必要なものを満たしてくださる神 2024年6月30日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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フィリピの信徒への手紙 4章14節~23節
聖書の言葉
4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。
4:15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。
4:16 テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
4:17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。
4:18 私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
4:19 私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
4:20 私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
4:21 キリスト・イエスにあるすべての聖なる者によろしく。私と一緒にいるきょうだいたちも、あなたがたによろしくと言っています。
4:22 すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです。
4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。
フィリピの信徒への手紙 4章14節~23節
メッセージ
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序.
今年の2月から『フィリピの信徒への手紙』を御一緒に学んできました。今朝はその最後の学びとなります。今朝は、第4章14節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.会計を共にしてくれた教会
14節から16節までをお読みします。
それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
パウロは、フィリピの信徒たちが自分への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、主にあって非常に喜びながら、フィリピの信徒たちとの関係を遡って記します。パウロが、「それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました」と記すとき、その「苦しみ」とは、福音宣教の苦しみであります(1:30「あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです」参照)。フィリピの信徒たちは、パウロに贈り物を届けることによって、福音宣教者としてのパウロの働きを支えたのです。そのようにして、フィリピの信徒たちは、パウロと福音宣教の苦しみを共にしたのです。
15節に、「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした」と記されています。パウロは、テサロニケにおいても、コリントにおいても、自分の手で働いて、収入を得て、福音を宣べ伝えました。パウロは、テサロニケの教会からも、コリントの教会からも経済的な援助を受けませんでした。しかし、フィリピの教会からは経済的な援助を受けたのです。16節にあるように、フィリピの信徒たちは、パウロがテサロニケにいたときにも、パウロの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれたのです。ここでの「物」は食糧や衣類、筆記具などであったようです。パウロとフィリピの信徒たちは、「会計を共にした」とあるように、主にある深い信頼関係で結ばれていたのです。
なぜ、パウロは、テサロニケでも、コリントでも、経済的な援助を受けなかったのでしょうか。それは、パウロに報酬を受ける権利がなかったからではありません。主イエス・キリストは、福音を宣べ伝える人には福音によって生活の糧を得るようにと、命じられました(一コリント9:14「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと、命じられたのです」参照、ルカ10:7「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である」参照)。福音宣教者には、霊のものを蒔いて、肉のものを刈り取る権利があるのです。しかし、パウロは、その権利を用いませんでした。それは、イエス・キリストの福音を少しでも妨げてはならないと考えたからです。そのようなパウロのコリントでの福音宣教を支えたのが、フィリピの教会であったのです。『コリントの信徒への手紙二』の第11章7節から9節までをお読みします。新約の331ページです。
それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたことが、私の罪になるでしょうか。私は他の教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための賃金を得たのです。あなたがたのところにいて生活に困ったときも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。
9節に「マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれた」とあります。このマケドニアから来た兄弟たちこそ、フィリピの信徒たちであるのです。パウロが、コリントにおいて、無報酬で神の福音を告げ知らせることができたのは、フィリピの信徒たちがパウロの欠乏を補ってくれたからであるのです。
2.感謝なき感謝の理由
今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。
17節と18節をお読みします。
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
パウロは、フィリピの信徒たちの贈り物が、彼ら自身の帳簿を黒字にする実りをもたらすと言います。パウロの福音宣教のために、物を送ることは、天に富を積むことであり、神様の報いという黒字をもたらすことになるのです。それゆえ、パウロは、フィリピの信徒たちからの贈り物を喜んで受け入れるのです。フィリピの信徒たちからの贈り物は、パウロだけではなく、フィリピの信徒たち自身に、益となる豊かな実をもたらすのです(新共同訳参照)。また、パウロは、フィリピの信徒たちからの贈り物を、「かぐわしい香り」、「神が喜んで受け入れてくださるいけにえ」と言います。ここに、パウロが、フィリピの信徒たちからの贈り物に対して感謝を述べない理由があります。小見出しに「贈り物への感謝」と記されています。しかし、実は、パウロは、「感謝します」という言葉を記していません。「主にあって非常に喜びました」とは記しても、「主にあって感謝します」とは言わないのです。私たちでしたら、贈り物をもらったら、「感謝します」と書くと思います。しかし、パウロは、「感謝します」とは書きません。それゆえ、ある研究者は、この所を「感謝なき感謝」と呼びます。では、なぜ、パウロは、「感謝します」と書かなかったのでしょうか。それは、福音宣教者であるパウロへの贈り物が、神様への献げ物であるからです。神様への献げ物ですから、パウロは「感謝します」とは言わないのです。福音宣教者であるパウロへの贈り物は、神様への献げ物であるゆえに、パウロは、神様がフィリピの信徒たちの必要を豊かに満たしてくださると言うのです。
3.必要なものを満たしてくださる神
19節と20節をお読みします。
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ここで、注意したいことは、「フィリピの信徒たちが献げた物に応じて」とは記されていないことです。私たちですと、いただいた物に応じて、お礼を考えると思います。しかし、神様は、「私たちが献げた物に応じて」ではなく、「ご自分の栄光の富に応じて」、キリスト・イエスにあって、私たちに必要なものをすべて満たしてくださるのです。ここで思い起こしたいことは、フィリピの教会が貧しい教会であったということです。フィリピの教会は豊かな教会であったから、パウロを経済的に援助したのではありません。フィリピの教会は貧しい教会でした。『コリントの信徒への手紙二』の第8章1節から5節で、パウロはこう記しています。新約の327ページです。
第8章で、パウロは「エルサレムの教会のための募金」について記しています。その1節から5節までをお読みします。
きょうだいたち、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせましょう。彼らは苦しみゆえの激しい試練を受けていたのに、喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず、溢れるばかりに豊かな真心を示したのです。彼らは力に応じて、いや私は証ししますが、力以上に、自ら進んで、聖なる者たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、しきりに私たちに願い出たのでした。それも、私たちの期待とは異なり、神の御心に従って、彼らはまず主と私たちに自らを献げてくれたのです。
ここでのマケドニアの諸教会の中に、フィリピの教会も含まれています。フィリピの信徒たちは、喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず、溢れるばかりに豊かな真心を示しました。そのようなフィリピの信徒たちに、パウロは、「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と言うのです。私たちがお仕えしている神様は、豊かに報いてくださる、気前の良い御方であるのです(マタイ20:15参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。
パウロは、贈り物についての話を締めくくるに当たって、「私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と記します。ここに、パウロが福音を宣べ伝える目的があります。また、ここに、フィリピの信徒たちがパウロの福音宣教を支えた目的があります。私たちも同じだと思います。「私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように」と真実に願う者として、私たちは、御言葉の教師の働きを支えて、福音を宣べ伝えているのです。
結.主イエス・キリストの恵み
21節から23節までをお読みします。
キリスト・イエスにあるすべての聖なる者によろしく。私と一緒にいるきょうだいたちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。
パウロは、「結びの言葉」として、イエス・キリストを信じるすべての聖なる者に挨拶を送るようにと記します。私たちの主にある交わりは、挨拶を交わすことから始まるのです。22節に「皇帝の家の人たち」とありますが、これは皇帝の親族を指しているのではなくて、皇帝に仕える者たち、総督官邸で仕える者たちを指しています。パウロは第1章で、投獄されたことによって、福音が前進したこと。パウロが投獄されているのは、キリストのためであると兵営全体に知れ渡ったことを記していました。そのことによって、皇帝に仕える者たちの中からもイエス・キリストを信じる者が起こされたのです。フィリピは、ローマの植民都市でありました(使徒16:12参照)。ですから、フィリピの教会には、皇帝に仕える者たち、あるいは仕えていた者たちがいたのだと思います。それゆえ、パウロは、「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです」と記したのです。
パウロは、この手紙を、「主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にありますように」という言葉で閉じます。パウロは、この手紙を「祝福の言葉」をもって閉じるのです。私もこの説教を「祝福の言葉」をもって閉じたいと思います。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。