新しいぶどう酒は新しい革袋に 2025年1月12日(日曜 朝の礼拝)
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新しいぶどう酒は新しい革袋に
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 5章33節~39節
聖書の言葉
5:33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
5:34 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
5:35 しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
5:36 そして、イエスはたとえを話された。「誰も、新しい服から布切れを切り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った布切れも古いものには合わないだろう。
5:37 また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる。
5:38 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。
5:39 古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」
ルカによる福音書 5章33節~39節
メッセージ
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今年も『ルカによる福音書』から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。前回(2024年12月8日)私たちは、イエス様が徴税人のレビを弟子にされたことを学びました。イエス様は、罪人を招いて悔い改めさせるために来た御方として、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりしました。イエス様は、罪を赦す権威を持つ御方として、罪人たちを罪人のままで受け入れられたのです。今朝の御言葉はその続きとなります。今朝の御言葉も、徴税人レビがイエス様のために催した宴会の席でのお話であります。
食べたり飲んだりしている食卓において、人々は、イエス様にこう言います。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。「断食」とは「宗教的な動機で一定の期間、食事を断つこと」を言います。断食は宗教的な苦行であり、敬虔な行為と見なされていました。断食は、自分を苦しめる行為であり、罪を悲しみ、悔い改めていることの表現でありました。律法には、年に1回、第7の月の10日、贖いの日に全国民が身を慎むこと、断食することが定められていました(レビ16:29〜31「身を慎む」の直訳は「自分自身を苦しめる」参照)。バビロン捕囚から帰還した後は、年に4回、断食が行われていたようです(ゼカリヤ8:19「万軍の主はこう言われる。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって歓喜と喜びとなり恵みに溢れる定めの祭りとなる」参照)。贖いの日だけではなく、エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされた日などにも断食をしていたのです。そして、人々が言うには、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は度々断食していたのです。第18章で、イエス様は、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」をお語りになります。そこには、ファリサイ派の人が週に二度断食していたことが記されています。ちなみに、断食と言っても、いろいろな断食があったようです。全く何も食べないで水だけを飲むという断食もあれば、粗食を食べるという断食もあったようです。ともかく、ファリサイ派の人々は、週に二度断食していました。彼らは、律法を守らない人々がいることを悲しんで、神に赦しを求めて断食していたのだと思います。ヨハネの弟子たちが度々断食していたのも、罪を悲しむ、悔い改めの表現としてであったと思います。ヨハネは、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていましたので、その弟子たちも悔い改めとして、度々断食していたのです。しかし、イエス様の弟子たちは、「食べたり飲んだりしていた」のです。今朝のお話は、レビがイエス様のために催した宴会の席でのお話です。食べたり飲んだりしている席で、断食のことを話題にするのは、無粋(ぶすい)であるように思えます。なぜ、人々は、断食のことを話題に持ち出したのでしょうか。それは、32節のイエス様の御言葉と関係があります。イエス様は、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。そうであれば、「イエス様の弟子たちも、悔い改めの表現として断食をすべきではないか」と人々は考えたわけです。「イエス様、あなたは『私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである』と言われました。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしているではありませんか。悔い改めさせるために来たのであれば、断食するのが筋ではないでしょうか」と人々は言ったのです。それに対してイエス様はこう言われます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。イエス様は、ご自分のことを「花婿」にたとえます。また、ご自分の弟子たちを「婚礼の客」にたとえられます。婚礼には祝宴が付きものです。ユダヤでは、婚礼の祝宴は一週間も続き、その期間は断食する義務を免除されたと言われています。イエス様は、レビが自分のために催してくれた宴会を、婚礼の祝宴にたとえられるのです。約束のメシア、救い主であるイエス様と共にいる今は、喜んで食べたり飲んだりするときであり、悲しんで断食するときではないのです。では、イエス様の弟子たちは、断食しなくてもよいのでしょうか。そうではありません。続けて、イエス様はこう言われます。「しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる」。このイエス様の御言葉は、最初の受難予告と言えます。イエス様は、第9章で、ペトロの信仰告白、あなたは「神のメシアです」という信仰告白を受けて、ご自分が指導者たちから排斥され殺され、三日目に復活するメシアであると言われました。イエス様は、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されることをご存知であったのです。そのことを、今朝の御言葉においても、「花婿が取り去られる日が来る」という言葉によって言い表されたのです。花婿であるイエス様が共におられる今は、弟子たちは喜んで食べたり飲んだりしている。しかし、花婿であるイエス様が取り去られる日に、弟子たちは悲しんで断食するようになるのです。イエス様は、断食すること自体を否定されたのではなくて、断食するのにふさわしい時があることを教えられたのです(マタイ6:16~18参照)。
イエス様は、「花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる」と言われました。実際、イエス様が十字架にかけられた日に、弟子たちは断食したと思います。少なくとも、ご馳走を食べることはせず、粗食で済ませたと思います。しかし、そのような断食は長くは続きませんでした。なぜなら、十字架の死から復活されたイエス・キリストが弟子たちに現れてくださったからです。弟子たちは、花婿であるイエス・キリストにお会いして再び喜ぶことになるのです。そして、この喜びは、イエス・キリストが遣わす聖霊によって、もはや取り去られることはないのです(ヨハネ16:22参照)。それは、聖霊において、イエス様がいつも共にいてくださるからです。では、やはり、イエス様の弟子である私たちは断食する必要がないのでしょうか。確かに、新約聖書の中に、何月何日に断食しなさいとか、週に何回断食しなさいという教えはありません(ただし使徒教父文書の『使徒たちの教訓(ディダケ―)』には、週2回、水曜日と金曜日に断食するようにと記されている)。しかし、『使徒言行録』を読むと、弟子たちが断食して祈ったことが記されています。アンティオキア教会は、パウロとバルナバを宣教に遣わすにあたって、断食して祈りました(使徒13:3参照)。また、リストラやイコニオンの教会に、長老たちを立てるときも、断食して祈りました(使徒14:23参照)。ですから、聖霊においてイエス・キリストが共におられるから、断食しなくてよいとは言えないようです。「断食」と「祈り」がペア(一組)で記されていることからも分かるように、断食は自分を空しくして、神様に心を注ぎだすための行為であるのです。私たちは、イエス・キリストの弟子として歩んでいく中で、断食して祈りをささげるのにふさわしいときがあるのです(『教会規定』の「礼拝指針」の第18章「断食の日と感謝の日」を参照)。
断食の問答に続いて、イエス様はたとえを話されました。36節から38節までをお読みします。
そして、イエスはたとえを話された。「誰も、新しい服から布切れを切り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服からとった布切れも古いものに合わないだろう。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。」
新しい布とは、まだ晒していない、水分を含んでいる、縮んでいない布のことです。そのような織りたての布切れを、古い服の継ぎに当てるならば、新しい布切れが古い服を引き裂いてしまいます。ですから、古い服の継ぎに、新しい布を当てることはしません。まして、新しい服から布を切り取ることなどあり得ないことです。また、新しいぶどう酒は発酵する力が強いので、弾力性のない古い革袋に入れるならば、新しいぶどう酒は古い革袋を破ってしまいます。ですから、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならないのです。これらのことは、誰もが知っている常識でした。しかし、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は常識に反することをしていたわけです。彼らは、新しい服から布切れを取って、古い服に継ぎを当てるようなことをしていたのです。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことをしていたのです。つまり、花婿であるメシアが来て、メシアの婚宴が始まっているにもかかわらず、彼らはメシアがまだ来ていないかのように悲しみ、断食していたのです。メシアであるイエス様が来られたことによって、神の国は到来しました。イエス様は、エレミヤが預言していた新しい契約を実現するメシアとして、来てくださったのです。そして、すべての罪人をご自分との親しい交わりへと招いてくださっているのです。そうであれば、断食などしてはいられない。喜んで食卓に着くべきであるのです。しかし、ファリサイ派の人々は、文句をつけるだけで、食卓に着こうとはしないのです。人々は、メシアがまだ来られていないかのように、イエス様の弟子たちにも断食するようにと言うのです。なぜ、人々は、そのように言うのでしょうか。その答えが39節に記されています。
「古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」
このイエス様の御言葉は、メシアの祝宴が始まっているにもかかわらず、メシアが来ていないかのように断食している人々への皮肉の言葉です。「古いものが良い」と言う人のように、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、メシアの到来を待ち望む古い世界にとどまっているのです。しかし、イエス・キリストによって到来した新しい時代、イエス・キリストにおいて神が共にいてくださる新しい契約の時代は、ぶどう酒とは違います。ぶどう酒であれば、古いものが良いでありましょう。しかし、イエス・キリストにおいて実現した新しい契約の祝福は、古い契約の祝福よりもはるかに良いものであるのです(二コリント3章参照)。今朝はそのことを確認して終わりたいと思います。旧約の1221ページ。『エレミヤ書』の第31章31節から34節までをお読みします。
その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ、私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。
イエス・キリストの十字架の血潮によって新しい契約が結ばれました。イエス・キリストにあって私たちは、すべての罪を赦され、神を知る者、神の民とされたのです。そのような新しい契約の祝福を私たちは与えられているのです。ですから、私たちは、イエス・キリストにあって新しく造られたものとして、喜びと感謝をもって歩んで行きたいと願います。