神を畏れ、その戒めを守れ 2024年5月12日(日曜 夕方の礼拝)

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神を畏れ、その戒めを守れ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 12章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。/災いの日々がやって来て/「私には喜びがない」と言うよわいに/近づかないうちに。
12:2 太陽と光、月と星が闇にならないうちに。/雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
12:3 その日には/家を守る男たちは震え/力ある男たちは身をかがめる。/粉挽く女は数が減って作業をやめ/窓辺で眺める女たちは暗くなる。
12:4 粉を挽く音が小さくなり/通りの門は閉ざされる。/鳥のさえずりで人は起き上がり/娘たちの歌声は小さくなる。
12:5 人々は高い場所を恐れ、道でおののく。/アーモンドは花を咲かせ、ばったは足を引きずり/ケッパーの実はしぼむ。/人は永遠の家に行き、哀悼者たちは通りを巡る。
12:6 やがて銀の糸は断たれ、金の鉢は砕かれる。/泉で水がめは割られ、井戸で滑車は砕け散る。
12:7 塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る。
12:8 空の空、とコヘレトは言う。/一切は空である。
12:9 さて、コヘレトは知恵ある者であり、さらに知識を民に与えた。彼はまた多くの格言を探し出し、吟味し、分類した。
12:10 コヘレトは喜ばしい言葉を見つけ出そうと努め、真実の言葉を正しく書き留めた。
12:11 知恵ある者の言葉は/突き棒や打ち込まれた釘に似ている。/集められた言葉は一人の牧者から与えられた。
12:12 わが子よ、これ以外のことにも注意せよ。/書物はいくら記しても果てしなく/体はいくら学んでも疲れるばかり。
12:13 聞き取ったすべての言葉の結論。/神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。
12:14 神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。
コヘレトの言葉 12章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 2022年2月から『コヘレトの言葉』を読み始めて、今夕はその最後の学びとなります。私たちは、2年と3か月に渡って、『コヘレトの言葉』を学んできたのです。今夕は第12章1節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節と2節をお読みします。

 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。災いの日々がやって来て「私には喜びがない」と言うよわいに/近づかないうちに。太陽と光、月と星が闇にならないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

 コヘレトは、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と言います。私たちは、神様によって、このことを心に刻んでいただいた者たちであります。先程、私たちは、「使徒信条」を告白しました。そこで私たちは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しました。それは、神様が私たちの心に、そのような信仰を刻んでくださったからであるのです。コヘレトが「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と言うのは、「私には喜びがない」と言う年齢が近づいているからです。若さも青春も束の間であって、人は年を取ることにより、あらゆる機能が衰え、喜びを感じにくくなっていくのです。

 『サムエル記下』の第19章に、ダビデ王の逃亡生活を支えたバルジライという人が出て来ます。バルジライは、非常に年を取っていて、あらゆる機能が衰えていました。そのバルジライについての記述を読んでみたいと思います。旧約の500ページです。第19章32節から40節までをお読みします。

 ギルアド人バルジライはヨルダン川で王を見送るためロゲリムから下り、王と一緒にヨルダン川まで来た。バルジライは非常に年を取り、八十歳になっていた。彼は大層裕福で、マハナイム滞在中の王の暮らしを支えた。王はバルジライに言った。「私と一緒に渡って行こう。エルサレムの私のもとで、今度は私があなたの面倒を見よう。」

 バルジライは王に言った。「王のお供をしてエルサレムに上りましても、私はあと何年生きられましょう。私はもう八十歳になります。善悪の判断もおぼつきません。何を食べても何を飲んでも僕には味がよく分からず、男女の歌い手の声さえもよく聞こえません。どうしてこの上、王様の重荷になれましょうか。王様と一緒に、僕がヨルダン川を渡って行くことはありません。王様がこれほどまでに私を気遣ってくださる必要はないのです。どうか、僕が帰って行くのをお許しください。父と母の墓のある私の町で死にたいのです。ここに、あなたの僕キムハムがおります。これに王様のお供をさせますから、あなたの良いと思うようにお使いください。」王は言った。「キムハムには、私と共に来てもらおう。あなたが良いと思うように、キムハムを使おう。また、あなたの望みはすべてかなえることとしよう。」

 民は全員ヨルダン川を渡り、王も渡った。王はバルジライに口づけして彼を祝福した。バルジライは自分の町に帰って行った。

 バルジライは、80歳という高齢で、善悪の判断もおぼつかず、何を食べても味がよく分からず、男女の歌い手の声もよく聞こえませんでした。思考能力、味覚、聴覚が衰えていたのです。ですから、どんなに美味しい御馳走であっても、どんなに美しい歌声であっても、バルジライは楽しむことができないのです。バルジライの望みは、父と母の墓のある自分の町で死ぬことであったのです。ここに、「喜びがない」というよわいがどのようなものであるかがよく表れていると思います。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の1033ページです。

 3節から8節までをお読みします。

 その日には/家を守る男たちは震え/力ある男たちは身をかがめる。粉挽く女は数が減って作業をやめ/窓辺で眺める女たちは暗くなる。粉を挽く音が小さくなり/通りの門は閉ざされる。鳥のさえずりで人は起き上がり/娘たちの歌声は小さくなる。人々は高い場所を恐れ、道でおののく。アーモンドは花を咲かせ、ばったは足を引きずり/ケッパーの実はしぼむ。人は永遠の家に行き、哀悼者たちは通りを巡る。やがて銀の糸は断たれ、金の鉢は砕かれる。泉で水がめは割られ、井戸で滑車は砕け散る。塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る。空の空、とコヘレトは言う。一切は空である。

 ここには、年を重ねることによって衰え、死んでいく人間の姿がたとえ(寓喩)で記されています。3節に、「家を守る男たちは震え、力ある男たちは身をかがめる」とあります。これは「手が震え、腰が曲がること」を意味しています。また、「粉挽く女の数は減って作業をやめ」とありますが、これは「歯が抜けて、その数が減ること」を意味しています。「窓辺で眺める女たちは暗くなる」は「目が見えにくくなること」を意味しています。4節の「粉を挽く音が小さくなり」は「耳が聞こえにくくなること」を、「鳥のさえずりで人は起き上がり」は「早起きになること」を、「娘たちの歌声は小さくなる」は「声が出にくくなること」を意味しています。5節の「人々は高い場所を恐れ、道でおののく」は「歩くことにも危険が伴うこと」を、「アーモンドの花を咲かせ」は「白髪になること」を(アーモンドの花は白い)、「ばったは足を引きずり」は「足があがらなくなり刷り足になること」を、「ケッパーの実はしぼむ」は「精力が衰えること」を意味しています(ケッパーは精力剤で、それがもはや効き目がないことを意味する)。「人は永遠の家に行き、哀悼者たちは通りを巡る」は「墓に葬られること」を意味しています。「銀の糸は断たれ、金の鉢は砕かれる」。「泉で水がめは割られ、井戸で滑車は砕け散る」は、いずれも「死ぬこと」を意味しています。7節にあるように、塵からできた体は大地に帰り、息は与え主である神に帰るのです。『創世記』の第2章7節に、こう記されていました。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」。この御言葉を背景にして、コヘレトは、「塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る」と言うのです。このようにして、人は束の間の人生を終えることになるのです。それゆえ、コヘレトは、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と言うのです。このコヘレトの言葉を、新約時代の私たちに当てはめると、「若き日に、主イエス・キリストを信じなさい」となります。なぜなら、主イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きる永遠の命を持つことができるからです。死は、すべてを空しいものにしてしまいます。しかし、イエス・キリストを信じる私たちには、死者の中から復活するという生き生きとした希望が与えられているのです(一ペトロ1:3参照)。

 私たちの教会の仲間にも、高齢の姉妹たちがおられます。また、天に召された高齢の兄弟姉妹たちがおられました。その兄弟姉妹たちのことを懐かしく思い起こします。ある姉妹は、「若い頃は、大きな声で讃美歌を歌った」と語ってくださいました。また、ある兄弟は、「自分の楽しみは礼拝だけだ」と語ってくださいました。そのような兄弟姉妹のことを思い起こすとき、イエス・キリストを信じる者には、一つの喜びが与えられていることを教えられます。それは、イエス・キリストの父なる神を、私たちの父なる神として礼拝できる喜びです。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白し、「天にまします我らの父よ」と祈ることができる喜びです。その礼拝の喜びは、死を越えて永遠に続きます。天に召された兄弟姉妹たちは、天上の教会で、父なる神と主イエス・キリストを礼拝しているのです(黙示7章参照)。

 今夕は最後に、「締めくくり」の言葉を学んで終わります。

 9節から14節までをお読みします。

 さて、コヘレトは知恵ある者であり、さらに知識を民に与えた。彼はまた多くの格言を探し出し、吟味し、分類した。コヘレトは喜ばしい言葉を見つけ出そうと努め、真実の言葉を正しく書き留めた。知恵ある者の言葉は/突き棒や打ち込まれた釘に似ている。集められた言葉は一人の牧者から与えられた。

 わが子よ、これ以外のことにも注意せよ。書物はいくら記しても果てしなく/体はいくら学んでも疲れるばかり。聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。

 この「締めくくり」の言葉は、コヘレトとは別の人物によって、後から付け加えられたようです。ここでは、2つのことだけを申します。11節に、「集められた言葉は一人の牧者から与えられた」とあります。この「一人の牧者」とは、神様のことです(詩編23:1「主は私の羊飼い」参照)。ここでは、『コヘレトの言葉』が神から与えられた聖書であると言われています。

 また、その要約においても、『コヘレトの言葉』が聖書にふさわしい書物であることが言われています。13節にこう記されています。「聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである」。この結論が、『コヘレトの言葉』の結論としてふさわしいかどうかは意見が分かれるところです。しかし、この結論があったからこそ、『コヘレトの言葉』は正典に加えられたと言えるのです。「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである」。これを、新約時代の私たちに当てはめると次のように言えます。「主イエス・キリストを愛し、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである」。そして、このすべてのことを、神様が私たちにしてくださるのです。神様が、私たちに主イエス・キリストを愛する愛を与えてくださり、私たちを、全身全霊で神を愛する者、隣人を自分のように愛する者へと造り変えてくださるのです(マルコ12:29~31、二コリント3:18参照)。

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