ニコデモの会見(奨励題) 2024年5月19日(日曜 朝の礼拝)
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ニコデモの会見(奨励題)
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ヨハネによる福音書 3章1節~15節
聖書の言葉
3:1 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。
3:2 この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。
3:12 私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書 3章1節~15節
メッセージ
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ニコデモとイエスの会見 ヨハネによる福音書3章1節-15節
これまで、イエスに出会って対話した人、一人はサマリアの女の人(ヨハネ4:1-26)、二人目に『善い先生』と走り寄ってきた金持ちの男(マルコ10:17-22)について取り上げてきました。今日は三人目としてニコデモを取り上げます。いずれも、一対一でイエスと対話していて、興味深いものがあります。
1.イエスを訪ねたニコデモの意図 1-2節
ニコデモはファリサイ派の一人で、ユダヤ人の指導者であった、とあります(1節)。ニコデモは世間一般の人ではなく、律法に関わって高い見識を持ち、人々から尊敬を受ける人であったことがわかります。そのような人が夜イエスのもとを訪ねて来た、と記されています(2節)。特に理由はなく、ただ夜だったということかもしれませんが、注解書を見ますと、ユダヤ人や同じファリサイ派の人たちの目を避けるため、という理由をあげているものがあります。もう少し積極的な理由を考えるなら、取り巻く人たちに邪魔をされず、イエスに会見できる夜を選んだ、とみてもよいと思います。
この2節の言葉がニコデモの挨拶だったかどうかはわかりませんが、ニコデモが言葉を選んでイエスに敬意を述べています。「私どもは・・・」と言っています。個人的な面会で「私ども」というのは、公式の会見の場で使う言い方です。「私は、あなたが神のもとから来られた・・・」と言うと、それは個人的な見解を述べていることになりますので、ニコデモは初めから個人的な意図が表れてしまうのを慎重に避けたのかもしれません。そのうえで、イエスを神のもとから来られた教師であると見た根拠を述べています。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるしるしを、誰も行うことはできないからです」というのがそれです。
同じようなことをペトロが言っています。使徒言行録に、次のようなペトロの言葉があります。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、この方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。」(使徒2:22) これは、ペトロが復活されたイエスに出会った後、約束の聖霊が降ってきた時に語った言葉です。ペトロはイエスを教師としてだけでなく主キリストと見ています。そこがニコデモのこのときの見方とは違いますが、弟子としての信仰の紆余曲折を経て、ペトロはようやくこの言葉を述べるに至ったのです。くらべてニコデモはかなり早い段階で、イエスのなさる業に神のしるしを見ていることになります。ニコデモが、イエスについて、証言しているともとれる、的確な見方をしていたということでしょう。この福音書の著者ヨハネは、イエスが「人について誰からも証ししてもらう必要がなかった」方であると述べていますが、このニコデモの記事の直前のところ2:25でそれを記しているところからすると、著者は、このニコデモがイエスについて証ししているともとれる言葉を述べていた、ということを認めていたからなのかもしれません。
ニコデモがイエスについてこのような的確な見方ができたというのは、聖書の預言者たちの言葉を通して、イエスの言われること、なされる業を受けとめて見たからでしょう。たとえばイザヤ書には、「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる」(イザヤ書7:14)とあり、また「主の霊がその上にとどまる」(イザヤ11:2)とあります。この他にもイエスのなされる業やしるしに関わる預言者の言葉は多くあると思います。このような預言者の言葉のどこかはわかりませんが、照らし合わせて「神のもとから来られた教師」と見たところに、ニコデモがイエスのもとを訪ねる理由、意図があったのではないかと思います。
ニコデモはユダヤ人の指導者でありましたので、段階を踏んで進める話し方が身に着いていたはずです。まず初めの言葉で、敬意とともにイエスについての認識を述べ、イエスの返答によってさらに次の話に進めていこうという算段は考えていたでしょう。ところが、開口一番、イエスは「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。ニコデモにとって思いもかけなかった言葉だったでしょう。
イエスの受け答えとしての挨拶の言葉もありませんし、ニコデモに来訪の意図を尋ねる言葉もありません。著者ヨハネが省略した、ということも考えられますが、この通り受けとめてよいと思います。というのは、著者ヨハネが、「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」(2:25)と、やはり直前に記しているからです。このヨハネの言葉は、ニコデモに言われた、唐突のように思われるイエスの言葉を解説する意味もあったのではないかと思います。とすると、ニコデモの挨拶のような最初の言葉を受けて、ニコデモの意図を汲み取られたイエスの応答の言葉(4節)と見ることができます。
ニコデモがファリサイ派の人として重視していたのは、トーラー、神の律法です。神の民として神から求められているのは、律法に適った善い行いです。ファリサイ派の人はその律法の細いところにおいてまで神の道に従おうとした人たちです。そのようなファリサイ派の人ニコデモが、イエスを「神のもとから来られた教師」と見て、尋ねて来たのですから、さらに奥深く神が示す道をイエスから聞くことができる、教えを聞きたいと考えたのでしょう。3節の「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という言葉は、イエスの応答と見ることができます。
2.人が新たに生まれるということをめぐって 3-10節
イエスがニコデモの意図を知られたなら、「人は、・・・」と言わずに、「あなたは、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない」と言ってもよさそうです。しかし、イエスは「あなたは、・・・」とは言わず、「人は、・・・」と、一般的な教えとして述べています。ニコデモが人々を教える立場にいるユダヤ人の指導者でありましたので、このように述べられたのかもしれませんが、ニコデモが個人的な意図を表に出さずに、「私どもは、あなたが・・・」(2節)と述べていましたので、イエスはそのことを配慮して言われたとも考えられます。仮に、「あなたは、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」とニコデモ個人に向けた言葉を、しかも最初に告げられたら、このあとの展開はまた違うものになっていたかもしれません。しかし、「人は、…」と言われましたので、ニコデモは初対面の慎重さと警戒心を解いて聞くことができたのだと思います。4節、「年を取った者が…」という、思わず自分のことが出てしまったような言葉が、そのことを物語っています。ニコデモの言葉を、10節までのイエスの言葉とともに見ていきます。
「新たに生まれる」ということについて、ニコデモは、人がもう一度母の胎に入ることなどできるものではない、と考えています。まして「年を取った者」、それは、ニコデモ自身のことでしょうが、なおいっそう無理難題であります。どう考えても、生まれようがありません。仮に生まれることができたとしても、6節でイエスが言われているように、「肉から生まれたものは肉である」に過ぎないので、「新たに生まれる」ということにはなりません。ニコデモには、神の国を見る(神の国に入る)ことについて無理難題に当面した思いだったでしょう。
では、3節の「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言って、イエスはどのようなことを教えようとされたのでしょうか。イエスは「新たに生まれる」ということを、「誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と言う言い方で教えておられます。「水と霊とから生まれる」という言葉については、旧約の預言者エゼキエルは次のように語っています。
「私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める。あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。私の霊をあなたがたの内に授け、私の掟に従って歩ませ、私の法を守り行させる。」 エゼキエル書36:25-27
このエゼキエルの箇所の主語が「私」であることに注意すると、ニコデモの箇所の手がかりが得られると思います。この箇所の「私」は、すなわち主なる神です。その神が「あなたがた」である民に「新しい心をあたえ」、「新しい霊を授ける」と言われています。人の思いや人の意志でもって、それはイエスが言っておられる意味での「肉の」思いですが、清められるのではなく、主なる神が民を清め、主なる神が民に霊を注ぎ、掟に従って歩ませると言われています。ヨハネ3:8で、イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言っています。風がそうであるように、神のなさること、神の霊の働きは、人の思いに従うところでもないし、人の知るところを超えていると言われているのです。人が「新たに生まれる」ということは人知を超えた神がなさることなのです。
一方、ニコデモはどのように考えていたのでしょうか。ニコデモは、ファリサイ派の人でしたので、宗教的な清めを求めて、律法を厳格に守り行っていました。この地上で神の御心に適う善い行いをする。その清さの先に「神の国を見る」ということを考えているのです。律法を守り行うことによって神の国を見るに至るということは、律法を厳格に守り行っているということが自分でわかりますから、確かなことと考えることができます。しかし、イエスが言われた、神の国を見るために新たに生まれなおすといのは無理難題であります。人の思いのままにならない風が吹くのと同じように、「霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と言われると、ニコデモにはなんと不確かなことであったでしょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(9節)という言葉は、理解の及ばないことと、そんなことがあるはずがないという否定の言葉ですが、嘆きも含んでいるように聞こえます。それに対してイエスが「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」(10節)と言われました。ニコデモを叱責しているとも取れますが、イスラエルの指導者とあろう者でも理解及ばないのかという嘆き憂えるイエスの慨嘆の言葉のようにも聞こえます。
3.神の国を見るとは 11-15節
ニコデモが神と共にイエスが業をなしていると言っていたのを受けて、イエスは「父なる神と共に」という意味で「私たちは知っていることを語り、見たことを証ししている、・・・」(11節)と言っておられます。また、預言者たちが語り、証ししてきたということも重ね合わせて、「あなたがたは私たちの証を受け入れない」(11節後半)と言っているようにも読めます。つまり、イエスの言われていることこそ確かなことなのです。
イエスは、「人の子」として、言い換えると「天から降って来た者」(13節)として業をなしそして語られました。その業やしるしは「地上のこと」(12節)ですが、「天上のこと」を語り、また示しておられました。しかし、「あなたがた」多くの民は、そしてニコデモも、「天上のことに」にまで思いを至らせることができなかったのです(12節)。
イエスは、ご自身にとってもまた人々にとっても、最も大事な「業」であり、また「しるし」をニコデモに告げています。それが、14節の「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」という言葉です。モーセが掲げさせた蛇を仰ぎ見ると、蛇にかまれた者であっても死に至らずに命を得たという出来事があった(民数記21章にある)ように、「人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(15節)と付け加えておられます。この「皆」というのが、命を得る確かさをも言い表しています。著者ヨハネもイエスのこの言葉に続けて、「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」と記しています(16節)。「一人も滅びないで」というのが同じことを重ねて言い表しています。
信じる者になる、というのは、自分の意志でもって、自分で決断して信じるわけです。そうであるので、信じるということは不確かなことのようにも思われます。自分の意志や決断は必ずしもその後に及んで維持できるかどうかはわからないからです。しかし、この箇所から教えられるのは、神の思い、意志があって、主なる神が「霊」を注いでくださることによって、信じる者となる、ということです。そこに、私たちが信じることの確かさがあります。「永遠の命を得る」ということは、「神の国を見る」、あるいは「神の国に入る」ということです。この地上の命では、ニコデモも考えたようにできないのですから。
ニコデモがどのように受けとめたかは、これ以上記されてはいないのでわかりません。後にアリマタヤのヨセフとともにニコデモがピラトに申しでて、十字架で息を引き取られたイエスの遺体を引き取り、墓に納めることをしています(ヨハネ19:38以下)。それは、この二人がイエスの弟子であることを公にすることでもありました。イエスが十字架に上げられるに及んで、イエスが言われていたことが確かなことであり、十字架において「人の子が上げられる」確かな「しるし」であることをニコデモは理解したのだと思います。
4 正面から受けとめられるイエス
これまで、サマリアの女の人、イエスに走り寄ってきた富める人、そしてユダヤ人の指導者ニコデモと、イエスと対話した3人の人について見てきました。3人それぞれに住む世界が異なり、生き方もまるっきり異なる人たちでしたが、イエスはその人たち誰に対しても正面から受けとめて対話しておられました。そして、それぞれの人に応じてご自身を示されていました。先週の村田先生のフィリピの信徒への手紙の礼拝説教で、聖書協会共同訳聖書では、「キリストの真実による義」(フィリピ3:9)とされていることに触れて話しておられましたが、この翻訳について解説している浅野淳博氏は「キリストの真実」をキリストの信頼性、誠実さとも言い表しています(「ここが変わった!「聖書協会共同訳」 新約編」 日本基督教団出版局、p.105)。3人の人とそれぞれに対話された主イエスに「キリストの真実」を見ることができるように思います。