希望に基づく信仰と愛に生きる 2024年9月15日(日曜 朝の礼拝)

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希望に基づく信仰と愛に生きる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章3節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:3 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。
1:4 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。
1:5 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
1:6 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。
1:7 あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
1:8 また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。コロサイの信徒への手紙 1章3節~8節

原稿のアイコンメッセージ

(この説教は、村田牧師が代理牧師として宇都宮教会で語った説教です)

序、

 私が説教するときには、『コロサイの信徒への手紙』から説教しています。前回(7月21日)は、1節と2節を中心にして「恵みと平和の支配に生きる」という題で説教しました。今朝は、3節から8節までを中心にして、「希望に基づく信仰と愛に生きる」という題で、お話しいたします。

1、神への感謝

 3節をお読みします。

 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。

 ここでの「わたしたち」は、この手紙の差出人であるパウロとテモテのことです。1節にこう記されていました。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」。この手紙を書いたとき、パウロは捕らわれの身でした(4:18参照)。パウロは、この手紙を牢獄の中で書き記したのです(4:3参照)。『コロサイの信徒への手紙』は、いわゆる獄中書簡であるのです。

 また、「あなたがた」とは、この手紙の受取人であるコロサイの信徒たちのことです。2節にこう記されていました。「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」。パウロは、コロサイの信徒たちと会ったことはありませんでした。少し先の7節と8節にこう記されています。「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、霊に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です」。このように、コロサイの信徒たちは、パウロからではなく、エパフラスから福音を学びました。エパフラスについては、第4章12節に、次のように記されています。新約の373ページです。

 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。

 「あなたがたの一人」とありますから、エパフラスはコロサイの出身であったようです。『使徒言行録』の第19章に、パウロがアジア州のエフェソで福音を宣べ伝えたことが記されています。エパフラスは、エフェソでパウロから福音を聞いて、イエス・キリストを信じる者となったようです(使徒19:10「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」参照)。パウロからイエス・キリストの福音を学んだエパフラスが、コロサイに帰って、コロサイの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。このとき(パウロがこの手紙を書いていた時)、エパフラスは捕らわれの身であるパウロと共にいました。しかし、エパフラスは離れていても、コロサイの信徒たちのために熱心に祈っていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の368ページです。

 エパフラスがコロサイの信徒たちのために熱心に祈っていたように、パウロも、コロサイの信徒たちのためにいつも祈っていました。パウロが「いつもあなたがたのために祈り」と記すとき、それは朝、昼、晩の決まった時間に祈っていたことを意味します。ユダヤ人は、一日に三度、9時と12時と3時に祈りをささげました。パウロもユダヤ人ですから、その祈りの習慣を身につけていたのです。「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」。これと同じような言葉を、パウロは、『テサロニケの信徒への手紙一』や『エフェソの信徒への手紙』にも記しています(一テサロニケ1:2、エフェソ1:15参照)。パウロは、一日の三度の祈りの時間に、諸教会のために祈っていたのです。そして、この諸教会の中に、エパフラスから伝え聞いたコロサイの教会も含まれていたのです。このことは、コロサイの信徒たちにとってうれしい驚きであったと思います。イエス・キリストの使徒パウロが、いつも自分たちのために祈ってくれている。そして、自分たちのことで、主イエス・キリストの父なる神に感謝をささげている。そのような、祈りの交わりの中に、パウロとコロサイの信徒たちはあるのです。同じことが牧師と信徒との関係においても言えます。と言いますのも、牧師の任務の一つは、「ゆだねられた群れのために、また群れと共に祈ること」であるからです(『政治規準』第46条参照)。私も宇都宮教会の代理牧師として、いつも皆さんのために祈り、父なる神に感謝していることを知っていただきたいと思います。

2、希望に基づく信仰と愛

 4節と5節をお読みします。

 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。

 ここには、パウロが祈りの度に、主イエス・キリストの父なる神に感謝している理由が記されています。パウロが祈りの度に、感謝しているのは、コロサイの信徒たちがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛についてエパフラスから聞いたからです。「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」と「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」。この信仰と愛は、「天に蓄えられている希望に基づくものである」と記されています。ここには、信仰と希望と愛というキリスト者の三つの徳(品性)が記されています。信仰と希望と愛について記している最も有名な箇所は、『コリントの信徒への手紙一』の第13章です。そこにはこう記されています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(一コリント13:13)。この第一コリント書の御言葉と比べると、順番が違うことに気づきます。コロサイ書においては、信仰と愛と希望の順番で記されています。しかも、信仰と愛が希望に基づくと記されているのです。信仰と愛の源は、天に蓄えられている希望にあると言うのです。パウロが、「あなたがたのために天に蓄えられている希望」と記すとき、その希望とは、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストのことです。パウロは、第3章1節から4節で、次のように記しています。新約の371ページです。

 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリスト共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 「私たちのために天に蓄えられている希望」とは、父なる神の右に座しておられるイエス・キリスト、世の終わりの日に、栄光の主として来られるイエス・キリストであるのです。

 私たちの希望であるイエス・キリストは父なる神の右に座しておられます。しかし同時に、聖霊と御言葉において私たちの内におられる御方でもあるのです。第1章26節と27節で、パウロは、次のように記しています。新約の369ページです。

 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

 父なる神の右に座しておられる栄光のイエス・キリストは、聖霊と御言葉において、御自分の弟子たちの内に住み込んでくださいます。『マタイによる福音書』の最後で、復活されたイエス・キリストは、弟子たちにこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。『使徒言行録』によれば、復活されたイエス・キリストは、弟子たちが見ている前で、天へと上がられ、雲に包まれて見えなくなりました(使徒1:9参照)。では、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束は嘘だったのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは、聖霊と御言葉において、私たちと共にいてくださるのです。イエス・キリストの御名によって集まっている私たちの只中に、イエス・キリストは聖霊と御言葉においておられるのです(マタイ18:20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」参照)。イエス・キリストは聖霊と御言葉において、共におられる。私たち一人一人の内に、栄光の希望であるイエス・キリストがおられる。それゆえ、私たちは、父なる神を信頼して歩むことができるし、主にある兄弟姉妹を愛することができるのです(コロサイ1:8「また、霊に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です」参照)。

3、福音の成長

 6節から8節までをお読みします。

 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真理を悟った日から、実を結んで成長しています。あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、霊に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

 ここでパウロは、福音の成長について記しています。イエス・キリストの福音は命の言葉であるゆえに、成長するのです(マルコ4:26~32「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」参照)。パウロが「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真理を悟った日から実を結んで成長しています」と記すとき、その「実」とは、イエス・キリストを信じる者たちの群れである教会(エクレーシア、召し出された者たちの集い)のことです。福音宣教によって、世界中の至るところにキリストの教会が生まれました。そして、その教会に新しい人が加わって成長していたのです。同じことが、私たち宇都宮教会においても言えます。宇都宮教会は、東部中会創立45周年記念開拓伝道として始まりました。そこには、福音という真理の言葉を聞いて、神の恵みを悟った人たちがいたわけです。また、宇都宮教会は新潟伝道所を生み出すという大きな実を結びました。教会の現状(現在の教会員の人数や献金の合計額)を見るならば、実を結び成長しているとは言い難いかも知れません。しかし、そのような私たちの只中に、栄光の希望であるイエス・キリストがおられることを心に留めたいと思います。栄光の希望であるイエス・キリストは、私たちに御言葉の教師(岩崎謙先生、片岡正雄先生、永沼猛志先生)を遣わしてくださいます。私たちは御言葉の教師から、福音を学び、キリスト者として、また、キリストの教会として実を結び、成長しているのです。希望に基づく信仰と愛に生きるキリスト者として、希望に基づく信仰と愛に生きるキリストの教会として、私たちは実を結び、成長しているのです。

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