キリストの真実による義 2024年5月12日(日曜 朝の礼拝)
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キリストの真実による義
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- 村田寿和 牧師
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フィリピの信徒への手紙 3章4節~9節
聖書の言葉
3:4 とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。
3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。
3:7 しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。フィリピの信徒への手紙 3章4節~9節
メッセージ
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序.前回の振り返り
第3章で、パウロは、偽教師たちについての警告の言葉を記しています。この偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけでなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないと教えるユダヤ人キリスト者たちであったようです。彼らは、神の契約の民のしるしとして、割礼を誇っていました。2節に「形だけの割礼を受けた者」とありますが、元の言葉を見ると、「切り傷の者」と記されています。偽教師たちは、割礼を誇っていましたが、パウロは、それを「切り傷」と言うのです。そして、パウロは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です」と言うのです。この「私たち」は、ユダヤ人であるパウロと異邦人(外国人)であるフィリピの信徒たちを含めた「私たち」のことです。異邦人であるフィリピの信徒たちは、肉に割礼を受けていません。ですから、ここでの「真の割礼」とは、神による心の割礼のことを言っているのです。『申命記』の第30章6節で、モーセはこう語っていました。「あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる」。このモーセの預言の実現として、主イエス・キリストは、私たちの心に割礼を施してくださったのです。私たちは、主イエス・キリストによって心の割礼を受けた者として、神の霊によって礼拝し、イエス・キリストだけを誇りとしているのです。私たちは、心の割礼を受けたしるしとして、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けたのです。
ここまでは、前回の振り返りです。今朝は、4節以下をご一緒に学びたいと思います。
1.肉の頼み
パウロは、「私たちは、イエス・キリストを誇りとし、肉を頼みとしない」と言いました。それは、パウロが肉の頼みを持っていないからではありません。自分に誇れるものがないので、イエス・キリストを誇りとすると言っているのではないのです。
4節から6節までをお読みします。
とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非のうちどころのない者でした。
ここに記されているパウロの経歴は、ユダヤ人として立派な経歴です。パウロは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でした。ベニヤミン族は、ユダ族と共に、南王国ユダを形成した部族で、由緒ある家系を証明できる部族でした(北王国イスラエルの失われた十部族とは違う)。まさに、パウロはヘブライ人の中のヘブライ人であったのです。また、パウロは、ユダヤの宗教で最も厳格なファリサイ派に属していました。パウロは律法に対する熱心さのあまり、教会を迫害したほどであったのです。また、パウロは、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。パウロは、律法を守れないことに悩んで、イエス・キリストを信じたのではありません。パウロの自己認識によれば、「律法の義に関しては非の打ちどころのない者」であったのです。
2.栄光のキリストとの出会い
そのようなパウロが、なぜ、イエス・キリストのみを誇りとするようになったのでしょうか。それは、栄光の主イエス・キリストがパウロに出会ってくださったからです。『使徒言行録』の第9章1節から9節までをお読みします。新約の225ページです。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは、地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
サウロ(かつてのパウロ)は、主に仕えているつもりで、イエスの弟子たちを迫害していました。しかし、パウロは、天からの声によって、自分が迫害しているイエスが主であると知ることになります。パウロは、復活された主イエス・キリストとの出会いによって、福音を滅ぼそうとする者から、福音を宣べ伝える者へと変えられるのです。また、パウロは、復活された主イエス・キリストとの出会いによって、「人は律法の行いではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」という福音の奥義を示されたのです(ガラテヤ1:12、2:16参照)。先程も申しましたように、パウロは、律法を守ることができなくて、イエス・キリストを信じたのではありません。パウロの自己認識によれば、「律法の義については非の打ちどころのない者」であったのです。そのパウロが、「人は律法の行いではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と信じたのは、なぜか。それは、約束のメシア(救い主)が、ご自分の民に代わって、十字架の死、律法の呪いの死を死んで、三日目に復活されたからです。なぜ、約束のメシア(救い主)であるイエスが、十字架の死、律法の呪いの死を死なれたのか。それは、人は誰も神の御前に律法を守ることによっては義とされないからです。もし、アダムの子孫である人間が、律法を守って、神の御前に義とされるのであれば、神の御子が人となって、律法の呪いの死を死ぬ必要はありませんでした。しかし、実際、神の御子は人となって、律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださったのです。そして、神様は、イエス・キリストを復活させて、ご自分の右の座にあげられ、あらゆる名にまさる名、主という名をお与えになったのです。そのことは、「人は律法の行いではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということを、私たちに教えているのです。
3.価値観の大転換
今朝の御言葉に戻ります。新約の356ページです。
7節から9節までをお読みします。
しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
パウロは、自分にとって利益であった肉の誇りを、キリストのゆえに損失と見なすようになりました。そればかりか、パウロは、主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ているのです。イエス・キリストに出会う前のパウロは、ユダヤ社会の中で、いわゆるエリートでした。パウロには、将来、社会的な地位や名誉が約束されていたのです。しかし、パウロは、キリストのゆえに、すべてを失いました。そして、今ではそれらを屑と考えているのです。それは、パウロが、キリストを得、キリストの内にいる者と神様によって認められるためです。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためには、肉を頼みとせず、ただキリストのみを頼みとしなくてはならないのです(ガラテヤ6:14参照)。また、パウロがそれらを屑考えているのは、キリストの真実による義、その真実に基づく神からの義が与えられているからです。キリストの真実による義をいただいている者として、もはやパウロは律法による自分の義を追い求める必要はないのです。
4.キリストの真実による義
「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります」。「キリストの真実による義」の別訳は、「キリストへの信仰による義」です(聖書協会共同訳 引証・注つき参照)。また、「その真実に基づいて神から与えられる義」の別訳は、「その信仰に基づいて神から与えられる義」であります。かつて用いていた新共同訳は、こう訳していました。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。聖書協会共同訳になって、「キリストへの信仰による義」が「キリストの真実による義」に変わりました。また、「信仰に基づいて神から与えられる義」が「その真実に基づいて神から与えられる義」に変りました。元の言葉、ギリシャ語のピスティスは、「信仰」とも「真実」とも訳すことができます。また、「キリストへの信仰」は「キリストの信仰」とも「キリストの真実」とも訳すことができます。聖書協会共同訳のように、「キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義」と翻訳すると、へりくだって、十字架の死に至るまで従順であられたキリストの真実(誠実さ)によって救われることが明らかになります。他方、新共同訳のように、「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と翻訳すると、神の賜物であるキリストへの信仰によって救われることが明らかになります。聖書協会共同訳は、文脈によって、ピスティスという言葉を、「信仰」と訳したり、「真実」と訳したりしています。そして、ここでは、「律法による自分の義」との対比から「キリストの真実による義」と翻訳しているのです。
参考資料として、『ここが変わった!「聖書協会共同訳」』という書物からコピーしたものを週報に挟んでおきました。大切なことですので、お読みします。浅野淳博(あさのあつひろ)さんの文章です。
「義とされる」とは一般に、神と良い関係を持つ者とされることです。ガラテヤの信徒への手紙2章16節は従来「キリストへの信仰により義とされる」と訳されてきましたが(明治元訳以降、大正訳、口語訳、フランシスコ会訳、岩波訳、新改訳2017とも「[信ずる]信仰」に準ずる訳語)、聖書協会共同訳では「義とされるのは・・・キリストの真実による」となっています。私たちが義とされるのは、キリストを信じるから(前者)でしょうか。あるいは、キリストが十字架で真実 ― つまり神への誠実さ ― を示したから(後者)でしょうか。この問いは、キリスト者の在り方の本質に関わる問題です。
このように翻訳へ変更が加わったことには二つの事情が関わっています。一つは、これまで「信仰」と訳されてきたピスティスというギリシア語が「真実/誠実さ」とも十分に訳し得るという事情です。この語は本来、人と人、あるいは人と神との関係性を築き、維持するのに不可欠な要素 ― つまり信頼性 ― を指します。そしてこの語は、信頼性を態度で示す「信仰(信頼)」、あるいは信頼性の根拠となる「誠実さ(真実)」の両方の意味を持っています。著者がどちらの意味を念頭において用いているかは文脈によって判断されます。例えばガラテヤ書3章9節では「アブラハム」が神の言葉に信頼を置くという文脈でピスティスが用いられているので、この場合は「真実」でなく「信仰」と訳すのが適切でしょう。
もう一つは、これまで「キリストへの」と訳されてきたクリストゥーというギリシア語が文字通りには「キリストの」であるという事情です。ギリシア語文法には「格」という概念がありますが、これは日本語文法での助詞である「てにをは」のような機能を果たしています。クリストゥーは、本来の「クリストス(キリスト)」という名詞に格変化が起こって属格という格の形になったものです。属格の「クリストゥー」が「ピスティス」につながる場合、「キリストのピスティス」とも「キリストへのピスティス」とも訳すことができます。この場合も、どちらの意味をとるかは文脈によって判断されます。
私はガラテヤ書2章16節については「キリストの真実(信頼性)」に軍配を上げます。十字架に象徴されるイエス・キリストの在り方、― 十字架の死に至るまで神への誠実を尽くして人に仕えたその生き様(フィリピ2:7〜8参照)― が人を神との和解へと向けるからです(ローマ5:10参照)。もっとも私たちが、キリストとの信頼関係 ― 信じること ― をとおして神との和解という義の状態に至ることも確かです。ですからこの場合に「キリストの真実(誠実さ)」という解釈を選択したとしても、それは「キリストへの信仰」を軽んじることにはなりません。それは「キリストへの信仰」という解釈を選択したとしても、キリストの十字架が象徴する「真実(誠実さ)」を軽んじることにならないのと同じです。
もしかしたらパウロは、どちらの意味とも訳し得る「ピスティス・クリストゥー」という表現を用いることによって、読者が信仰の営みの両側面の重要さを強く心に留めるように促しているのかもしれません。いずれの訳でも、キリストと私たちの信頼関係(ピスティス)が信仰生活の鍵であることに違いはありません。
このように、「キリストの真実によって義とされる」ことは「キリストへの信仰による義とされる」ことでもあるのです(ピスティス・クリストゥーは二重の意味を持っている)。
結.キリストの真実と律法の義の関係
今朝は最後に、キリストの真実と律法の義の関係についてお話ししたいと思います。パウロは、6節で、自分のことを「律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした」と語っていますが、これは故意の言葉と行いの罪を犯していないということです。パウロは、無意識の罪(過失)や心の中での罪のことは言っていません。つまり、パウロは、「他の人と比べて、自分は律法の義に関しては非の打ちどころのない者であった」と言っているのです。パウロは、自分を含めた人間が、律法を守ることによって神の御前に義とされないと信じています。しかし、神の御子が人となられたイエス・キリストは、そうではありません。イエス・キリストは律法を完全に守られて、神の御前に義とされた御方であるのです。イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、父なる神に従われた真実によって、神の義を完全に満たされたのです。そのイエス・キリストの真実が私のためであったと信じる信仰によって、私たちは神の御前に正しい者とされているのです。そして、ここに「キリストを知るすばらしさ」があるのです。