安息日の主イエス 2025年1月26日(日曜 朝の礼拝)
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安息日の主イエス
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 6章1節~11節
聖書の言葉
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 すると、ファリサイ派のある人々が、「なぜ、あなたがたは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、祭司のほかには食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒やされるかどうか、うかがっていた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われると、その人は起き上がって立った。
6:9 イエスは言われた。「あなたがたに尋ねるが、安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、一同を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。
6:11 しかし、彼らはすっかり分別を失って、イエスをどうしてやろうかと話し合った。ルカによる福音書 6章1節~11節
メッセージ
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前回(1月12日)私たちは、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」ことを学びました。「新しいぶどう酒」とはイエス様によって結ばれた新しい契約の祝福のことです。また、「新しい革袋」とは新しい契約の祝福に生きる私たちの生活様式(ライフスタイル)のことです。新しい契約の祝福の最たるものは罪の赦しと神様が共にいてくださることです。私たちは罪を赦されて神様と共に歩む者として、喜びと感謝をもって歩んでいくべきであるのです。そのとき私たちは、「新しいぶどう酒を新しい革袋に入れている」と言えるのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
1、安息日とは
1節に、「ある安息日に」とあります。また、6節にも、「ほかの安息日に」とあります。今朝の御言葉は、「安息日」に起こった出来事です。ですから、今朝は最初に安息日についてお話しいたします。安息日とは、週の終わりの日、土曜日のことです。もう少し正確に言うと、金曜日の日没から土曜日の日没までのことです。安息日については、十戒の第四戒に記されています。『出エジプト記』の第20章8節から11節までをお読みします。旧約の117ページです。
安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日の間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福してこれを聖別されたのである。
この掟によって、六日間働いて、七日目は休むという生活のリズムが生まれました。六日間働いて、七日目は休んで、神様を礼拝する。そのようにして、イスラエルの民は安息日を神様の日として聖別し、神様の安息にあずかったのです。ここでは、安息日を覚えて、聖別する根拠が、神の創造の御業に帰されています。主が六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息されたゆえに、私たちも六日の間働いて、七日目は休息し、神様を礼拝するのです。休息することと神様を礼拝することは一体的な関係にあります。私たちは神様を礼拝することによって神様の安息にあずかるのです。イスラエルの民は、神の創造の御業に心を向けて、神様を礼拝したのです(レビ23:3、4参照)。
十戒は、『申命記』の第5章にも記されています。そこを読むと、安息日を聖別する根拠が、『出エジプト記』とは違うことに気がつきます。『申命記』の第5章12節から15節までをお読みします。旧約の274ページです。
安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じられたとおりに行いなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛やろばなどすべての家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。そうすれば、男女の奴隷も、あなたと同じように休息できる。あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。そのため、あなたの神、主は、安息日を守るようあなたに命じられたのである。
『申命記』では、安息日を聖別する目的が、「男女の奴隷も同じように休息できる」ためだと記されています。そして、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷であったこと。その奴隷状態から主が導き出してくださったことを思い出すようにと言うのです。『申命記』によれば、安息日に心を向けるべきは、エジプトの奴隷状態から導き出された主の贖いの御業であるのです。
『出エジプト記』の第20章と『申命記』の第5章によれば、安息日は、神の創造の御業と神の贖いの御業に心を向けて、神様を礼拝する日であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の110ページです。
2、安息日の主イエス
ある安息日に、イエス様が麦畑を通っておられたとき、弟子たちは穂を摘み、手でもんで食べていました。すると、ファリサイ派のある人々が、「なぜ、あなたがたは安息日にしてはならないことをするのか」と言いました。他人の麦畑に入って、手で穂を摘んで食べること自体は、律法で許されていることでした。『申命記』の第23章26節にはこう記されています。「隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない」。ですから、イエス様の弟子たちが麦畑の穂を摘み、手でもんで食べること自体は、問題なかったのです。問題は、それが安息日に行われたことであったのです。今朝の御言葉にも「ファリサイ派の人々」が出て来ます。「ファリサイ派の人々」とは、神の掟を熱心に守っていたまじめな人たちです。先程、確認したように、安息日には「どのような仕事もしてはならない」と命じられていました。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちが手で穂を摘んだことが「刈り入れ」にあたり、「手でもむ」ことが「脱穀」にあたると考えたのです。それで、ファリサイ派のある人々は、イエス様と弟子たちに、「なぜ、あなたがたは安息日にしてはならないことをするのか」と言ったのです。
イエス様はこうお答えになりました。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、祭司のほかには食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」。
ダビデは自分と供の者たちの空腹を満たすために、祭司のほかに食べてはならないパンを取って食べ、供の者たちにも与えました。これは律法違反です。供えのパンは祭司のものであるからです(レビ24:5~9参照)。しかし聖書は、ダビデが自分と供の者たちの空腹を満たすために、供えのパンを食べたことを何ら非難していません(サムエル上21章参照)。そうであれば、ダビデより大いなる者であるイエス様が、弟子たちの空腹を満たすために、麦の穂を与えたとしても非難すべきではないのです(ルカ20:41~44「ダビデの子についての問答」を参照)。
イエス様は、ファリサイ派の人々に、こう言われます。「人の子は安息日の主である」。ここでの「人の子」とは、イエス様御自身のことです。「安息日の主」は天地万物を造り、イスラエルを奴隷の家から導き出した神様です。しかし、イエス様は、「安息日の主は私である」と言われたのです。イエス様は安息日によって縛られる御方ではなくて、イエス様が安息日に何をすべきで、何をすべきでないかを定める主であるのです。では、イエス様は安息日に、何を求めておられるのでしょうか。そのことが、6節以下の「ほかの安息日」の出来事に記されています。
3、善を行い、命を救う安息日
ほかの安息日に、イエス様は会堂に入って教えておられました。そこに右の手の萎えた人がいました。「右の手」は利き手であり、生活を支える手です。その右の手が萎えた人がいたのです。律法学者たちとファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエス様が安息日に病気を癒されるかどうか、うかがっていました。「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と定められていました。その仕事の中に、癒しの業も含まれていたのです。ただし、命の危険が迫っている場合は安息日でも癒しの業をすることは許されていました。ファリサイ派の人々の考えでは、右手の萎えた人は命の危険が迫っているとは言えないので、イエス様が癒したならば、安息日の掟を破ったことになるのです。そして、律法によれば、安息日の掟を破った者は、石打の刑、死刑であったのです(出エジプト31:16「安息日に仕事をする者はすべて、必ず死ななければならない」参照)。
イエス様は、律法学者たちやファリサイ派の人々の考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われました。どうやら、皆座っていたようです。右手の萎えた人はイエス様の言葉に従って起き上がって立ちました。このようにして、イエス様は、皆の関心を右手の萎えた人に向けさせるのです。イエス様はこう言われます。「あなたがたに尋ねるが、安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。ここでの「善を行うこと」「命を救うこと」は、右手の萎えた人を癒すことです。他方、「悪を行うこと」「滅ぼすこと」は、右手の萎えた人を癒さないことです。そのような二者択一の問いを、イエス様は突きつけるのです。ある説教者は、「イエス様は『安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、何もしないことか』とは尋ねられなかった」と言います。そして、「もし、イエス様がそのように尋ねたら、ファリサイ派の人々は『何もしないことです』と答えたであろう」と言うのです。しかし、イエス様は、「善を行うことか、悪を行うことか」の二者択一を迫られました。それは、何もしないことが悪を行うことであるからです。『ヤコブの手紙』に記されているように、「なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人にとって罪」であるのです(ヤコブ4:17)。そしてここに、イエス様が右手の萎えた人を癒さずにはおれない理由があったのです。
安息日とは、人間が仕事を休んで、神様を礼拝し、命を回復する日であります。ですから、安息日にふさわしいのは、善を行うことであり、命を救うことであると人々は考えたと思います。その人々を見回してから、イエス様は、右手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。ここで、イエス様は言葉を発しただけです。手を触れたとか、医療行為と見なされることはしていないのです。しかし、その人がイエス様に言われたとおり、手を伸ばすと、手は元どおりになったのです。イエス様は安息日の主として、右手の萎えている人を癒して、善を行い、命を救われたのです。
それを見た律法学者たちとファリサイ派の人々はすっかり分別を失って、イエス様をどうしてやろうかと話し合いました。律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、イエス様は安息日を汚す危険人物であるのです。
結、キリスト教安息日としての主の日
新約聖書を読むと、週の初めの日に、イエス・キリストが栄光の体で復活して、弟子たちに現れてくださったことが記されています(ルカ24:1、13参照)。また、弟子たちが、週の初めの日を「主の日」と呼んで、礼拝をささげていたことが記されています(使徒20:7、黙1:10参照)。主の日は、新しい契約の祝福に生きる私たちにとっての安息日であるのです。このことは、ウェストミンスター小教理問答の問59が告白していることでもあります。
問59 神は、七日の内のどの日を、週ごとの安息日に指定されましたか。
答 神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日に指定されました。そしてそれ以降は、世の終わりまで継続して、週の第一日を安息日に指定されました。これがキリスト教安息日です。
イエス・キリストが十字架の死から復活されるまで、安息日は週の終わりの日(土曜日)でした。しかし、イエス・キリストが十字架の死から復活されてからは、安息日は、週の初めの日(日曜日)になりました。それは、復活されたイエス・キリストこそ、安息日の主であるからです。私たちは、イエス・キリストによって罪の奴隷状態から贖われた者として、また、イエス・キリストにあって新しく造られた者として、週の初めの日(日曜日)に教会に集い、礼拝をささげているのです。イエス・キリストの復活以降、安息日が週の終わりの日(土曜日)から週の初めの日(日曜日)に変わったことには象徴的な意味があります。キリストの復活まで、神の民は安息日の祝福を目指して一週間を歩みました。しかし、キリストの復活以降、神の民は安息日の祝福を携えて一週間を歩むようになったのです。週の初めの日が安息日であることは、一週間全体が安息日の祝福に包まれていることを教えています(週のはじめの日は一週間の初穂である)。それゆえ、私たちにとって、すべての日が、善を行い、命を救うのにふさわしい日となったのです。私たちは、週の初めの日に、主イエス・キリストの安息にあずかる者として、すべての日において善を行う者でありたいと願います。