一人のみどりごが私たちのために生まれた 2024年12月18日(水曜 聖書と祈りの会)
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一人のみどりごが私たちのために生まれた
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
イザヤ書 8章23節~9章6節
聖書の言葉
8:23 しかし、抑圧された地から闇は消える。/先に、ゼブルンの地とナフタリの地は/辱められたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう/異邦人のガリラヤに栄光が与えられる。
9:1 闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。
9:2 あなたはその国民を増やし/その喜びを大きくされた。/彼らはあなたの前に喜んだ。/収穫を喜ぶように/戦利品を分けて喜び躍るように。
9:3 彼らの負う軛、その肩の杖、虐げる者の鞭を/あなたがミデヤンの日のように/打ち砕いてくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服は/すべて焼かれ、火の餌食となった。
9:5 一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:6 その主権は増し、平和には終わりがない。/ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。イザヤ書 8章23節~9章6節
メッセージ
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今週の主の日の礼拝において、『イザヤ書』の第7章14節に記されているインマヌエル預言について学びました。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。「インマヌエル」とは「神は我らと共にいる」という意味です。ここで、イザヤは新しい王の誕生を預言しています。そして、その王は「神が我らと共にいる」という祝福をもたらしてくださる王であるのです。この王とは、アハズの次に王となるヒゼキヤのことであると申しました。イザヤのインマヌエル預言は、ヒゼキヤ王によって、ある程度満たされたのです。そして、聖霊によっておとめマリアからお生まれになったイエス・キリストにおいて完全に満たされたのであります。
今朝は、クリスマス特別伝道礼拝を前にしての「聖書と祈りの会」ですので、『イザヤ書』の第8章23節から第9章6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。今朝の御言葉にも、イエス・キリストのことを預言している「メシア預言」が記されています。5節と6節をお読みします。
一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。その主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに。万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。
この「一人のみどりご」、「一人の男の子」は、ヒゼキヤ王であり、さらに言えば、イエス・キリストのことです。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」と聞きますと、私たちは、『ルカによる福音書』の第2章に記されている天使の言葉を思い起こします。イエス様が家畜小屋でお生まれになった夜、主の天使は羊飼いたちにこう言いました。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。この天使の御言葉を思い起こして、ここにイエス様のご誕生が預言されていると読むわけです。確かに、イエス様は、私たちのために生まれたみどりご(赤ちゃん)であり、私たちに与えられた男の子であります。けれども、「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」という御言葉は、王子の誕生だけではなく、王の即位をも意味していると読むことができるのです。『詩編』の第2編は、王の即位の詩編ですが、そこには、「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ」という言葉によって、王の即位が言い表されています。王は特別な意味で神の子であるのです(サムエル下7:14「私は彼の父となり、彼は私の子となる」参照)。
少し前後しますが、第8章23節と第9章1節にこう記されています。
しかし、抑圧された地から闇は消える。先に、ゼブルンの地とナフタリの地は/辱められたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう/異邦人のガリラヤに栄光が与えられる。闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。
ゼブルンの地とナフタリの地が受けた辱めとは何でしょうか。それはアッシリア帝国によって占領され、その住民が捕囚として連れ去られたことです(列王下15:29「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ペレセルが攻めて来た。彼はイヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギリアド、ガリラヤ、およびナフタリの全土を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った」参照)。ゼブルンの地とナフタリの地は、最初にアッシリア帝国によって侵略され、捕囚とされた地域であったのです。ここでアッシリア帝国によって占領され、捕囚とされたガリラヤが「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。それは、アッシリア帝国の占領政策が、イスラエルの民を連れ去るだけではなく、外国人(異邦人)を住まわせるという政策であったからです(列王下17:24参照)。それで、アッシリア帝国によって辱められたガリラヤが、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているのです。イザヤは、アッシリア帝国によって辱められた地に、後に栄光が与えられると預言しました。私たちのために生まれる男の子は、闇の中を歩んでいた民に大いなる光をもたらす王であるのです。イザヤは大いなる光が軍事力によってもたらされると預言しましたが、福音書記者マタイは、イエス様が神の国の福音を宣べ伝えたことによってもたらされたと語ります。実際に、聖書を開いて確認しましょう。新約の5ページです。『マタイによる福音書』の第4章12節から17節をお読みします。
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを去って、ゼブルンとナフタリの地にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現したのである。「ゼブルンの地とナフタリの地/湖沿いの道、ヨルダン川の向こう/異邦人のガリラヤ/闇の中に住む民は/大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に/光が昇った。」その時から、イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
「これは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声によって、メシア、王として即位されたイエス様が、ガリラヤで神の国の福音を宣べ伝えることによって、イザヤの預言は完全に満たされたのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の1059ページです。
私たちのために生まれ、私たちのために即位された王の肩には主権があり、その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれます。その主権は増し、平和には終わりがありません。なぜなら、ダビデの王座と王国は、公正と正義によって立てられ、とこしえに支えられるからです。このようなメシア預言を、完全に満たしてくださるのは、ダビデの子孫として生まれ、十字架と復活によって、天と地の一切の権能を授けられたイエス・キリストだけです。イエス・キリストは、朽ちることのない栄光の体で復活され、天の父なる神の右の座に着かれることにより、ダビデの王権をとこしえに堅く据えられたのです(イエス・キリストの復活と昇天と着座はダビデ契約の究極的な実現である)。そして、ご自分の民に、終わりのない平和、とこしえの平和を与えられるのです。その平和とは、何より神との平和、神の平和であります。クリスマスの夜、天使たちが羊飼いたちに告げたように、御心に適う人に与えられる神の平和であるのです(ルカ2:14「いと高きところには栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ」参照)。また、その平和は、「神が我らと共にいる」というインマヌエルの平和であるのです(イザヤ7:14、マタイ1:23、28:20参照)。
6節の終わりに、「万軍の主の熱情がこれを成し遂げる」とあります。父なる神は、御子イエス・キリストにおいて御自身を示されましたが、そのことは「熱情」においても言えます(ヨハネ1:18、ヘブライ1:2参照)。イエス・キリストにおいて示された神の熱情によって、ダビデの王座はとこしえに堅く据えられ、その民にとこしえの平和が与えられるのです。独り子をお与えになったほどの父なる神の熱情、私たちのために自ら命を捨ててくださったほどのイエス・キリストの熱情によって、私たちはとこしえの平和に生きる者とされているのです。