貧しい人々は幸いである 2025年2月09日(日曜 朝の礼拝)

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貧しい人々は幸いである

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 6章17節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平地にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
6:18 イエスの話を聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒やされた。
6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人を癒やしたからである。
6:20 さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。/「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は、幸いである/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは飢えるようになる。/今笑っている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」ルカによる福音書 6章17節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が祈るために山に行き、夜を徹して祈られたこと。イエス様が山の上で、弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名付けられたことを学びました。今朝の御言葉はその続きとなります。

 イエス様は、弟子たちと一緒に山から下りて、平地にお立ちになりました。そこには、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来た大勢の弟子とおびただしい民衆がいました。彼らはイエス様のお話を聞くために、また病気を治してもらうために来ていたのです。イエス様は、病気や汚れた霊に悩まされていた人々を癒されました。イエス様から主の力が出て触れた人は皆、癒されたのです。イエス様は、病気や汚れた霊に悩まされていた人々を皆、癒されたうえで、お話しになります。イエス様は、先ず病気の人を治してからお話しになるのです。

 今朝の御言葉は、イエス様が山から下りて、平地で教えられたことから「平地の説教」と呼ばれています。『マタイによる福音書』の第5章から第7章に渡って記されているイエス様の教えを「山上の説教」と呼ぶのに対して、『ルカによる福音書』の第6章に記されている教えを「平地の説教」と呼びます。イエス様は、平地の説教を、弟子たちだけではなく、イエス様のお話を聞くために来た民衆にもお語りになりました(ルカ7:1参照)。同じことが礼拝の説教においても言えますね。礼拝の説教は、イエス・キリストの弟子たちだけではなく、礼拝に出席している未信者(求道者)にも語られているのです。

 イエス様は、目を上げ、弟子たちを見てこう言われました。20節後半から26節までをお読みします。

 「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる。今、泣いている人々は、幸いである/あなたがたは笑うようになる。人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたはもう慰めを受けている。今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは悲しみ泣くようになる。皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 このイエス様の御言葉は、20節から23節までの幸いの言葉と24節から26節までの災いの言葉に分けることができます。しかも、幸いと災いがそれぞれ対応する形で記されています。「貧しい人々」と「富んでいる人々」、「飢えている人々」と「食べ飽きている人々」、「泣いている人々」と「笑っている人々」というように、対応するかたちで幸いと災いが記されているのです。このような構造を念頭において、幸いの言葉から見ていきたいと思います。

 「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである」。「貧しい人々」とは、経済的に貧しい人々というだけではなくて、貧しさのゆえに、神様に依り頼む人々のことです。そして、その貧しい人々こそ、イエス様の弟子たちであるのです。イエス様は、ご自分の弟子である私たちを「貧しい人々」と呼び、「あなたがたは幸いである」と言われます。なぜなら、「神の国はあなたがたのものである」からです。「神の国」とは「神の王国」「神の王的な御支配」のことです。神の国、神の王的な御支配は、神がメシアとされたイエス・キリストにおいて到来しました。私たちは、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、神の王的な支配に生きる者たちとされているのです。細かいことを言いますが、「神の国はあなたがたのものである」は現在形で記されています。イエス・キリストの弟子である私たちは、今既に神の王国(神の命と恵みの支配)に生きる者とされているのです。

 イエス様は、弟子である私たちを「貧しい人々」と呼びました。このイエス様のお言葉を聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。「私は貧しくない」と思われるでしょうか。確かに、「日本に住んでいる私たちの貧困は相対的な貧困であり、発展途上国に見られる絶対的な貧困ではない」と言われます(相対的な貧困とは、その国の地域の水準の中で比較して、大多数よりも貧しい状態のことを言う。絶対的な貧困とは、人として最低限の生活が送れず、生きること自体が困難な状態を言う)。しかし、イエス様のお話を聞くために、礼拝に集まった私たちは、神様に依り頼む貧しい人々であるのです。私たちは、神様に依り頼まずには生きてはいけないと思わされたからこそ、つまり、自分は貧しい者であることを痛感させられたからこそ、イエス・キリストを信じたのです。また、自分が貧しい者であると知っているからこそ、今朝も、私たちはイエス・キリストの教会として集っているのです。

 「今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる。今、泣いている人々は、幸いである/あなたがたは笑うようになる」。「あなたがたは満たされる」、「あなたがたは笑うようになる」は、いずれも未来形の受動態で記されています。つまり、「将来、神様が空腹を満たしてくださるであろう。将来、神様が涙を拭って笑うようにしてくださるであろう」と記されているのです。「神の国はあなたがたのものである」は現在形で記されていました。しかし、「あなたがたは満たされる」「あなたがたは笑うようになる」は未来形で、将来のこととして記されています。このことは、私たちに、「神の国は、すでに到来しているが、いまだ完成していない」ことを思い起こさせます。イエス・キリストの来臨によって、神の国は到来しました。しかし、神の国はいまだ完成していません。神の国が完成するのは、十字架の死から復活して、天に昇り、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストが天から再び来られる日であるのです。イエス・キリストは、栄光の人の子として、生きているものと死んだ者をお裁きになります。そのようにして、神の国を完成してくださるのです。『ヨハネの黙示録』の第21章と第22章に記されている新しい天と新しい地の幻、新しいエルサレムの幻は、完成された栄光の神の国を表しているのです。その完成された神の国において、今飢えている人々は神様によって満たされるようになるのです。また、今泣いている人々は、神様によって笑うようになるのです(黙7:16「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである。」参照)。

 「幸いである」とありますが、この幸いは、いずれも神様の祝福を源とする幸いです。なぜ、貧しい人々は幸いであるのか。それは神の国が貧しい人々のものであるからです。なぜ、飢えている人々が幸いであるのか。それは完成された神の国で神様が満たしてくださるからです。なぜ、悲しんでいる人々が幸いであるのか。それは完成された神の国で神様が笑うようにしてくださるからです。このように、「幸い」とは神様の祝福を源とするものであるのです。そのことを心に留めるのであれば、貧しいこと、飢えていること、悲しんでいることそれ自体が幸いではないことが分かります。貧しさのゆえに神様に依り頼む人々、飢えているゆえに神様に依り頼む人々、悲しんでいるゆえに神様に依り頼む人々が幸いであるのです。なぜなら、神様はそのような人々に神の国を与えてくださったからです。また、完成された神の国において満たしてくださり、笑うようにしてくださるからです。いや、完成された神の国を待つまでもなく、イエス・キリストの教会において、飢えている人が満たされ、泣いている人が笑うようになるのです。『コリントの信徒への手紙一』の第11章を読むと、教会では夕食を共にしていたことが記されています。(一コリント11:17~34参照)。飢えている人は、教会において、主イエスのもてなしを受けて満たされたのです。

 「人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちと同じことをしたのである。」イエス様は、弟子たちがご自分の名のゆえに、迫害を受けることを予告されます。イエス・キリストを信じているゆえに、人々から憎まれ、排斥され、罵られる。それは、人間の常識から言えば避けたい不幸なことです。しかし、イエス様は、「私の名のゆえに、人々から憎まれ、排斥され、罵られるとき、あなたがたは幸いである」と言われます。さらには、「その日には、喜び踊りなさい」と言うのです。なぜなら、「天には大きな報いがある」からです。『ルカによる福音書』の続編である『使徒言行録』の第5章を読むと、最高法院の議員たちが、使徒たちを鞭で打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたことが記されています。そのとき、弟子たちはどうしたでしょうか。『使徒言行録』の第5章41節と42節にはこう記されています。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた」。使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、毎日、イエス・キリストの福音を告げ知らせたのです。それは、使徒たちが、「天には大きな報いがある」というイエス・キリストの約束を信じていたからです。また、イエス様の名のために、人々から憎まれ、排斥され、罵られることは、旧約の預言者たちに連なる者であることを示しています。と言うのも、旧約の預言者たちは、イエス・キリストについて預言する者たちであり、彼らも人々から憎まれ、排斥され、罵られてきたからです(使徒7:52「一体、あなたがたがの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして、今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです」参照)。

 次に、24節以下の災いの言葉について見ていきたいと思います。

 「しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたはもう慰めを受けている」。「富んでいる人々」とは、経済的に富んでいるだけではなく、神様にではなく富に依り頼んでいる人々のことです(ルカ16:13「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」参照)。イエス様の弟子は、貧しい人々のはずですね。自分の貧しさにうちひしがれて、神様だけを頼りとする人のはずです。しかし、貧しい人々であるはずの私たちが神様にではなく、富に依り頼むならば、もう慰めを受けている災いな者となってしまうのです。また、私たちが神様よりも富に依り頼んで、食べ飽きて、笑っているならば、完成された神の国において飢えるようになり、悲しみ泣くようになる災いな者となってしまうのです。さらに、イエス様は、「皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ」と言われます。そのことは、偽預言者のしるしであるからです。かつて偽預言者たちは、人々が聞きたいことを、神の名によって語りました。エレミヤの時代のことを考えれば分かりやすいと思います。預言者エレミヤは、バビロン帝国によってエルサレムが滅ぼされることを預言しました。しかし、偽預言者は、主がバビロン帝国からエルサレムを解放してくださると預言していたのです。人々はエレミヤを迫害し、偽預言者たちを受け入れたのです。「人は聞きたいことだけを聞く」と言いますが、先祖たちは、自分たちが聞きたいことだけを語る偽預言者たちをほめたのです。しかし、イエス・キリストの弟子である私たちは、聞きたいことではなくても、聖書に記されている神の言葉を聞かなくてはならないのです。また、人々が受け入れなくても、イエス・キリストの福音を告げ知らせなくてはならないのです。

 今朝は、そのことを、使徒パウロの言葉から確認して終わりたいと思います。新約の385ページです。『テモテへの手紙二』の第4章1節から5節までをお読みします。

 神の前で、そして生きている者と死んだ者とを裁かれるキリスト・イエスの前で、その出現と御国とを思い、私は厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳障りのよい話しを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。しかし、あなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。

 このパウロの言葉の背景にも、イエス・キリストの幸いの言葉と災いの言葉があります。私たちは人から罵られようとも、天にある大きな報いを期待して、御言葉を宣べ伝えていきたいと願います。 

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