目標を目指してひたすら走る 2024年5月26日(日曜 朝の礼拝)

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目標を目指してひたすら走る

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 3章10節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。
3:13 きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
3:15 だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
3:16 いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。フィリピの信徒への手紙 3章10節~16節

原稿のアイコンメッセージ

序.前々回と前回の振り返り

 今朝は最初に、前々回と前回の振り返りをしたいと思います。第3章で、パウロは、偽教師たちについての警告の言葉を記しています。この偽教師たちは、形だけの割礼(切り傷)を誇るユダヤ人キリスト者であったようです。彼らは、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守るように教えていました。しかし、パウロは、神の霊によって礼拝し、イエス・キリストを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ、真の割礼を受けた者であるというのです。「真の割礼」とは、主イエス・キリストによって施された心の割礼のことです(申命30:6参照)。神の霊によって礼拝し、イエス・キリストを頼みとする私たちこそ、心に割礼を受けた神の民であるのです。このようにパウロが言うのは、肉に頼るものがないからではありません。パウロは肉に頼ろうと思えば、誰よりも肉に頼ることができました。しかし、パウロは、イエス・キリストを知ったことによって、自分にとって利益であったものを損失と見なすようになったのです。なぜなら、肉の誇りは、キリストを誇りとすることからパウロを遠ざけてしまうからです。9節でパウロは、こう記していました。「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります」。「キリストの真実による義」の別訳は「キリストへの信仰による義」です。また、「その真実に基づいて神から与えられる義」の別訳は「その信仰に基づいて神から与えられる義」です。「真実」と訳される元の言葉(ピスティス)は「信仰」とも訳せるのです。「律法による自分の義」とは自分の肉を頼みとすることです。他方、「キリストの真実による義」とはキリストを頼みとすることです。そして、この二つは、共に立つことはありません。肉を頼みとする者は、キリストを頼みとしていません。他方、キリストを頼みとする者は、肉を頼みとしていないのです。もし、偽教師たちに惑わされて、フィリピの信徒たちが肉を頼みとするならば、彼らはキリストを頼みとしない者となり、いただいた恵みを失ってしまうことになるのです。ですから、パウロは、「偽教師たちに気をつけなさい」と三度も記したのです。ここまでは、前々回と前回の振り返りです。

1.キリストとその復活の力を知ったパウロ

 今朝は、第3章10節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 10節と11節をお読みします。

 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 パウロが、「私は、キリストとその復活の力を知り」と記すとき、『使徒言行録』の第9章に記されているダマスコ途上での出来事を言っているのだと思います。『使徒言行録』の第9章1節から9節までをお読みします。新約の225ページです。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウルは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは、地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 ここには、教会を迫害していた、かつてのパウロの姿が記されています。律法に熱心であった、かつてのパウロは、キリストの弟子たちを迫害していました。そのようなパウロに、栄光の主イエス・キリストは現れてくださいました。パウロは、主に仕えているつもりで、イエスの弟子たちを迫害していました。しかし、パウロに現れてくださった主は、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです(主イエスと弟子たちは一体的な関係にある)。パウロは、直接、「イエスが主である」ことを示されたのです。それによって、パウロは、弟子たちの教えが真実であることを知ったのです。弟子たちは、十字架に磔にされて死んだイエスを、神が復活させ、天の右の座に上げられて、主、メシアとされたと宣べ伝えていました(ペンテコステのペトロの説教参照)。その弟子たちの教えが真実であることをパウロは、復活の主イエス・キリストと出会うことによって知ったのです。パウロは、復活の主イエス・キリストと出会ったことにより、「人は律法の行いによってではなく、イエス・キリストの真実によって義とされる」ことを知ったのです。なぜ、神の御子が律法のもとにお生まれになり、律法の呪いの死を死なねばならなかったのか。それは、アダムの子孫であるすべての人が律法を守ることによっては神の御前に義とされないからです。人間にできないことを、神様はイエス・キリストにおいてしてくださいました。イエス・キリストはその真実によって神の御前に正しい者とされたのです。その確かな証拠として、神様はイエス・キリストを死者の中から復活させてくださいました。このように考えると、パウロが、「キリストの真実による義」について語った後で、「キリストとその復活の力を知ること」について語るつながりが分かってきます。私たちは、イエス・キリストの真実によって義とされたと信じています。それは、私たちがキリストとその復活の力を知ったからであるのです。私たちは、パウロのように、光に照らされて、天からの声を聞いたわけではありません。しかし、復活されたイエス・キリストは、礼拝において、聖霊と御言葉によって、私たちに出会ってくださったのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストが死者の中から復活されて、今も生きておられると信じているのです。さらには、イエス・キリストの真実によって義とされたと信じているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の357ページです。

2.死者の中からの復活に達するために

 キリストとその復活の力を知ったパウロは、キリストの苦しみにあずかって、キリストの死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいと言います。パウロによれば、死者の中からの復活に達するには、キリストの苦しみにあずかり、キリストの死の姿にあやかる必要があるのです。「イエス・キリストを信じれば、何の苦しみもないバラ色の人生が待っている」と、パウロは言いません。私たちの主であるイエス・キリストが苦難の死を通して栄光に入られたように、その弟子である私たちも苦難を通して栄光へと入るのです。そして、その苦難は、キリストのための苦難であり、教会のための苦難であるのです。キリストの体である教会のために苦しむとき、私たちはキリストの苦しみにあずかっていると言えるのです(コロサイ1:24参照)。また、私たちは自己中心的な古い自分(古いアダム)に死ぬことによって、キリストの死の姿にあやかる者となるのです(イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順は自己否定の極致である)。キリストの苦しみにあずかって、キリストの死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい。それがパウロの願いであり、また、私たちが抱くべき願いであるのです。

3.完全な者とは

 12節から15節前半までをお読みします。

 私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたと思ってはいません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。

 パウロは、「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません」と言います。ここでの「それ」とは、「復活に象徴される完全な救い」のことです。このパウロの言葉によると、フィリピの信徒たちの中に、「自分は完全な者である」と主張する者がいたようです。「自分はキリストの救いに完全にあずかっている」。そのような主張を念頭において、パウロは、「私は、すでにそれ(復活に象徴される完全な救い)を得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです」と言うのです。パウロが、「自分はキリスト・イエスによって捕らえられている」と記すとき、やはり、ダマスコ途上での出来事を思い起こしていたと思います。私たちがイエス・キリストを捕らえようと努めているのは、イエス・キリストが私たちを捕らえてくださったからであるのです(ヨハネ15:16「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」参照)。私たちは、イエス・キリストによって捕らえられている者として、イエス・キリストを捕らえようと努めているのです(神の恵みの先行性)。

 パウロが「私自身はすでに捕らえたとは思っていません」と言うとき、それは「私自身は完全な救いにあずかっているとは思っていない」ということです。ここで思い起こしたいことは、「神の国(神の王国、神の王的支配)はすでに到来したが、いまだ完成していない」という真理です(いわゆるオールレディalreadyとノットイエットnot yetの関係)。神の国はイエス・キリストにおいてすでに到来しました(マルコ1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」参照)。イエス様が人々から悪霊を追い出し、人々の病を癒されたことは、イエス様において神の国が到来したことのしるしでありました。また、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の国は確かに樹立されました。ユダヤ人の王として十字架に磔にされたイエス・キリストは、死者の中から復活させられ、天と地の一切の権能を授けられた全世界の王として、父なる神の右の座に着いておられます。それゆえ、私たちは約束の聖霊に導かれて、「イエス・キリストは主である」と大胆に告白し、父なる神をほめたたえているのです(教会は神の国の中心的な現れ)。では、神の国は完成したのかと言えば、いまだ完成していません。神の国が完成するのは、主イエス・キリストが天から再び来られる終わりの日であります。再臨の主イエス・キリストによって、いわゆる最後の審判が行われ、新しい天と新しい地が到来し、神の国は完成されるのです(黙示21:3、4「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものは過ぎ去ったからである」参照)。このように、「神の国はすでに到来していますが、いまだ完成していない」のです。それと同じことが、私たちの救いにおいても言えます。私たちはすでに救われていますが、その救いはいまだ完成していないのです。このことを、「ウェストミンスター小教理問答」の言葉で説明したいと思います。キリストによって与えられている救いの祝福、それは義認、子とされること、聖化であると言えます(問32参照)。義認と子とされることは、神の恵みによる行為(一回的な決定、アクトact)です(問33、34参照)。しかし、聖化は、神の恵みによる御業(継続的な働き、ワークwork)であるのです(問35参照)。聖化はこの地上で完成することはありません。私たちは罪赦されながらも、日ごとに罪を犯してしまうのです。つまり、地上において聖化の御業は不完全であるということです(ウェストミンスター大教理問答 問78参照)。しかし、フィリピの信徒たちの中には、「自分たちは完全である。完全な救いにあずかっている」と主張する者たちがいたのです。そのような者たちに、パウロは、「すでに捕らえたと思わずに、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走りなさい」と言うのです。私たちの信仰生活は、神の賞を目指して走る長距離走者のようであるのです(二テモテ4:6~8、ヘブライ12:1、2参照)。そして、このように考える人こそ、「完全な者」であると言うのです。完全な者とは、自分が完全ではないことをわきまえて、キリストとその救いを何とかして捕らえようと努めている人のことであるのです。

結.目標を目指してひたすら走ろう!

 「自分は完全な者である。自分は完全な救いにあずかっている」。このように主張する者たちに、パウロは、15節後半と16節でこう言います。

 しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。

 パウロが「あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださる」と言うとき、その意味するところは、「自分は完全な救いにあずかっているという考え方が間違いであることを明らかにしてくださる」ということです。ここで「私たちは到達したところに基づいて」とありますが、ここはむしろ「私たちが到達したところ」、「パウロたちが到達したところ」と訳すべきだと思います。パウロは、フィリピの信徒たちを、それぞれの考え方にゆだねるのではなく、パウロたちが到達した真理、「この地上で完全な救いにあずかることはできず、追い求めるべきものであるという真理に基づいて進みましょう」と言うのです(3:17「皆一緒に私に倣う者となりなさい」参照)。私たちがなすべきただ一つのこと。それは、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、イエス・キリストの日に完成する救いを目指して、ひたすら走ることであるのです。そのことを心に刻んで、信仰生活という長距離走を、御一緒に走って行きたいと願います。

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