キリストの軛を同じくする者 2024年6月09日(日曜 朝の礼拝)

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キリストの軛を同じくする者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章2節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:2 私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。
4:3 なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。
4:4 主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。フィリピの信徒への手紙 4章2節~5節

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序.

 今朝は、『フィリピの信徒への手紙』の第4章2節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.同じ思いを抱きなさい

 2節と3節をお読みします。

 私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。

 このパウロの言葉を読むと、エボディアという女性とシンティケという女性とが対立しており、そのことがフィリピの教会に悪い影響を与えていたようです。それで、パウロは、「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい」と言うのです。ここで、パウロは、対立の原因に立ち入ろうとはしません。パウロは裁判官になろうとはしません。パウロは、エボディアにも、シンティケにも、同じように、「主にあって同じ思いを抱きなさい」と言うのです。このことは、パウロが、第2章1節と2節で記していたことでした。「そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」。パウロは、フィリピの信徒たちに、「あなたがたには、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心が与えられているのだから、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして、私の喜びを満たしてほしい」と記していました。そのことを踏まえて、パウロは、「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい」と言うのです。では、「主にある同じ思い」とは何でしょうか。それは、第2章3節に記されていた思いです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」。このような思いを、私たちは主イエス・キリストに結ばれている者として抱くべきであるのです。

 エボディアとシンティケについて、パウロは、第4章3節の後半でこう記しています。「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。エボディアとシンティケは、パウロと共に福音のために戦った女性たちであり、教会の指導的な立場にあったようです。教会の指導的な立場にある者同士が対立する。これは、教会にとって危機的な状況と言えます。牧師と長老が対立する。長老と長老が対立する。それは、教会にとって危機的な状況です。そのような状況にある教会員に対して、パウロは、3節前半でこう言います。「なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください」。ここで「協力者」と訳されている言葉は、直訳すると「軛を同じくする者」となります。「軛」については、今朝の週報に、「聖書辞典」からの抜粋を記しておきました。軛とは、「下面に二つのくぼみをつけたがんじょうな横木で造られた道具で、2匹の家畜(特に牛など)の首に固定させて車や鋤を引かせた」とあります。「軛を同じくする者」と聞くと、私たちは、『マタイによる福音書』の第11章の主イエス・キリストの御言葉を思い起すのではないかと思います。新約の20ページです。28節から30節までをお読みします。

「すべて重荷を追って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

イエス様は、「私の軛を負い、私に学びなさい」と言われました。そのイエス様の御言葉に従って、私たちは、キリストの軛を同じくしているのです。

イエス様が「私の軛を負い、私に学びなさい」と言われるとき、その「軛」とは「戒め」のことです。キリストの軛、キリストの戒めについては、『マタイによる福音書』の第22章に記されています。新約の43ページです。35節から40節までをお読みします。

そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」

 このように、キリストの軛、キリストの戒めとは、「全身全霊で神を愛すること、隣人を自分のように愛すること」であるのです(申命6:5、レビ19:18参照、ヨハネ13:34、ローマ13:9、ヤコブ2:8も参照)。私たちが「罪の告白の勧告と祈祷」で聞いている主イエス・キリストの戒めは、私たちが同じくしているキリストの軛でもあるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の357ページです。

 3節の「協力者」とは、「軛を同じくする者」である。それゆえ、私は、「真の協力者」とは、ある特定の人物を指しているのではなく、フィリピの信徒たち一人一人を指していると思います。パウロは、フィリピの信徒たち一人一人に向かって、「エボディアとシンティケが主にあって和解できるように助けてあげてください」と言うのです。教会において、指導的な立場にある者同士が対立するとき、教会員はどちらかを支持することによって、対立を深めてしまうことがあります。「私はエボディアにつく」、「私はシンティケにつく」と言って、火に油を注いでしまうわけです。しかし、パウロは、フィリピの信徒たちに、「キリストの軛を同じくする者として、二人が主にあって和解できるように助けてあげてほしい」と言うのです。

 パウロは、3節の後半で、「命の書」について言及しています。「命の書」とは、「天国の住民台帳」のことです。パウロは、第3章20節で、「私たちの国籍は天にあります」と記しました。天に国籍を持つ私たちは、天国の住民台帳である「命の書」に名前が記されているのです。「命の書に名前が記されている」という考え方は、とても古くからあって、モーセの時代にまで遡ります。『出エジプト記』の第32章を開いていただきたいと思います。旧約の136ページです。

第32章には、イスラエルの民が金の子牛を作って踊り、戯れたことが記されています。シナイ山に登ったモーセがなかなか降りて来ないので、イスラエルの民は、十戒で禁じられていた偶像礼拝の罪を犯してしまいます。そのイスラエルの罪を贖うために、モーセは、主にこう言います。31節です。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分のために金の神々を造ったのです。今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記された書から私を消し去ってください」。「あなたが書き記された書」とは、「命の書」のことです。モーセは、「イスラエルの民の罪を贖うためなら、命の書から自分の名前が消し去られてもかまわない」と言うのです。モーセは自己犠牲を厭わない、イエス・キリストを指し示す偉大な指導者であったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の358ページです。

 パウロが、フィリピの信徒たちに、「エボディアとシンティケが主にあって同じ思いを抱くことができるように助けてあげてほしい」と願うのは、二人の名前が命の書に記されているからです。3節の後半、「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」は、クレメンスや他の協力者たちだけではなく、エボディアとシンティケも命の書に名前が記されていることを教えています。「私たちの国籍は天にあります」とパウロが言っていたように、イエス・キリストを信じている私たちの名前も、命の書に記されているのです。この「命の書」は、『ヨハネの黙示録』では、「小羊の命の書」と言われています(黙21:27)。命の書は、神の小羊であるイエス・キリストの命の書であるのです(この背景には、神のイエス・キリストにある選びがある)。イエス・キリストを信じるフィリピの信徒たちの名前も、また、私たちの名前も、命の書にしっかりと記されています。「だから、いろいろな違いを越えて、主にあって同じ思いを抱きなさい。主イエス・キリストの軛を負う者として、助け合いなさい」とパウロは言うのです。ここでパウロは、単に仲良くしなさいと言っているのではありません。私たちは、気が合うから、共に集まって礼拝をささげているのではありません。私たちは、「全身全霊で神を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの軛を同じくする者として、共に集まって礼拝をささげているのです。

2.主にあっていつも喜びなさい

 4節をお読みします。

 主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 パウロは、以前学んだ第3章1節で、「主にあって喜びなさい」と記しました。ここでは、「主にあっていつも喜びなさい」と言います。「いつも」という言葉が付け加えられているのです。「主にあっていつも喜びなさい」。このパウロの命令は、私たちが主イエス・キリストにあって、いつも喜べることを前提にしています。私たちは、主イエス・キリストに結ばれている者として、いつも喜べる大きな恵みを与えられているのです。その大きな恵みとは、私たちの国籍が天にあること。私たちの名前が天国の住民台帳に記されていることです(ルカ10:20「しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」参照)。

3.寛容な心で接しなさい

 5節をお読みします。

 あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。

 パウロは、「あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい」と言います。ここでの「あなたがた」は、主イエス・キリストに結ばれたフィリピの信徒たちであり、また私たちのことです。「寛容」という言葉を国語辞典で引くと、「心が広く、人の言動をよく受け入れること。また、人の過ちや欠点をきびしくせめないこと」とあります(明鏡国語辞典)。主イエス・キリストにある私たちには、人の言動をよく受け入れ、人の過ちや欠点を厳しく責めない広い心が与えられています(新共同訳「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」参照)。それは、主イエス・キリストが、私たちの過ちや欠点を厳しく責めることなく、私たちを罪人のままで受け入れてくださるからです。イエス様は、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました(マタイ8:13)。イエス様は、罪人である私たちを罪人のままで受け入れてくださるのです。イエス様は、私たちの罪を贖う救い主として、私たちを罪人のままで受け入れてくださり、神の民の一員としてくださったのです。そして、私たちにご自分の聖霊を与えてくださり、私たちに寛容な心、広い心を与えてくださったのです。

続けてパウロは、「主は近いのです」と言います。「主は近い」とは、「主イエス・キリストが天から来られる日が近づいている」という意味です(黙示22:20「然り、私はすぐに来る」参照)。私たちを罪人のままで受け入れてくださり、私たち罪の奴隷状態から贖ってくださった主イエス・キリストが天から来られる。そのことに、私たちの心を向けるとき、私たちは、すべての人に対して、寛容な心で接することができるのです。

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