、主にある兄弟姉妹との交わりによって、私たちが互いに愛し合うようにと訓練してくださいます。私たちは御言葉によって、また主にある兄弟姉妹との交わりによって、十分な訓練を受けて、イエス・キリストのようになりたいと願います。
私たちは主にある兄弟姉妹との交わりの中で訓練を受けるのですが、そのとき、兄弟姉妹の目にあるおが屑が気になることがあります。そして、その兄弟姉妹の目にあるおが屑を取ってあげたいと思うのです。しかし、イエス様は、そのような私たちに、「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか」と言われます。「梁」とは「屋根を支えるために横に渡した太くて長い材木」のことです。イエス様は、きょうだいの目からおが屑(小さな罪)を取ろうとする私たちに、あなたの目には梁(大きな罪)があるではないかと言われるのです。さらにイエス様はこう言われます。「偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる」。ここでイエス様が教えてくださっている一つのことは、私たちは他人の罪には敏感であっても、自分の罪には鈍感であるということです。私たちは他人には厳しく、自分には甘いのです。自分の目に梁があるにもかかわらず、まるでそれがないかのように、他人の目にあるおが屑が気になるのです。また、ここでイエス様が教えてくださっているもう一つのことは、自分の目に梁があるのに気付かない人は、兄弟姉妹の目からおが屑を取り除くことはできないということです。これは、言い方を変えれば、目に梁がある人から言われても、誰も聞かないということです。ですから、私たちは、「きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言う前に、自分自身をよく吟味して、自分の目にある梁を取り除かなければならないのです。このように考えると、私たちは兄弟姉妹の目にあるおが屑が気にならなくなってくるのではないでしょうか。自分の目に梁があることに気づき、しかもその梁を自分の力で取り除くことができないことを思い知るとき、「きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」などとおこがましくて言えないと思うのです。では、イエス様の御言葉、「そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいたちの目にあるおが屑を取り除くことができる」という御言葉を、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。私は、これは皮肉だと思います。ここでイエス様が求めていることは、私たちが自分の目に梁があることに気づいて、さらには、その梁を自分の力では取り除くことができないことを思い知って、兄弟姉妹の目におが屑があることに寛容になることであるのです(教会は罪赦された罪人の集まりである!)。自分の目にある梁を取り除くことができない私たちは、はっきり見えませんので、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができません。それができるのは、目の中に梁もおが屑もない、イエス・キリストだけであるのです。私たちは、イエス・キリストの御言葉と聖霊によって説得されたときだけ、自分の手で、自分の目から梁とおが屑を取り除くことができるのです。