恵みと平和の支配に生きる 2024年7月21日(日曜 朝の礼拝)

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恵みと平和の支配に生きる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章1節~2節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、
1:2 コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。コロサイの信徒への手紙 1章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

(この説教は、村田牧師が代理牧師として宇都宮教会で語った説教です)

序.

 私が宇都宮教会で説教するときは、『コロサイの信徒への手紙』を、ご一緒に読み進めていきたいと思います。私が宇都宮教会で説教するのは、二ヶ月に一度でありますが、『コロサイの信徒への手紙』を連続講解説教したいと考えています。今朝は、第1章1節と2節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.差出人

 1節と2節をお読みします。

 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なるものたち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたがにあるように。

 ここには、手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。最初に、差出人についてお話しします。手紙の差出人は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテ」です。パウロとテモテの二人の名前が記されていますが、この手紙を書いたのは、パウロであり、テモテはその内容に同意する者として、名前を連ねています。ここで、パウロは、自分がどのような者として、この手紙を書くのかを記します。すなわち、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた者として、パウロは、この手紙を書くのです。「神の御心」は「神の意志」とも訳せます。パウロは、自分の意志で、キリスト・イエスの使徒となったのではなく、神の意志によって、キリスト・イエスの使徒とされたのです(使徒9章参照)。「キリスト・イエス」とありますが、「キリスト」は「油注がれた者」「王様」という意味で、ヘブライ語では「メシア」と言います。イスラエルでは、王になる人の頭に油を注ぎました。『サムエル記上』の第16章を読むと、預言者サムエルが、ダビデに油を注いだこと。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになったことが記されています。「油を注ぐ」ことは、「聖霊が注がれる」ことを見える形で表したものであるのです。『マタイによる福音書』の第3章を読むと、イエス様が、天から直接、聖霊を注がれて、メシア、王として即位されたことが記されています。聖書を開いて確認しましょう。新約の4ページです。『マタイによる福音書』の第3章16節と17節をお読みします。

 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 このように、イエス様は、神様から直接聖霊を注がれて、イスラエルのメシア、王となられたのです。しかし、そのことは、人々にはまだ隠されているのです。それが人々の前に明らかに示されるのは、十字架の場面においてです。第27章35節から37節までをお読みします。新約の57ページです。

 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

 このように、十字架につけられたイエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられました。これは、罪状書きでも何でもない、真実な言葉です。イエス・キリストはユダヤ人の王としてユダヤ人の罪を担って、ユダヤ人だけではなく、あらゆる民族からなる御自分の民の罪を担って、十字架の呪いの死を死んでくださったのです。神様は、そのイエス・キリストを復活させて、天と地の一切の権能を授けられ、全宇宙、全世界の王とされたのです。このことも聖書から確認しましょう。第28章18節から20節までをお読みします。新約の60ページです。

 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 このように、復活されたイエス様は、天と地の一切の権能を授けられた全宇宙、全世界の王となられたのです。このことを、『使徒言行録』は、「イエス・キリストが天に昇り、父なる神の右の座に着いた」と言い表しました。イエス・キリストの昇天と着座は、イエス・キリストが天と地の一切の権能を授けられたことを意味しているのです。イエス・キリストは、ユダヤ人の王だけではなく、全世界の王であられます。イエス・キリストは日本人の王でもあるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の368ページです。

 「キリスト・イエス」とは、「キリストであるイエス」「神によって油を注がれ、復活させられ、全世界の王とされたイエス」という意味です。パウロは、そのキリスト・イエスの使徒とされました。「使徒」とは「遣わされた者」という意味で、全権大使を意味します。古風な日本語で言えば、名代です(マタイ10:40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」参照)。イエス・キリストの使徒パウロの言葉は、イエス・キリストの言葉であるのです。私たちは、イエス・キリストの使徒パウロの言葉を、イエス・キリストの言葉として読み進めていきたいと思います。

 「兄弟テモテ」は、パウロの手紙に同意する、共同発信人として名前を連ねています。旧約の掟に、「真実は二人ないし三人の一致した証言によって立証される」と記されています(申命19:15「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」参照)。パウロがこれから記すことは、パウロ一人が信じていることではなく、主にある兄弟テモテが同意する真実であるのです。

 ここには記されていませんが、パウロは、この手紙を牢獄の中で記しています。第4章3節にこう記されています。新約の372ページです。「同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています」。このように、『コロサイの信徒への手紙』は、パウロが牢獄の中で書いた手紙、いわゆる獄中書簡であるのです。では、パウロは、どこの町の牢獄に捕らわれていたのでしょうか。『使徒言行録』の第28章に、パウロが未決囚として、ローマで捕らわれていたことが記されています。おそらく、この時のことではないかと思います。そうすると、この手紙は、パウロが人生の晩年、紀元62年頃に書いたことになります。投獄されていた場所や手紙が執筆された年代については、いろいろな説があるのですが、私は伝統的な説であるローマ説をとり、パウロが人生の晩年、紀元62年頃に執筆したと理解して、お話ししたいと思います。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の368ページです。

2.受取人

 次に、この手紙の受取人についてお話しします。この手紙の受取人は、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たち」です。コロサイは、小アジアにある町の名前です(現在のトルコ共和国がある所)。巻末の聖書地図で場所を確認したいと思います。「9 パウロのローマへの旅」の地図の真ん中あたりにエフェソとあります。その少し右にコロサイとあります。コロサイはエフェソから東に160キロメートルほど離れたところにありました。このコロサイの町に、イエス・キリストを信じて神の民とされた聖なる者たちがいたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の368ページです。

 2節に、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」とあります。「聖なる者たち」とは、「聖なる神の民とされた者たち」のことです。コロサイの信徒たちは、また、私たちは、イエス様を、キリスト、王と告白し、従うことによって、聖なる神の民とされたのです。パウロが、「キリストに結ばれている忠実な兄弟たち」と記すとき、その兄弟たちは、神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族としての兄弟姉妹のことです。ここでの「兄弟たち」には、男性だけではなく、女性も含まれています(3:18「妻たちよ」参照)。また、大人だけではなく子供も含まれています(3:20「子供たち」参照)。さらには、自由人だけではなく奴隷も含まれています(3:22「奴隷たち」参照)。「兄弟たち」という言葉の中に、キリスト・イエスに結ばれている忠実なすべての者たちが含まれているのです。パウロが「キリスト・イエスに結ばれている」と言うとき、二つのことが言えます。一つは、「信仰によって結ばれている」と言えます。私たちは「イエス・キリストは主である」という信仰によって、イエス・キリストに結ばれているのです。また、イエス・キリストを信じる信仰は、聖霊なる神の御業ですから、私たちは、聖霊によってイエス・キリストに結ばれていると言えます。「イエス・キリストは主である」と告白する私たちは、信仰と聖霊によって、イエス・キリストに結ばれているのです(一コリント12:3「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」参照)。ですから、私たちは、コロサイの信徒に宛てて記された手紙を、私たちに宛てて記された手紙として読むことができるし、読むべきであるのです。

3.挨拶

 最後に、挨拶の言葉についてお話します。「わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。この挨拶の言葉を読んで、「あれ、おかしいなぁ」と思われた人がいるかもしれません。ここには、「主イエス・キリスト」のことが記されていないからです。通常、パウロは、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と記します(ローマ1:7、一コリント1:3、二コリント1:2、ガラテヤ1:3、エフェソ1:2、フィリピ1:2、二テサロニケ1:2、フィレモン1:3参照)。しかし、ここには、「主イエス・キリスト」の名が記されていないのです。もちろん、パウロは、主イエス・キリストのことを抜きにして、父なる神からの恵みと平和について語っているのではありません。その直前に、「キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」とあるように、パウロは、イエス・キリストにあって、父なる神の恵みと平和を祈りの求めているのです。

 「わたしたちの父である神からの恵み」とは、イエス・キリストによって与えられる罪の赦しのことです。また、「わたしたちの父である神からの平和」とは、イエス・キリストの十字架の血に基づく、神様との和解のことです(1:20参照)。イエス・キリストに結ばれて神の子とされた私たちには、罪の赦しという恵みと、神様との和解という平和が与えられています。ですから、このパウロの挨拶は、祈りと言うよりも、恵みと平和の宣言であると言えるのです。「キリストに結ばれているあなたがたには、父なる神からの恵みと平和がある」とパウロは、力強く宣言しているのです。イエス・キリストに結ばれている私たちにも、父なる神からの恵みと平和が与えられています。私たちは、イエス・キリストに結ばれて、すべての罪を赦されて、正しい者とされ、神との平和、神の平和に生きる者とされているのです。このパウロの言葉は、イエス・キリストに結ばれている私たちに対する、父なる神の恵みと平和の宣言であるのです。

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