我らの国籍は天にあり 2024年6月02日(日曜 朝の礼拝)

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我らの国籍は天にあり

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:17 きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。
3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。
3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。
4:1 ですから、私が愛し、慕っているきょうだいたち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように、主にあってしっかりと立ちなさい。フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節

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序.

 今朝は、『フィリピの信徒への手紙』の第3章17節から第4章1節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.私に倣う者となりなさい

 17節をお読みします。

 きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

 パウロは、「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」と言います。このパウロの言葉は、これまでの文脈の中で理解することが大切です。つまり、パウロは、肉を頼みとする偽教師たちや、完全な者となっていると主張する者たちにではなくて、「私に倣う者となりなさい」と言うのです。

 パウロが「私に倣う者となりなさい」というとき、それは第一に、肉を頼みとせず、キリストを頼みとするという点においてです。偽教師たちは、割礼を誇っていました。しかし、そのような肉の誇りは、イエス・キリストを誇りとすることから、私たちを遠ざけてしまいます。ですから、パウロは、自分にとって利益であった肉の誇りを、キリストのゆえに、損失と見なすようになったのです。パウロの関心は、キリストを得ることであり、神様からキリストの内にいる者と認められることでありました。それゆえ、パウロは、肉ではなく、キリストだけを誇る者となったのです。そして、それは神様に対して正しい態度であると言えます。なぜなら、パウロは、神様からキリストの真実による義を与えられているからです。このことは、イエス・キリストを信じている私たちにおいても言えます。私たちにも、キリストの真実による義が、神の恵みによって与えられているのです。それゆえ、私たちは、キリストを得、キリストの内にいる者と認められるために、キリストのみを頼みとして生きるべきであるのです。キリストの真実による義に生きる者として、キリストのみを誇りとして生きる。この点において、私たちもパウロに倣いたいと思います。

 また、私たちがパウロに倣うべき第二の点は、救いの完成を目指してひたすら走るという点です。フィリピの教会には、「自分は完全な者である。自分は完全な救いにあずかっている」と主張する者たちがいました。そのような者たちを念頭において、パウロは、13節から15節で、こう記しました。「きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです」。パウロによれば、完全な者とは、「自分が完全ではないことを弁えて、キリストとその救いを捕らえようと努めている人」のことであるのです。このことは、聖化の御業のことを考えるならば、よく分かります。「ウェストミンスター小教理問答」の言葉で言えば、私たちに与えられているキリストの救いは、義認、子とされること、聖化の三つから成ると言えます。義認と子とされることは、神の無償の恵みの行為(一回的な決定)であり、すでに実現しています。私たちは、イエス・キリストにあって、正しい者とされ、神の子とされているのです。しかし、聖化は、神の無償の恵みの御業(継続的な働き)であり、この地上では完成することはないのです。私たちは罪を赦されながらも、日毎に罪を犯してしまうのです。この地上において、私たちの聖化が完成することはありません。「私は完全な救いにあずかっている」とは誰も言えないのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストが天から来られる日に完成する救いを目指して、ひたすら走るべきであるのです。

2.涙を流しながら福音を宣べ伝える

 18節と19節をお読みします。

 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。

 「キリストの十字架の敵として歩んでいる者」とは、誰のことでしょうか。文脈からすると、割礼を誇る偽教師たちのことであると言えます。しかし、偽教師たちだけのことを言っているのではないと思います。イエス・キリストの十字架を頼みとしないで、自分自身を頼みとしている人々、イエス・キリストを信じない人々のことも含まれていると思います。パウロは、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません」と言います。「腹」とは「欲望」のことです。また、「恥ずべきもの」とは「頼りにならないもの」のことです。イエス・キリストを信じない人々は、自分の欲望を神とし、実際は頼りにならないものを頼りとし、地上のことしか考えていません。「死んだ後のことは分からない」と思考を停止しているのです。しかし、聖書は、死後に神の裁きがあることを教えています(ヘブライ9:27「人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている」参照)。そして、その神の裁きから、私たち人間を救ってくださる唯一の救い主がイエス・キリストであることを教えているのです(一テサロニケ1:10「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです」参照)。イエス・キリストは、私たちの罪を担って、十字架の死を死んでくださいました。そのようにして、イエス・キリストは私たちの滅びを引き受けてくださったのです。イエス・キリストは、私たちに代わって、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。そのイエス・キリストの十字架に敵対して歩むならば、その人は自分の罪のゆえに滅びることになるのです(ヨハネ8:24参照)。そのことをパウロは知っているからこそ、涙を流しながら、夜も昼も、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです(使徒20:31「私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流しながら教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」参照)。私たちも、イエス・キリストを信じない人々の行き着く先が滅びであることを知っている者として、涙を流しながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。 

3.我らの国籍は天にあり

 20節と21節をお読みします。

 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。

 「私たちの国籍は天にあります」。「我らの国籍は天にあり」(文語訳)。このことを、今朝、私たちは心に刻みたいと思います。世界中のたくさんの国に、イエス・キリストを信じている人たちがいます。その人たちは、それぞれに国籍を持っています。私たちでしたら、日本国という国籍を持っています。しかし、イエス・キリストを信じる私たちの本当の国籍は天にあるのです(一ペトロ2:11「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に闘いを挑む肉の欲を避けなさい」参照)。パウロは、第1章27節で、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と記していました。それは、言い換えれば、「天に国籍を持つ者としてふさわしい生活を送りなさい」ということであるのです(3:20の「国籍」(ポリテウマ)は「市民権」とも訳すことができ、1:27の「生活を送る」(ポリテウオマイ)は「市民生活を送る」とも訳せる)。「私たちの国籍は天にある」という信仰は、私たちの地上の生活をキリストの福音にふさわしい生活へと変えていくのです(信仰が生活は一体的である)。

 私たちの国籍は天にあります。そして、天の国は、イエス・キリストが王として治める王国、キングダムであるのです。それゆえ、私たちはこの地上の国の法律だけではなく、キリストの律法に従うことが求められています。もし、国の法律がキリストの律法に反することを命じるならば、私たちは国の法律ではなく、キリストの律法に従うべきであるのです(使徒5:29「人に従うより、神に従うべきです」参照)。

 私たちがイエス・キリストにあって、天に国籍を持つ者とされていることは、まことに喜ばしいことであります。このことは、イエス様が弟子たちに言われたことでありました。『ルカによる福音書』の第10章17節から20節までをお読みします。新約の124ページです。

 七十二人は喜んで帰って来て、言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 イエス様は、悪霊どもを追い出せたことを喜ぶ弟子たちに、「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。このことは、今朝の御言葉で言えば、「天に国籍を持つ者であることを喜びなさい」ということです。私たちの名が天に書き記されており、私たちは天に国籍を持つ者とされている。ですから、私たちは、主にあっていつも喜ぶことができるのです(4:4参照)。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の357ページです。

 天に国籍を持つ私たちは、天から救い主である主イエス・キリストが来られるのを持ち望んでいます。そのときこそ、私たちの救いは完成されるからです。21節にあるように、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです」。パウロは、11節で、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と記していました。そのパウロの願いが、天から来られる主イエス・キリストによって実現するのです(ヘブライ9:28参照)。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの朽ちる体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださいます。たとえ、私たちが死んでいたとしても、キリストは私たちをご自身と同じ栄光の体で復活させてくださるのです(一コリント15:42~44参照)。そのようにして私たちは父なる神と主イエス・キリストがおられる新しい天と新しい地に、永遠に住むことになるのです(黙示21、22章参照)。

結.主にあってしっかり立ちなさい

 第4章1節をお読みします。

 ですから、私が愛し、慕っているきょうだいたち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように、主にあってしっかりと立ちなさい。

 ここでパウロは、天から救い主である主イエス・キリストが来られたかのように、フィリピの信徒たちを「私の喜びであり、冠である愛する人たち」と呼びかけます。パウロにとって、自分たちの福音宣教によってイエス・キリストを信じたフィリピの信徒たちは、喜びであり、冠であるのです。このことは、牧師である私と、教会員の皆さんにおいても言えます。牧師にとって教会員は喜びであり、冠であると言えます。また、教会員にとっても牧師は喜びであり、冠であると言えるのです。なぜなら、教会の醍醐味は、牧師を育てることであるからです(「醍醐味」とは「物事の本当のおもしろさ。深い味わい」を意味する)。

 私たちは、天から救い主である主イエス・キリストが来られるとき、栄光の体に変えられます。もし、死んでいたとしても、栄光の体で復活させられます。そして、本国である新しい天と新しい地で、父なる神と主イエス・キリストを永遠にほめたたえることになるのです。そのことに希望を置いて、私たちは、主にあってしっかりと立ちたいと願います。

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