人知を超えた神の平和 2024年6月16日(日曜 朝の礼拝)

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4:6 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
4:8 なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
4:9 私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。フィリピの信徒への手紙 4章6節~9節

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序.

今朝は、『フィリピの信徒への手紙』の第4章6節から9節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.思い煩ってはならない

 6節と7節をお読みします。

 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。

 パウロは、フィリピの信徒たちに、また、私たちに、「何事も思い煩ってはなりません」と言います。「思い煩う」とは、「いろいろと考え苦しむ。思い悩む」ことを言います(広辞苑)。パウロが「何事も思い煩ってはなりません」と言うのは、パウロの主であり、私たちの主であるイエス・キリストが「思い煩うな」と言われているからです。『マタイによる福音書』の第6章25節から34節までをお読みします。新約の10ページです。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 ここでイエス様は、弟子たちに、「思い煩ってはならない」と三度言われています(6:25、31、34)。「あなたがたに命と体を与えてくださった父なる神は、命を養うための食べ物や飲み物と、体を保護するための衣服を与えてくださる。鳥を養い、野の花を美しく装ってくださる父なる神は、神の子であるあなたがたを養い、美しく装ってくださる。そのような父なる神がおられるのに、なぜ、あなたがたは思い煩うのか。信仰の薄い者たちよ」とイエス様は言われるのです。

 ここでイエス様は、「食べ物や飲み物、着る物を求めてはいけない」と言っているのではありません。イエス様が仰っていることは、神の子である私たちがまず求めるべきは、「神の国と神の義」であるということです。このことは、「主の祈り」を思い起こすとよく分かります。イエス様は、弟子たちに祈りを教えてくださいました。『マタイによる福音書』の第6章7節から13節までをお読みします。新約の9ページです。

 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ/御名が聖とされますように。御国が来ますように/天におけるように地の上にも。私たちの日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください/私たちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。』

 主の祈りは、6つの祈願から成っています。前半の3つの祈りは「天の父のための祈り」です。後半の3つの祈りは「私たちのための祈り」です。イエス様が、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」と言われたとき、私たちの祈りは、まず「天の父なる神のための祈り」であるべきことを教えられたのです。神の子である私たちは、まず「天の父なる神の御名が聖とされますように」と祈り、それから「私たちの日ごとの糧を今日お与えください」と祈るべきであるのです。私たちが天の父のために祈りをささげ、まず神の国と神の義を求めるならば、天の父は神の国と神の義に添えて、私たちに日用の糧を与えてくださるのです。

2.神に打ち明けよ

 今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。

 私たちが思い煩うのは、どのような時でしょうか。それは、神様に依り頼むことをせずに、自分だけでどうにかしようとする時です。食べ物よりも大切な命を、着る物よりも大切な体を与えてくださった父なる神を忘れるとき、私たちは思い煩うのです。空の鳥を養い、野の花を装ってくださる父なる神を忘れるとき、私たちは思い煩うのです。ですから、パウロは、こう言うのです。「どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい」。自分だけでどうにかしようと思い煩うのではなくて、神様にお祈りして、心にあることを打ち明けなさいと言うのです(一ペトロ5:7参照)。ここで大切なことは、「感謝を込めて」と言われていることです。祈りの基調(根底にあるもの)は感謝であるのです。私たちは、イエス・キリストにあって、神の子とされ、「アッバ、父よ」と親しく呼びかけ、祈る者とされています。私たちは、イエス・キリストの聖霊によって、父なる神に、祈る心を与えられているのです。そして、その祈る心は、感謝する心でもあるのです。誰にも言えないようなことであっても、父なる神に打ち明けることができる。思い煩いを父なる神に打ち明けて、おゆだねすることができる。そのこと自体が感謝すべき大きな恵みであるのです。

 続けてパウロは、こう言います。7節。「そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」。「感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けるならば、あらゆる人知を超えた神の平和が、私たちの心と考えとをキリスト・イエスにあって守る」とパウロは言います。「あらゆる人知を超えた神の平和」とは、イエス・キリストだけが与えることのできる平和のことです。『ヨハネによる福音書』の第14章25節から28節までをお読みします。新約の193ページ。

 「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『私は去って行くが、また、あなたがたのところに戻って来る』と言ったのを、あなたがたは聞いた。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」

 イエス様は、27節で、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」と言われました。「私の平和」「イエス・キリストの平和」とは、世の支配者である悪魔を無力にして、勝ち取られた、神との平和、神の平和のことです。イエス・キリストは、十字架の死と復活によって、悪魔を無力にし、神との平和、神の平和を勝ち取られました(ヘブライ2:14「ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし」参照)。それゆえ、復活されたイエス・キリストは、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです(ヨハネ20:19、26)。復活されたイエス・キリストは、弟子たちに、「あなたがたには平和がある」と宣言されたのです。このイエス・キリストの平和が、イエス・キリストを信じる私たちにも、聖霊によって与えられているのです。

3.人知を超えた神の平和

 今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。

 思い煩うことも度を過ぎると、心を病むことになります。『箴言』の第4章23節に、「守るべきものすべてにも増して/あなたの心を保て。命はそこから来る」と記されています。新共同訳では、こう訳されていました。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」。では、私たちは、どのようにして、自分の心を守ることができるのでしょうか。それは、今朝の御言葉でパウロが教えているように、どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けることによってです。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、私たちの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るのです。あらゆる思い煩い、思い悩み、心配事から、人知を超えた神の平和が私たちの心と考えとを、キリスト・イエスにあって守ってくれるのです。ここで注意したいことは、「私たちが求めたとおりになる」とは記されていないことです。求めているものを神様に打ち明けても、その通りにならないかもしれません。しかし、そうであっても、神様は私たちの心と考えとを、人知を超えた神の平和で、キリスト・イエスにあって守ってくださるのです。ですから、私たちは、思い煩うことなく、信仰生活を続けて行くことができるのです。私たちが思い煩っている1つのことに、未信者の家族の救いの問題があると思います。未信者の家族の救いのことを考えるとき、思い煩ってしまう。しかし、その度に、私たちは求めているものを神様に打ち明ける。そして、その度に、私たちは神の平和をいただき、信仰生活を続けることができる。そのようにして、私たちは、このパウロの言葉が真実であることを体験しているのではないかと思うのです。

結.平和の神が共におられる

 8節と9節をお読みします。

 なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。

 8節に、「すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、・・・」とありますが、これらは、当時のギリシャ・ローマ世界で重んじられていた徳目です。パウロは、この世の社会で重んじられていること、「すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと・・・」などを、あなたがたも心に留めるようにと言うのです。なぜなら、この世の社会で重んじられている徳目は、罪を抑制して、社会の秩序を維持するために与えられている、神の一般恩恵であるからです。この世の社会の道徳は、神の一般恩恵である。それゆえ、イエス・キリストを信じている私たちは、この世の社会の道徳を重んじるべきであるのです。もちろん、イエス・キリストを信じる私たちは、そこに留まる者ではありません。9節に、「私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい」とあるように、私たちは、パウロが教え、身をもって示したイエス・キリストの福音にふさわしい生活を送らなければならないのです。神様が一般恩恵として道徳を与えられたのも、また、特別恩恵としてイエス・キリストの福音を与えられたのも、私たちが平和に過ごすためであります。ですから、パウロは、「そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます」と言うのです。私たちがこの世の社会の道徳を心に留めて、イエス・キリストの福音にふさわしい生活を送るとき、その私たちと平和の神が共にいてくださるのです(ここに教会内の争いが危険な理由がある。つまり、教会内で争いがあるとき、そこに平和の神が共におられないという危険が生じる)。

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