敵を愛しなさい 2025年2月16日(日曜 朝の礼拝)

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敵を愛しなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 6章27節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:27 「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」ルカによる福音書 6章27節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 『ルカによる福音書』の第6章には、イエス様が山から下りて語られた「平地の説教」が記されています。前回私たちは、イエス・キリストの弟子である私たちが貧しい人々であり、神の国を所有する幸いな者であることを学びました。また、私たちは、私たちが神ではなく富に依り頼むならば、神から慰めをいただけない災いな者となってしまうことを学びました。今朝の御言葉はその続きとなります。

 27節と28節をお読みします。

 「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」

 イエス様は、弟子である私たちに、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」と言われます。聖書協会共同訳は訳出していませんが、元の言葉には「あなたがたの敵」と記されています(新改訳2017参照)。イエス様は、「私の言葉を聞いているあなたがたの敵を愛しなさい」と言われたのです。ですから、ここでの「敵」は、前回学んだ22節の御言葉を背景にしていると思われます。イエス様は、22節でこう言われました。「人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである」。この御言葉を背景にして、イエス様は、「あなたがたの敵を愛しなさい」と言われるのです。ですから、ここでの「敵」はイエス・キリストの名のゆえに私たちを憎む者であり、イエス・キリストの名のゆえに私たちを呪う者であり、イエス・キリストの名のゆえに私たちを侮辱する者のことであるのです。そのような「あなたがたの敵を愛しなさい」とイエス様は言われるのです。このことは、私たちが生まれ持った愛では不可能であると思います。生まれ持った私たちの愛では、自分を憎む者に親切にすることはできないと思います。相手が自分を憎むなら、自分も相手を憎む。また、相手が自分を呪うならば、自分も相手を呪う。相手が自分を侮辱するなら自分も相手を侮辱する。それが生まれながらの私たちの姿であると思います。しかし、そのような私たちに、イエス様は、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」と言われるのです。ここでイエス様は、無理なことを命じているのではなくて、「私の弟子であるあなたがたにはそれができるはずだ。だから、敵を愛しなさい」と言われるのです。敵を愛する愛、それは神の愛であり、イエス・キリストの愛です。神の愛が敵を愛する愛であることは、使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第5章で教えていることであります。新約の274ページです。第5章1節から11節までをお読みします。

 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。

 パウロは、10節で、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」と記しています。はじめの人アダムにあって良き創造の状態から堕落し、神の掟に背いている私たちは、神の敵でもあったのです。しかし、神様は、ご自分の敵である私たちを愛して、御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されました。また、イエス・キリストは、神の敵である私たちを愛して、十字架の死を死んでくださいました。敵を愛する愛、それは父なる神の愛であり、イエス・キリストの愛であるのです。そして、その敵こそ、かつての私たちであったのです。イエス様は、神の敵であったにもかかわらず、神様から愛されている私たちに対して、「敵を愛しなさい」と言われるのです。そしてイエス様は、聖霊によって、神の愛を私たちの心に注いでくださって、敵を愛することができるようにしてくださるのです(ローマ5:5参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の112ページです。

 29節から31節までをお読みします。

 「あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」

 ここで命じられていることも、生まれながらの私たちには受け入れがたいことです。私たちは頬を打たれれば、打ち返したいと思う。それができなければ、打たれないように身構える。また、上着を奪い取られたら、下着は取られないようにする。奪う者がいれば、取り戻したいと思う。それができなければ、これ以上奪われないようにする。しかし、イエス様は、「あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。あなたの持ち物を奪う物から取り戻そうとしてはならない」と言われます。イエス様はそのように命じることによって、憎しみの連鎖を断ち切るようにと言われるのです。先程の「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」という戒めも、憎しみの連鎖を断ち切るための戒めであります。相手が自分を憎むからと言って、自分も相手を憎むならば、憎しみに生きる人が一人増えたことになります。しかし、自分を憎む人に親切にするなら、私たちは憎しみの連鎖を断ち切ることができるのです。少なくとも、私たち自身が相手の憎しみに取り込まれてしまうことはないのです。呪う者を祝福する。侮辱する者のために祈ることによって、私たちは、憎しみから自分の心を守ることができるのです。ほかの頬を向けること。下着をも拒まないこと。奪われた持ち物を取り戻そうとはしないこと。そのような苦しみを主体的に受けることによって、私たちは憎しみから自由になることができるのです。そして、ここに神の愛の自由があるのです。相手に左右されない自由な、主体的な愛、それがイエス・キリストにおいて示された神の愛であるのです。

 31節でイエス様は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と言われます。これは黄金律、ザ・ゴールデン・ルールと呼ばれる教えです。『マタイによる福音書』では、山上の説教の結論として記されています(マタイ7:12参照)。『ルカによる福音書』では、「求める者には、誰にでも与えなさい」という御言葉と結びついて記されているようです。ですから、ここでの「求める者」は「施しを求める者」のことであると言えます。私たちは、お腹が空いたら、何か食べたいと思う。喉が渇いたら、何か飲みたいと思う。着る物がなく寒ければ、何か着たいと思う。そのことを知っている者として、求める者には、誰にでも与えるようにとイエス様は言われるのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。この御言葉は、黄金律と言われるように、さまざまな場面で応用ができます。そのときに大切なことは、他人も自分と同じ人間であることを心に留めて、他人の立場に自分の身を置いて考えてみること。そして、自分がしてほしいと望むことを他人にすることです。これが「愛」と言えるのではないかと思います。愛とは、「自分がしてもらいたいと思うことを、他人にもすることである」のです。他人を愛するには、自分の心と語り合うことが必要であるのです(マタイ22:39「隣人を自分のように愛しなさい」参照)。

 32節から36節までをお読みします。

 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたがにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」

 ここで「罪人」という言葉が何度も出て来ますが、「罪人」とは「神様を知ろうとはしない人々」のことです。私たちに当てはめれば、「イエス・キリストを信じようとしない世の人々」のことです。イエス・キリストを信じようとしない世の人々も、自分を愛してくれる人を愛している。世の人々も、自分によくしてくれる人によくする。世の人々も、返してもらうことを当てにして人に貸している。しかし、そこには、「何の恵みもない」とイエス様は言われます。「どんな恵みがあろうか」とは、言い換えれば、「神の恵みがない」ということです。つまり、世の人々の関係は、人間だけで完結しているわけです。自分によくしてくれる人に、自分もよくする。そこに神様が介入する余地はありません。しかし、お返しのできない人によくするならば、その自分のよい行いに、神様が報いてくださるのです(箴19:17「弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること。主はその行いに報いてくださる」参照)。イエス・キリストを信じる私たちは、神様からいただく恵みをも考慮にいれて、人と接しなくてはならないのです。イエス様は、「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と言われます。私たちはイエス・キリストにあって神の子とされています。イエス・キリストを信じる私たちには法的に神の子としての身分が与えられているのです。その私たちが敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸すならば、実質的にも神の子となるのです。私たちは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸すことによって父なる神とそっくりな神の子となるのです。父なる神様は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いお方であります。それゆえ、イエス・キリストにあって神の子とされた私たちも情け深い者となることが求められているのです。私たちの父なる神が慈しみ深いように、私たちも慈しみ深い者となることが求められているのです。

 『週報』の「礼拝順序」の下に、参考として、父なる神の慈しみに生きた人々を挙げておきました。父なる神の慈しみに生きられた御方、それは神の御子イエス・キリストであります。イエス様は、ご自分を十字架につける者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られました(ルカ23:34)。また、その弟子であるステファノは、自分に石を投げつける人々のために、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました(使徒7:60)。また、使徒パウロは、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られても勧めの言葉を語りました(一コリント4:12参照)。『ヘブライ人への手紙』の宛先の信徒たちは、財産を奪われても、喜んで耐え忍びました(ヘブライ10:34参照)。このような人々は、私たちにとっての模範であり、大きな励ましであると思います。

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