真の割礼を受けた者
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 フィリピの信徒への手紙 3章1節~3節
3:1 では、私のきょうだいたち、主にあって喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これは私には煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
3:2 あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者に気をつけなさい。
3:3 神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。フィリピの信徒への手紙 3章1節~3節
先程は、『フィリピの信徒への手紙』の第3章1節から9節までをお読みしました。今朝は1節から3節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節をお読みします。
では、私のきょうだいたち、主にあって喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これは私には煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
パウロは、主イエス・キリストにあって兄弟姉妹とされたフィリピの信徒たちに、「主にあって喜びなさい」と言います。パウロは、「主イエス・キリストに結ばれている者として喜びなさい」と言うのです。このパウロの言葉は異様に思えるのではないでしょうか。なぜなら、喜びとは自分の心からわき上がってくる自発的な感情であって、他人から命じられるものではないと思うからです。しかし、パウロは、私たちにも「主にあって喜びなさい」と言うのです。このパウロの言葉は、私たちがこの世のあらゆる悲惨や苦しみにもかかわらず、主イエス・キリストにあって喜ぶことができることを教えています。私たちは喜ぶことができる大きな恵みを主イエス・キリストにあっていただいているのです(マタイ5:3「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」参照)。パウロが「主イエス・キリストにあって喜びなさい」と言うのは、喜ぶことができる天の祝福が主イエス・キリストにあって与えられているからです。「主にあって喜びなさい」という命令は、「主にあって天の祝福をいただいている」という事実に基づいているのです。少し先の第3章20節に、「私たちの国籍は天にあります」と記されています。私たちは主にあって天に国籍を持つ者として、喜ぶことができるのです。パウロは、「主イエス・キリストにあって喜ぶことは、あなたがたにとって安全なことである」と言います。このパウロの言葉は、私たちが喜ぶことができないとき、主イエス・キリストを見失っている危険な状態にあることを教えています。主イエス・キリストに結ばれていることを忘れて、主イエス・キリストによって与えられている恵みを見失うとき、私たちは喜ぶことができなくなります。ですから、そのような時にこそ、私たちは、礼拝に出席して、主イエス・キリストにある天の祝福へと心の目を向けるべきであるのです。
2節と3節をお読みします。
あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけの割礼を受けた者に気をつけなさい。神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。
ここには「気をつけなさい」という言葉が三度も記されています。「あの犬ども」「悪い働き手たち」「形だけ割礼を受けた者たち」。これらは同じ人たちのことを言っているようです。これらの言葉から分かることは、この偽教師たちが、イエス・キリストを信じるだけではなくて、割礼を受けるように教えるユダヤ人キリスト者であったということです。少し前に、私たちは『ガラテヤの信徒への手紙』を学びました。ガラテヤの諸教会は、イエス・キリストを信じるだけでなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないと教える偽教師たちによって惑わされていました。そのような偽教師たちが、フィリピの教会にも忍び込んでいたようです。パウロはそのことを聞いて、フィリピの信徒たちの信仰を守るために、「あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけの割礼を受けた者に気をつけなさい」と記すのです。「形だけの割礼を受けた者」とありますが、元の言葉には、「割礼」という言葉は用いられていません。元の言葉には「切り傷の者たち」と記されています(岩波訳「切断の者たち」参照)。偽教師たちは、自分たちは神の民のしるしとして、割礼を受けていると誇っていました。しかし、パウロは、彼らが誇っているのは切り傷にすぎないと言うのです。割礼とは、男性の性器の包皮の部分を切り取る儀式のことです。旧約時代、割礼は神の民のしるしでした。『創世記』の第17章9節から11節までをお読みします。旧約の20ページです。
神はアブラハムに言われた。「あなたと、あなたに続く子孫は、代々にわたって私の契約を守らなければならない。私とあなたがた、およびあなたに続く子孫との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたがたのうちの男子は皆、割礼を受けなければならない。包皮に割礼を施しなさい。これが私とあなたがたとの契約のしるしとなる。」
このように割礼は、神と民との契約のしるしであったのです。ですから、偽教師たちは、イエス・キリストを信じた異邦人たちに、割礼を受けるようにと教えていたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の356ページです。
偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけでなく、割礼を受けるようにと教えていました。しかし、パウロは、3節で「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です」と言います。パウロは、神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ、真の割礼を受けた、神の契約の民であると言うのです。ここでの「真の割礼」とは、「心の割礼」のことです。と言いますのも、パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第2章28節と29節でこう記しているからです。新約の271ページです。
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。
パウロによれば、肉に施される割礼は、心に施される割礼を指し示すものでした。このことは、モーセが語っていたことです。『申命記』の第10章12節から16節をお読みします。旧約の282ページです。
イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に心を尽くし、魂を尽くして仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたがたが幸せになることではないか。見よ、天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。ただ、主はあなたの先祖にのみ心をかけて愛され、後に続く子孫であるあなたがたを、すべての民の中から今日あるように選ばれた。だから、あなたがたの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってはならない。
ここで、モーセは、イスラエルの民に、主があなたがたを愛し、選んでくださったのだから、「あなたがたの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってはならない」と言っています。
また、第30章6節で、モーセはこう言っています。旧約の313ページです。
あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。
ここで、モーセは、神が、あなたがたの心に割礼を施して、心を尽くして神を愛し、命を得ることができるようにしてくださると言います。このモーセの言葉の実現として、パウロは、今朝の御言葉で、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です」と記しているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の356ページです。
「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です」。「神の霊によって礼拝する」とは、父なる神の霊である聖霊によって「イエス・キリストは主である」と告白し、子なる神イエス・キリストの霊によって「アッバ、父よ」と神を呼んで、礼拝をささげることです。私たちは、父なる神の霊であり、御子イエス・キリストの霊である聖霊の執り成しによって、礼拝をささげているのです。旧約聖書を読むと、礼拝の規定が細かく記されています。特に、『レビ記』を読むと、神様にささげる動物犠牲について詳しく記されています。しかし、私たちは、礼拝において動物をいけにえとしてささげていません。それは、私たちの大祭司であるイエス・キリストが、ご自身をいけにえとしてささげてくださり、永遠の贖いを成し遂げてくださったからです(ヘブライ9:11、12参照)。そのような主イエス・キリストの聖霊によって、私たちは礼拝をささげているので、もはや動物をいけにえとして献げる必要はないのです。旧約聖書に記されている礼拝の規定に私たちが従っていないのは、私たちが神の霊によって礼拝をささげているからであるのです。イエス・キリストの霊によって礼拝をしている私たちは、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げているのです(ローマ12:1参照)。
パウロは、「キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たち」と記していますが、ここには、「形だけの割礼(切り傷)を誇る偽教師たちは、キリスト・イエスを誇りとせず、肉を頼みとしている」という非難が込められています。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないと教えていました。それは、言い換えると、イエス・キリストに頼らず、自分の肉、自分の業に頼ることであるのです。救いの根拠をどこにおくかという問題であります。形だけの割礼(切り傷)を誇る者は、イエス・キリストではなく、自分の業により頼んでいる。それは、結局は、イエス・キリストの死を、神の恵みを、無意味にしてしまうことであるのです(ガラテヤ2:21参照)。イエス・キリストを頼りとすることと自分の肉を頼りとすることは、共に立つことはありません。イエス・キリストを頼りとする者は、自分の肉を頼りとしません。他方、自分の肉を頼りとする者は、イエス・キリストを頼りとしません。自分の肉を頼りとするならば、私たちは、イエス・キリストから遠ざかってしまうのです(ガラテヤ5:4参照)。ですから、パウロは三度も、「偽教師たちに気をつけなさい」と言うのです。
私たちの主イエス・キリストは、十字架の血潮によって、エレミヤが預言していた新しい契約を実現してくださいました(エレミヤ31:33,34「私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである―主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」、ルカ22:20「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」、ヘブライ8章も参照)。イエス・キリストは、新しい契約の祝福を実現してくださった御方として、私たちの心に割礼を施してくださり、神の霊によって礼拝し、イエス・キリストのみを誇りとする者たちとしてくださったのです。そのしるしとして、私たちは、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を受けたのです。
今朝は、最後に、心の割礼と洗礼の関係についてお話して終わりたいと思います。『コロサイの信徒への手紙』の第2章11節と12節をお読みします。新約の362ページです。
あなたがたはキリストにあって、手によらない割礼を受けました。それは肉の体を脱ぎ捨てること、すなわち、キリストの割礼です。あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
ここでの「手によらない、キリストの割礼」とは、聖霊によって施された心の割礼のことを指しています。私たちはキリストにあって、心の割礼を受けた者として、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたのです。「旧約時代の割礼が、新約時代では洗礼になった」と言われます(生後八日目に割礼を施したことが幼児洗礼の一つの根拠とされる)。そこには、主イエス・キリストの聖霊によって、心の割礼が施されたという決定的な出来事があるのです。私たちは、神の霊によって礼拝し、イエス・キリストのみを誇りとする「心に割礼を施された、新しい契約の民」として、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けたのです。