あらゆる境遇に対処する秘訣 2024年6月23日(日曜 朝の礼拝)
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あらゆる境遇に対処する秘訣
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- 村田寿和 牧師
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フィリピの信徒への手紙 4章10節~13節
聖書の言葉
4:10 さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
4:11 物欲しさにこう言うのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。
4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。フィリピの信徒への手紙 4章10節~13節
メッセージ
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序.
先程は『フィリピの信徒への手紙』の第4章10節から20節までを読んでいただきました。今朝は第4章10節から13節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.フィリピの教会からの贈り物
10節をお読みします。
さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
「私への心遣い」とは、具体的に言えば、フィリピの信徒たちが、エパフロディトを遣わして、パウロに贈り物を届けたことです。18節の後半にこう記されています。「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています」。エパフロディトについては、第2章25節から30節に記されていました。新約の356ページです。
ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛を重ねずに済むようにしてくださったのです。そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。彼はキリストの業のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。
フィリピの信徒たちは、エパフロディトに贈り物を持たせて、エフェソにいたであろうパウロのもとに遣わしました。エパフロディトは、フィリピの信徒たちを代表する者として、パウロに仕えていたのです。エパフロディトは瀕死の重病にかかってしまいましたが、神様はエパフロディトを憐れんで、癒してくださいました。そのエパフロディトをフィリピの信徒たちのもとへ遣わすにあたって、パウロは、『フィリピの信徒への手紙』を持たせたのです。私たちが学んでいる『フィリピの信徒への手紙』は、エパフロディトの手によって、フィリピの教会へ届けられたのです。パウロは、その手紙の最後に、「贈り物への感謝」を記すのです。
2.心遣いを喜ぶパウロ
今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。
パウロは、贈り物によって表されたフィリピの信徒たちの心遣いを、主にあって非常に喜びました。パウロが主にあって非常に喜んだのは、贈り物そのものよりも、その贈り物を届けてくれたフィリピの信徒たちの心遣いであったのです。ここでもパウロは、「主にあって」という言葉を用いています。それは、フィリピの信徒たちの心の内に、パウロに贈り物を届けようという思いを芽生えさせてくださったのが主であるからです(口語訳「今またついに芽生えてきた」、2:13「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」参照)。それゆえ、パウロは、「私は主にあって非常に喜びました」と言うのです。
「ついにまた表してくれた」とあるように、フィリピの信徒たちが、パウロに贈り物を届けたのは、これが初めてではありませんでした。15節にこう記されています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした」。フィリピの教会は、パウロの福音宣教を経済的に支えてきた教会であったのです。16節に、「テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」とあるように、一度だけではなく、定期的に贈り物を届けていたようです。しかし、何らかの事情があって、フィリピの信徒たちからの贈り物がしばらく途絶えていたのです。そのような状況にあって、フィリピの信徒たちは、パウロへの心遣いをついにまた表してくれた。エパフロディトを遣わして、贈り物を届けてくれた。そのことを、パウロは、主にあって非常に喜んだのです。
パウロは、フィリピの信徒たちからの贈り物が、しばらく途絶えていたことを非難しているわけではないことを示すためにこう言います。「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」。パウロは、贈り物が途絶えていても、フィリピの信徒たちが、自分のことを忘れたわけではないことを知っていると言うのです。
私たちの教会では、毎月、様々なところに献金をささげています。今年でしたら、1月はガンビア医療伝道(川島利子姉)のために、2月は社会福祉法人聖恵会(旧 聖恵授産所)のために、3月は東北伝道のために、4月は静岡盲人伝道センターのために、5月はRCJメディアミニストリーのために、ささげました。その献金を受け取る人のことを考えたらよいのではないかと思います。献金を受け取る人たちは、その献金によって表された、私たちの心遣いを主にあって喜んでくださっていると思います。自分たちの働きを、主にある働きとして受け入れ、祈っている人がいることを知って、大いに喜んでいると思います。私たちが、毎月、所定のところに献金をささげているのは、その働きが主の御心に適うと信じて、そのために祈っているからです。また、献金をささげることによって、私たちは、その働きのために、ますます祈る者となるのです(週報の「今週の祈り」に月例献金先のために祈ることがあげられている理由)。
3.置かれた境遇に満足する
11節から13節までをお読みします。
物欲しさにこういうのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。
パウロは「物欲しさにこう言うのではありません」と記します。パウロは、「贈り物を催促しているわけではない」と言うのです。と言いますのも、パウロは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたからです(新共同訳参照)。パウロは、貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っていました。パウロは、満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていたのです。「自分の置かれた境遇に満足すること」は、ギリシャのストア哲学で、重んじられていた徳の一つでした。環境によって左右されない満ち足りた心は、ギリシャの哲学者たちにとっても理想であったのです。その理想を実現するために、彼らは精神修行に励んだわけです。しかし、パウロが、「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました」と言うとき、それは精神修行によって学んだと言っているのではありません。パウロは、自分の置かれた境遇に満足することを、主イエス・キリストとの深い交わりを通して学んだのです。パウロは、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」によって、どのような境遇にあっても、満足することができたのです(3:8)。どのような境遇にあっても、パウロの心は、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」に満ち足りていたのです。貧しくても、豊かでも、満腹していても、飢えていても、有り余っていても、乏しくても、パウロの心は、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」に満ち足りていたのです。
また、パウロは、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記しています。この秘訣の源は、どのような境遇であっても共にいてくださる主イエス・キリストにあります。ですから、パウロは、続けてこう記すのです。「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」。「お陰で」と訳されている言葉(エン)は、「にあって」とも訳すことができます。「私を強めてくださる方にあって、私にはすべてが可能です」。このパウロの言葉を理解する手がかりが、『コリントの信徒への手紙二』の第12章に記されています(第二コリント書はパウロが投獄されていたであろうエフェソで執筆された)。新約の333ページです。第12章6節から10節までをお読みします。
もっとも、私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。しかし、誇るのはやめましょう。私について見たり、聞いたりする以上に、私を買いかぶる人がいるかもしれないからです。また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がらないように、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。
サタンから送られた使い、パウロの身に与えられた棘とは、何らかの病であると考えられています。パウロは、その病を癒してくださいと三度、主に願ったのです。ところが、主イエス・キリストはパウロにこう言われました。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」。自分の弱さの中に、キリストの力は現れる。それゆえ、パウロは、「私は、弱いときにこそ強い」と言うのです。このようなパウロであるからこそ、「私を強めてくださる方にあって、私はすべてが可能である」と言うことができたのです。
結.あらゆる境遇に対処する秘訣
今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。
パウロが、「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました」。「有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記すのは、フィリピの信徒たちが、また、私たちが、そのようなパウロに倣うためでもあります。パウロは、第3章17節で、こう記していました。「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」。自分の置かれた境遇に満足すること。また、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ること。その点においても、私たちはパウロに倣うべきであるのです。そのように聞くと、「私には無理です」と思われるかも知れません。しかし、今朝、ご一緒に覚えたいことは、私たちがどのような境遇にあっても、私を強めてくださる方、主イエス・キリストが私たち一人一人と共にいてくださるということです。私たちがどのような境遇にあっても、「私の主イエス・キリストを知るすばらしさ」は変わらないのです。主イエス・キリストは、私たち一人一人に、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言ってくださいます。それゆえ、私たちも、「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」と、主イエス・キリストにあって言うことができるのです。