財産を預ける主人、預かる僕(奨励題) 2024年11月17日(日曜 朝の礼拝)
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財産を預ける主人、預かる僕(奨励題)
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マタイによる福音書 25章14節~30節
聖書の言葉
25:14 「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて、旅に出た。早速、
25:16 五タラントン受け取った者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。
25:17 同じように、二タラントン受け取った者も、ほかに二タラントンもうけた。
25:18 しかし、一タラントン受け取った者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠した。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン受け取った者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『ご主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』
25:22 次に、二タラントン受け取った者も進み出て言った。『ご主人様、二タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』
25:24 一タラントン受け取った者も進み出て言った。『ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『悪い臆病な僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、私のお金を銀行に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」マタイによる福音書 25章14節~30節
メッセージ
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天の国を預ける主人、預かる僕 マタイによる福音書25:14-30 (「タラントン」のたとえ)
1.はじめに
弟子たちが見ている前で、主イエスは天に上げられた(使徒言行録1:9)、とルカは伝えています。このたとえも、「主人が旅に出るとき」の話ですので、今を生きる私たちにもあてはめて学ぶことができる教えであります。主はこのたとえ話を、「天の国は・・・」と言って始めていますので、「天の国」を私たちはどう受けとめればよいか考えてみます。
みなさんそれぞれに、聖書から「天の国」について思いめぐらすきっかけになればよいと思います。
2.財産を僕たちに預けて旅に出る主人 25:14-15
主人は、僕たちそれぞれの力に応じて、財産を預けています。しかし、財産をどうしなさいとは語られてはいません。ここでの財産は、それを元手にすれば儲けが出るものというくらいの感覚で扱われているようです。主人は僕の「それぞれの力に応じて一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」の財産を預けています。主人は、代表する僕に一括して預けているのではなく、僕一人一人にその僕に応じたタラントンを預けています。それは、旅に出るにあたり財産を預けることに、僕一人一人に主人の思うところ、期待するところがある、ということが表されているのだと思います。
3.財産を預かった僕の行動 25:15-18
五タラント預かった僕も二タラントン預かった僕も、「早速・・・出て行き、それで商売をして」(16、17)と語られます。「早速」という言葉に注目しましょう。すぐにとりかかったということでしょうが、ここでは、もう少し奥行きのある言葉として使われているようです。このたとえ話がもう少し進んだところで、帰って来た主人が三番目の僕に「臆病な僕だ」(26)と言っています。この「臆病」という言葉は、「早速」という言葉の裏返しのような関係になっています。「臆病」というのは小さなことに恐れを抱いてためらう様子を表しますが、ギリシャ語は、ほかに「怠惰な」とか「ためらう、躊躇する」という意味もあります。「臆病な」僕にくらべ、「早速」出て行った僕は、ためらうことなく出て行った、そういう僕を描いています。主人の思いに応える、そこにためらいがない。だから手をこまねいていることなく「早速」とりかかったのです。この二人の僕は、主人が財産を預けてくれたことを喜んでいることを表しています。主人は留守にしていませんが、主人がいるときの思いとして受けとめて応えようとする僕を、「早速」という言葉が表しています。
この僕は「商売して、ほかに五タラントンもうけ」また同じように「二タラントンもうけ」ました。この商売がどんなことなのかは語られていません。ですから、「商売した」ということについては、もう少し違うとらえ方ができると思います。主が語っている別のたとえが手掛かりになります。それは、「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」(マタイ13:44) 主が教えている「天の国」の意味と価値を見出した人のたとえです。同じようにこの二人の僕は、財産の価値を単なる金額としての価値をこえて、主人の財産の意味すること、財産を預けた主人の思いをわかっていた。それが、預かった財産で「商売した」ことに表れているのです。主人の思いがわかっているので僕は、商売してほかに五タラントン、あるいは二タラントンもうけました。商売してもうけたというのは、僕が主人の思いとつながっており、その思いに応えた結果として、さらに五タラントンを得たのであり、二タラントンということなります。主イエスが、あなたがたが私とつながっており、私があなたがたとつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ、と教えておられる(ヨハネ福音書15:5)ような関係で、主人の財産を豊かにしたのです。
では、三番目の僕はどうしたのでしょうか。「穴を掘り、主人の金を隠した」と語られます。土の中に隠すということで、「財産」を「主人の金」と言い換えていますが、主人が預けた財産を前二人の僕とは異なる受けとめ方をしています。どうしてそのようなことをしたのかは、この後でこの僕が語って明らかになります。
4.帰って来た主人の清算 25:19-30
長い旅から帰って来た主人は僕たちを呼んで「清算」をします。パウロがローマの信徒への手紙で、「私たちは皆、神の裁きの座の前に立つ」(14:10)と教えているところがあります。そして、「一人一人、自分のことについて神に申し開きをすることになるのです」(14:12)と言っています。このたとえの「清算」という言葉は、パウロが言う「申し開き」と、ギリシャ語ではおなじ言葉です。この「清算」というのは単なるお金の勘定ではなく、主人が預けた財産を僕はどうしたか、それを明らかにする、そういう意味の「清算」です。神の裁きの座の前に立って一人一人申し開きをする、それと同じような場面が、このたとえ話で語られています。
五タラントン預けた僕の言葉を受けて主人は、「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。」(21)と言います。そして、二タラントン預けた僕にもまったく同じ言葉が語られます(23)。このことから、主人の評価は、僕が上げた稼ぎの大きさではないことがわかります。「僅かなものに忠実であった」ということで評価しているのです。主人が預けた財産のことを「僅かなもの」と言い、それに忠実であったということで評価しています。留守の間も、僕は主人に忠実にはたらいた、主人の思いに忠実であったわけです。主人の「よくやった」という言葉は、長い旅から帰って来た主人が、留守の間も忠実であった僕たちを見出した喜びがこもっているようです。このあと、主人は再び自分の家を治めることになりますが、その主人の家の祝宴に招き入れられ、多くのものが任されると主人は告げています。
三番目の僕が主人の財産をどう扱ったか見ておきましょう。「恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」(25)と、自ら語っています。なぜ恐ろしくなったのかはその前の節で、「ご主人様。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので」(24)と答えています。主人が旅に出て、僕たちは自分の判断で財産を扱うことになります。その判断のもとにしたのは、主人が財産を預けた意図をそのとおりには受けとめなかったところにありました。主人が財産を預けたのは、それを理由に厳しく取り立てるためであると受けとめたのです。土の中に隠したというのは、この僕が主人の財産に関わらないことにしたということを意味します。主人の思いから自らを切り離してしまったということになるでしょう。(このあとの主人がこの僕に言ったことについては、ここでは扱いません。) 主人は、「役に立たない僕」(30)と評価しています。主人はこの僕を「役に立たない僕」と評価していますが、それは、主人の留守の間、主人の財産に関わらないことを選んだ僕が、「天の国」において「役に立たない僕」であることを自ら示していたからです。
5.「天の国」の教え
では、「僅かなものに忠実である」ということが、「天の国」とどういう関わりになるのでしょうか。また、「天の国」と関わって、主人が預けた「財産」は何を言い表いているのでしょうか。この二つのことを考えていきます。
一タラントンというのは、当時の一日分の賃金で6000日分になります。週休二日の今日であてはめると、一タラントンでおよそ20年分になりますので、僕たちに預けた財産は相当なものだったことになります。しかし、主人はそれを「僅かなもの」と言っています。どういうことなのでしょうか。「僅かなもの」と言ったすぐ後で、「多くのものを任せよう」と言っています(21、23)。このあと任される「多くのもの」と対比させて、預けた財産を「僅かなもの」と言っているようです。エフェソの信徒への手紙でパウロは、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(1:18)と述べています。相当大きな財産ですが、それを「僅かのもの」というほど、僕に任されるものが豊かな栄光に輝いているといことになります。五タラントンとか二タラントンという金額ではその価値を表すことができないものが「天の国」において僕を待っているのです。そういうことで、「僅かなもの」と言ったのでしょう。
しかし、「多くのもの」との対比で「僅かなもの」と言っているだけではないかもしれません。僕に預けたものが、そのとおりの「僅かなもの」であったと考えることもできるように思います。僕に預けた五、二、一という数字は、「僅かなもの」を言い表しています。(参照 マタイ14:17「弟子たちは言った。『ここにはパン五つ、魚二匹しかありません。』」 しかし、これだけをもって例証とするのは無理がありますが・・・。) 「財産」の話に見合う単位として「タラントン」にしたのであって、英語圏の人たちが使う「タレント」とも関わらせて、あまりにも大きな金額に相当する「タラントン」に、私たちは意味を求めすぎるのかもしれません。
大きな決断をしなければならない時は別ですけれども、実際、日々の暮らしにおいて、私たちが主なる神に従う、あるいは主のために行っていることのほとんどは、「僅かなもの」であるといってもよいでしょう。主イエスは食べ物のこと、着る物のことを思い、考えるときに、「まず神の国と神の義を求めなさい」(6:33)と言われました。命のこと、体のことで思う最も日常のことであり、「僅かなもの」の最も身近なものとしての食べ物であり、着る物です。そのことにおいて「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えておられます。また、視野を変えて見るなら、私たちの教会自体もこの世においては「僅かなもの」にすぎない、ともいえます。それは、この「僅かなもの」を世が評価することはまずないからです。しかし、レプトン銅貨二枚を献金箱に投げ入れた貧しいやもめを主イエスは評価してくださいました(マルコ12:41-44)。その婦人もレプトン銅貨二枚を「僅かなもの」と思いながら、主に捧げたのではないかと思います。このことを見ていた主はこの婦人を評価してくださいました。この時の主イエスの評価は、「僅かなものに忠実であった」と言った主人の評価と重なります。このようなことから、「天の国」は、主人が留守の間は、確かに「僅かなもの」として僕に預けられているものということができるでしょう。その「僅かなもの」に「天の国」を見出している、「僅かなもの」に「天の国」の「祝宴」につながる主人の思いを見出しているのが、この二人の僕であるといえましょう。
次に、主人が僕に預けた「財産」について考えてみます。この「財産」という言葉は、イスラエルの民の歴史と主イエス・キリストの救いの完成という終末にまでおよぶ、もう一つの「財産」を聖書は語っています。アブラム(のちにアブラハム)に主なる神が声をかけて示されます。「あなたは・・・私が示す地に行きなさい。・・・地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。」(創世記12:1-3) ここでアブラムに言った「私が示す地」というのは、イスラエルの民の歴史とともに次第に明らかになっていきます。時代が下って、奴隷となっていた民がモーセに率いられてエジプトから脱出するという経験をします。脱出した民にモーセが、神からの律法を告げますが、その際次のような勧告をしています。「だから、今日私が命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすればあなたがたもあなたの後を継ぐ子孫も幸せになり、あなたの神、主が生涯にわたってあなたに与える土地で長く生きることができる。」(申命記4:40) 旧約の民にとり、受け継がれるべき土地は、「子孫までも幸せになって神の与える土地で長く生きる」という祝福が与えられる土地であります。しかし、さらに時代が下ると、神によって立てられた預言者が告げるのは、主の掟と戒めをないがしろにした民に下される、主なる神の裁きでした。ほかの神々への礼拝を取りいれ、支配者層の不正があらわになります。主なる神が与えられる土地で幸せになるべき民が喜びを失い、悲しみに嘆き、苦しみに喘ぐようになります。預言者エレミヤは、「私は私の家を捨て、相続地を見放し 私の愛する者をその敵の手に渡した。」(エレミヤ12:7)と主の言葉を告げています。このようなことを経て、受け継がれるべき土地の新たな局面が示されていきます。詩編16:6に「主はわが受ける分、わが杯。・・・私は輝かしい相続地を受けました。」とあります。主の教え、諭しを喜びとし、主その方をこそ、私が受ける相続分とする信仰が受け継がれていきます。そうして時が満ち、ひとり子、主イエスがこの地に来られました。イスラエルの民がなし得なかった、モーセに示された律法をご自身の身において満たしてくださり、民が裁かれるべきところを十字架上でご自身の身に負ってくださいました。イスラエルの民が受け継ぐことができなかったものを、キリスト・イエスを信じる者に恵みとして受け継がせるようにされました。
このように見てきますと、主人が旅に出るときに僕に預けた「財産」は、主なる神の永遠のご計画の一部が主イエスによって私たちに預けられていると見ることができます。このたとえで教える「天の国」は、パウロがエフェソの信徒への手紙で言っている「聖なる者たちが受け継ぐもの」(エフェソ1:14,18)ということにあてはめて考えることができるでしょう。このたとえの「財産」は、「天の国」の祝福につながるものとして、主人は僕に預けていますが、その僕は、私たち一人一人であると受けとめることができます。
ハイデルベルク信仰問答は、主の祈りの「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」では何を願うのかと問うています。その答えは、次のように教えています。「一人一人が自分の務めと召命とを、喜んで忠実に果たせるようにしてください」(問124の答えの一部を抜粋)と、願うことであると。「一人一人が自分の務めと召命とを、喜んで忠実に果たせるように」願い、行うキリスト者の姿は、このたとえが教える五タラントン、また二タラントンの財産を主人から預かった僕の姿ともいえます。