私たちの主であり、師であるイエス 2024年12月29日(日曜 朝の礼拝)
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私たちの主であり、師であるイエス
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 13章1節~17節
聖書の言葉
13:1 過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。
13:2 夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。
13:3 イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。
13:5 それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来られると、ペトロは、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とお答えになった。
13:9 シモン・ペトロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11 イエスは、ご自分を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13:12 こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。
13:13 あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。
13:14 それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。
13:15 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
13:16 よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。
13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。ヨハネによる福音書 13章1節~17節
メッセージ
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今朝は、羽生栄光教会伝道開始45周年を記念する礼拝です。私たち羽生栄光教会は、1979年12月30日に伝道所として設立し、1980年1月1日の元旦礼拝をもって伝道を開始しました。2025年1月1日をもって45周年となるのですが、少し早めに、記念礼拝をささげていることになります。羽生栄光教会の歩みが45年間守られ、導かれたことを主に感謝したいと思います。主イエス・キリストは、信仰に熱心な二家族(のちに三家族)を用いて、羽生の地に、改革派教会を立ててくださいました。また、御言葉の教師たちを遣わしてくださり、長老と執事を立てて、キリストの教会として、今日まで導いてくださいました。それはひとえに、主の恵みと憐れみによることであります。その主の恵みと憐れみに感謝して、私たちは今朝も、イエス・キリストの御名によって礼拝をささげているのです。
先程は、『ヨハネによる福音書』の第13章1節から17節までをお読みしました。今朝はこの箇所から、「私たちの主であり、師であるイエス」がどのような御方であり、弟子である私たちに何を求めておられるのかを教えられたいと願います。
今朝のお話は、過越祭の前日の夕食のときの出来事です。イエス様は弟子たちと食事を共にしておられました。この時のイエス様のお気持ちはどのようなものだったのでしょうか。それを知る手がかりが1節と3節に記されています。1節にこう記されています。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」。「この世から父のもとへ移るご自分の時」とは、イエス様が十字架に上げられ、死者の中から上げられ、天に上げられる時のことです。イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊として、過越祭の当日に、十字架のうえでほふられます。そのようにして、イエス様はご自分の民を罪から贖ってくださるのです。「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」とありますが、それはイエス様が、十字架の死に至るまで、ご自分の者たちを愛し抜かれたということです。私たちは、イエス様の言葉を、十字架の死に至るまで、私たちを愛し抜いてくださった御方の言葉として聞かなくてはならないのです。また、3節にこう記されています。「イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」。父なる神が、イエス様の手に委ねられたすべてのこととは何でしょうか。それは、イエス様が十字架に上げられることによって成し遂げられる神の民の救いです。イエス様は、神の民の救いを成し遂げるために、神のもとから来られました。そして、イエス様は神の民の救いを成し遂げて、神のもとへ帰ろうとしていることを悟られたのです。イエス様は、明日の過越祭には、ご自分が十字架に上げられ、ご自分の民の救いを成し遂げることをご存知であるのです。神の民はイエス様の民でもあるのです(ヨハネ17:6「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました」参照)。イエス様は、夕食の席から起き上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。そして、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められたのです。当時、他人の足を洗うことは、奴隷の仕事でした。その奴隷の仕事を、イエス様はご自分の弟子たちに対してしてくださったのです。弟子たちは驚いたと思います。弟子たちは驚きながらも、イエス様に足を洗っていただいたのです。しかし、シモン・ペトロはこう言いました。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」。ペトロはイエス様のことを「主」と呼びます。イエス様は主人であり、ペトロはその僕であるのです。主人が僕の足を洗うことなどあってはならないことです。しかし、イエス様は答えてこう言われます。「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」。このイエス様の言葉は大切です。イエス様が弟子たちの足を洗うことには、今は分からないが、後で分かるようになる深い意味が込められているのです。ペトロは、「私の足など、決して洗わないでください」と言いました。ペトロは、主であり、師であるイエス様が自分の足を洗うことに堪えられなかったのです。そのペトロにイエス様はこう言われます。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」。そのように言われてペトロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言いました。ペトロは、イエス様との関わりがなくなっては大変だと思い、「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言うのです。イエス様はこう言われます。「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」。さて、ここで、イエス様が弟子たちの足を洗ったこと、イエス様の洗足(せんそく)の意味について考えてみたいと思います。イエス様の洗足は、何を意味しているのでしょうか。結論から申しますと、イエス様の洗足は、イエス様が十字架の血潮によって、弟子たちの罪を清めてくださることを意味しています。イエス様が十字架の血潮によって、弟子たちの罪を清めてくださること。このことがイエス・キリストの御名による水の洗い(洗礼)として表されるようになりました。ハイデルベルク信仰問答の問69は「あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲が/あなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか」と問い、次のように告白しています。「次のようにです。キリストがこの外的な水の洗いを制定された時/約束なさったことは、わたしがわたしの魂の汚(けが)れ、すなわち、わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ。そして、それは日頃体の汚(よご)れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです」。ここで心に留めていただきたいことは、イエス・キリストの御名による水の洗いは、イエス・キリストの血と霊による魂の清めを表しているということです。イエス・キリストが弟子たちの足を水で洗ったことは、イエス・キリストの御名による洗礼を、さらには、イエス・キリストの十字架の死を意味しているのです。イエス・キリストに足を洗っていただくことは、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けることであります。ですから、ペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言ったとき、イエス様は、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」と言われたのです。イエス・キリストと私たちの関係は、私たちがイエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じて洗礼を受けたこと基づいているわけです。しかし、このように考えてきますと、10節のイエス様の御言葉の意味がよく分からなくなります。イエス様は、「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言われました。私たちは、イエス様が弟子たちの足を洗ったことをイエス様の御名によって洗礼を受けることであると解釈しました。しかし、10節では、体を洗ったことが「洗礼」を意味しており、足を洗うことが「日々罪を告白して赦しをいただくこと」を意味しているのです。イエス様が弟子たちの足を洗うことの意味が、イエス様の御名によって洗礼を受けることから、イエス様の御名によって日々罪を告白し、赦しをいただくことに変わっているのです。このことは、私たち自身のことを考えるならばよく分かると思います。私たちは、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けました。水に象徴されるイエス・キリストの血と霊によって魂の汚(けが)れを洗っていただいたのです。しかし、私たちには依然として罪が残っており、日々罪を犯してしまいます。それゆえ、私たちは主の日の礼拝ごとに罪を告白し、三位一体の神の御名によって罪の赦しの宣言を受けているのです。そのようにして、私たちは、イエス様に足を洗っていただいているのです。
イエス様は、「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、もう洗う必要はない」とは言われませんでした。そうではなくて、「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われたのです。私たちは、何度も洗礼を受ける必要はありません。私たちはただ一度の洗礼によって、すべての罪を赦され、正しい者とされています(テトス3:5~7参照)。しかし、私たちには罪が残っていて、日々罪を犯してしまうので、日々足を洗っていただく必要があるのです。私たちは日々イエス・キリストの御名によって罪を告白し、罪の赦しをいただかなくてはならないのです(一ヨハネ1:5〜2:2参照)。
イエス様は、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言われました。このイエス様の御言葉は、ご自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダを念頭に置いてのものです。イエス様は、イスカリオテのユダの足を洗ってくださった後で、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と警告の言葉を語られたのです。そして、この御言葉は、私たちに対する警告でもあります。イエス・キリストの御名によって洗礼を受けても、イエス様のもとにとどまらない人は、清い者とは見なされないのです(ヨハネ15:16「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」参照)。主イエス・キリストの洗礼を受けた者は、主イエス・キリストの晩餐にあずかり続ける必要があるのです(主の晩餐は洗礼あるいは信仰告白の誓約の更新としての意味を持つ)。
イエス様は、弟子たちの足を洗うと、上着を来て、再び席に着いてこう言われました。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。ここでイエス様は、弟子たちの足を洗ったことを、自分を低くして他者に仕える愛の行為として語っています。このことは、イエス様が弟子たちに与えられた新しい戒めでもあります。第13章34節で、イエス様は弟子たちにこう言われます。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この新しい戒めは、イエス様から足を洗っていただいた弟子たちに、私たちに与えられた戒めであります。そのことを念頭に置くならば、このように言い換えることができます。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに足を洗い合いなさい。私があなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」。イエス様が弟子たちの足を洗ったことは、十字架の死に至るまでの弟子たちへの愛を表しているのです。そして、このことも後(あと)になって、天に上げられたイエス様から聖霊を与えられて分かるようになることであるのです。聖霊を与えられた初めて、私たちはイエス・キリストの愛を自分に対する愛として受けとめることができるのです。
今朝の御言葉の最後、第13章16節と17節で、イエス様はこう言われます。「よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。私たちは、イエス様が弟子たちの足を洗ったことの意味を学びました。その意味とは、イエス・キリストの十字架の血潮による罪の清めであり、それに基づく生涯に一度だけの洗礼と、日々罪を告白して赦しにあずかることであります。さらには、自分を低くして、互いに仕え合うこと。イエス・キリストが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うことであるのです。このように、私たちは、イエス様が弟子たちの足を洗ったことの意味について学んだのですが、大切なことは、「そのとおりに実行する」ことであります。イエス様は、「よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされたものは遣わした者にまさるものではない」と言われました。ここで、イエス様は、ご自分と私たちがどのような関係にあるのかを言い表しています。イエス様は主人であり、私たちはその僕です。また、イエス様は遣わした者であり、私たちは遣わされた者であるのです。そのことを私たちは、どのようにして示すことができるでしょうか。それは、イエス様から命じられたことを、そのとおりに実行することによってであります。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」。ここで大切なことは、「私があなたがたにしたとおりに」と言われていることです。私たちがイエス様の御言葉のとおりに実行するためには、イエス様が私たちにしてくださったことに思いを向けなければならないのです。そのとき、私たちは、イエス・キリストを愛する者として、新しい戒めを守り、互いに愛し合うことができるのです(ヨハネ14:23「私を愛する人は、私の言葉を守る」参照)。そして、そのような私たちを、主であり、師であるイエス様は、「幸いである」と言ってくださるのです。そのような幸いに、私たちは生きる者でありたいと願います。