十二人を選ぶイエス 2025年2月02日(日曜 朝の礼拝)

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十二人を選ぶイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 6章12節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:12 その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。
6:13 朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
6:14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
6:15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
6:16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。ルカによる福音書 6章12節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第6章12節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 12節に、「その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた」とあります。「その頃」とは、どのような頃でしょうか。それは、イスラエルの宗教的な指導者である律法学者たちやファリサイ派の人々との対立が深まった頃であります。前回、私たちは、安息日についてのイエス様とファリサイ派の人々との議論を学びました。イエス様は安息日に、右手の萎えている人を癒されました。そのようにして、イエス様は安息日に許されているのは善を行うことであり、命を救うことであると人々に示されたのです。そのようなイエス様の御業を見て、律法学者たちやファリサイ派の人々はすっかり分別を失って、どうしてやろうかと話し合いました。律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、イエス様は安息日を汚す危険人物であったのです。そのような頃、イエス様は、祈るために山に行き、夜を徹して神様に祈られたのです。イエス様は弟子たちの中から12人を選ぶために、夜を徹して祈られたのです。イエス様は、自分を殺そうとする律法学者たちやファリサイ派の人々に対抗するように、弟子たちの中から12人を選ばれたのです。

 13節に、「朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。イエス様は山から降りて、平地で12人を選ばれたのではありません。イエス様は山の上に弟子たちを呼び寄せて、山の上で12人を選ばれたのです。そのことは、イエス様の選びが神様の選びであることを教えています(モーセがシナイ山に登って主にお会いしたイメージ)。イエス様は弟子たちの中から12人を選ばれました。なぜ、12人なのでしょうか。それは、神の民であるイスラエルが12部族から成っていたからです。『創世記』の第35章に、ヤコブの息子たちの名簿が記されています。旧約の56ページです。第35章22節後半から26節までをお読みします。

 ヤコブの息子たちは十二人であった。レアとの間に生まれた子はヤコブの長男ルベン、そしてシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンである。ラケルとの間に生まれた子はヨセフとベニヤミンであり、ラケルの召し使いビルハとの間に生まれた子はダンとナフタリである。レアの召し使いジルパとの間に生まれた子はガドとアシェルである。以上がパラン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである。

 ヤコブは、イスラエルとも呼ばれていました(創世32:29参照)。そのイスラエルの12人の息子たちの子孫が、イスラエル12部族となるのです。イエス様が、弟子たちの中から12人を選ばれたのは、イスラエルの民が12部族から成っていたことに由来するのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の111ページです。

 イエス様は、イスラエル12部族にちなんで、弟子たちの中から12人を選ばれました。そのことによってイエス様は、12人に代表されるご自分の弟子たちが神のイスラエルであることを示されたのです。イエス様はイスラエルのメシア、王であられます。そのイエス様が選ばれた12人こそ、イスラエルの12部族を治める者となるのです。このことは、イエス様が最後の晩餐の席で、使徒たちに言われたことです。第22章28節から30節までをお読みします。新約の152ページです。

 あなたがたは、私が試練に遭ったときも、私と一緒に踏みとどまってくれた人たちである。だから、私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる。

 このように、イエス様が選ばれた12人は、イスラエルの12部族を治めることになるのです(新共同訳参照)。ここでイエス様が言われる「私の国」とは、地上に国土を持つ王国ではなく、霊的な王国のことです(ヨハネ18:36「私の国は、この世のものではない」参照)。「私の国」とは、「イエスはキリストである」と告白し、従う者たちの群れである教会のことです。このことは、使徒パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』の第6章で記していることです。新約の344ページです。第6章11節から16節までお読みします。

 御覧のとおり、私はこんな大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。実際、割礼のある者自身、律法を守っていないのに、あなたがたに割礼を望んでいるのは、あなたがたの肉を誇りたいからです。しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。この基準に従って進む人々の上に、また、神のイスラエルの上に、平和と憐れみがありますように。

 ガラテヤの信徒たちを惑わせていた偽教師たちは、契約のしるしである割礼を受けることを強いていました。偽教師たちは、割礼を受けることによって神のイスラエルの一員になることができると教えていたのです。しかし、パウロは、「割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることである」と言うのです。「新しく造られる」とは、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの聖霊によって上から生まれることです(二コリント5:17「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」、ヨハネ3:5「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」参照)。また、パウロは、「この基準に従って進む人々」と言いますが、「この基準」とは、「自分の肉ではなく、十字架につけられたイエス・キリストだけを誇りにすること」です。イエス・キリストを信じて新しく造られた私たち、十字架につけられたイエス・キリストだけを誇りとする私たちこそ、神のイスラエル、神の民であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の111ページです。

 イエス様はご自分の弟子たちの中から12人を選んで、使徒と名付けられました。「使徒」(アポストロス)とは、「遣わされた者」という意味です。イエス様が12人を「使徒」と名付けられたことは、イエス様が彼らを遣わすために選ばれたことを教えています。第9章には、イエス様が十二人を呼び集め、あらゆる悪霊を追い出し、病気を癒す力と権能をお授けになったこと。そして、神の国を宣べ伝え、病人を癒すために遣わされたことが記されています。イエス様は、ご自分の全権大使として遣わすために12人を選ばれたのです。それは、イエス様がこの地上におられる間だけのことではありません。イエス様は、十字架の死から復活して、天に昇った後のことも考えて、12使徒を選ばれたのです。イエス様はご自分の働きを引き継ぐ者として、弟子の中から12人を選び、使徒と名付けられたのです。

 14節から16節には、イエス様が選ばれた12人の名簿が記されています。

 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

 シモンとヤコブとヨハネについては、第5章1節から11節に記されていました。イエス様は、ガリラヤ湖の漁師であったシモンとヤコブとヨハネを、人間をとる漁師にされました。イエス様は、シモンにペトロという名を付けられました。「ペトロ」とは「岩」という意味です。イエス様は、シモンが岩のような確かな人物になることを見越して、ペトロと名付けられたのだと思います(ヨハネ1:42「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」、使徒2:14参照)。

 「マタイ」とありますが、「マタイ」は徴税人でした(マタイ10:3「徴税人のマタイ」参照)。第5章27節から32節に、イエス様が徴税人のレビを弟子にしたことが記されていました。レビとマタイは同一人物であると考えられています。マタイは「神の賜物」という意味のあだ名であると考えられているのです。このマタイと並んで、「熱心党と呼ばれたシモン」と記されています。「熱心党」とは、律法に対する熱心から、異邦人の支配に反対していた人たちです。イエス様が選ばれた12人の中には、異邦人の手先となって働く徴税人のマタイもいれば、異邦人の支配に反対する熱心党のシモンもいました。このことからも分かるように、この12人はそれぞれに異なる経歴や個性をもった12人です。しかし、一つ共通していることがあります。それは、イエス様の弟子であり、イエス様から選ばれた者であるということです。私たちも、それぞれに異なる経歴や個性をもっています。それは、神様がそれぞれに与えてくださった賜物であります。しかし、私たちにも一つ共通していることがあります。それは、私たちがイエス・キリストの弟子であり、イエス・キリストから選ばれた者であるということです。もちろん、私たちは、イエス・キリストの使徒ではありません。使徒職は、継承されない、一代限りのものです(ただし、ローマ・カトリック教会は、使徒職が教皇によって継承されていると主張する。彼らの主張によれば、初代ローマ教皇はペトロである)。しかし、私たちは、使徒たちの証言である新約聖書に基づいて、イエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒的な教会であると言えます(ニケア信条「私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます」参照)。私たちは、週の初めの日ごとに、教会として集まり、礼拝をささげています。それは気が合うからではなく、主イエス・キリストの弟子として選ばれた者たちであるからです。イエス様は、無学な普通の人であるペトロとヨハネを選ばれたように、無学な普通の人である私たちを選んでくださいました(使徒4:13参照)。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです(一コリント1:26~31参照)。私たちは神の一方的な恵みによってイエス・キリストの弟子として選ばれたのです。

 12人の名簿の最後に、「それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダであった」と記されています。イエス様が選ばれた12人の中に、裏切り者となるイスカリオテのユダが含まれていたのです。このことを私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。一つの考え方は、「イエス様は人を見る目がなかった」ということです。しかし、そのように言うのは酷に思います。「後(のち)に裏切り者となった」とあるように、このときはまだ、ユダはイエス様を裏切ろうとは思っていなかったからです。そのように言われても、イエス様は神の子であるのに、イスカリオテのユダの裏切りを見抜くことができなかったのだろうかと疑問に思います。『ヨハネによる福音書』の第6章によれば、イエス様は最初からユダが裏切ることを知っていました。新約の173ページです。第6章64節には、こう記されています。「イエスは最初から、信じない者が誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられた」。また、第6章70節と71節にはこう記されています。「すると、イエスは言われた。『あなたがた12人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」。この『ヨハネによる福音書』の記述によると、イエス様はイスカリオテのユダが裏切り者になることをご存じのうえで選ばれたのです。そして、ここに、イエス様が夜を徹して神様に祈られた理由があるのです。イエス様は最初から夜を徹して祈るつもりではなかったと思います。しかし結果として、夜を徹して祈ることになりました。それは、祈りの中で神様から示された12人の中に、後に裏切り者になるイスカリオテのユダが含まれていたからだと思います。イエス様は後に裏切り者となるイスカリオテのユダのために、夜を徹して祈られたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の111ページです。

 イエス様が選ばれた12人の中から裏切り者が出たことは、地上の教会が完全ではないことを教えています。イエス様が捕らえられた夜、使徒たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。ペトロと名付けられたシモンも、我が身かわいさに、イエス様との関係を三度否定して、泣き崩れることになります。そのような使徒たちに、復活されたイエス・キリストは出会ってくださいました。そして、12使徒に、約束の聖霊を与えて、復活の証人としてくださったのです。そのようにして、イエス・キリストは、使徒たちの証言のうえにご自分の教会を建ててくださったのです(使徒2章、マタイ16:18「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」参照)。私たちも地上の教会であり、さまざまな弱さや欠けを抱えています。しかし、その私たちに復活されたイエス・キリストは出会ってくださり、力を与えて、立ち上がらせてくださいます。復活して、今も生きておられるイエス・キリストが私たちをご自分の教会としてふさわしく建て上げてくださるのです。

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