あなたの造り主を心に刻め 2024年4月14日(日曜 夕方の礼拝)
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あなたの造り主を心に刻め
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 11章1節~12章2節
聖書の言葉
11:1 あなたのパンを水面に投げよ。/月日が過ぎれば、それを見いだすからである。
11:2 あなたの受ける分を七つか八つに分けよ。/地にどのような災いが起こるか/あなたは知らないからである。
11:3 雲が満ちれば、雨が地に降り注ぐ。/木が南に倒れても、北に倒れても/その倒れた場所に木は横たわる。
11:4 風を見守る人は種を蒔けない。/雲を見る人は刈り入れができない。
11:5 あなたはどこに風の道があるかを知らず/妊婦の胎内で骨がどのようにできるかも/知らないのだから/すべてをなす神の業は知りえない。
11:6 朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな。/うまくいくのはあれなのか、これなのか/あるいは、そのいずれもなのか/あなたは知らないからである。11:7 光は快く、太陽を見るのは目に心地よい。
11:8 人が多くの年月を生きるなら/これらすべてを喜ぶがよい。/しかし、闇の日が多いことも思い起こすがよい。/やって来るものはすべて空である。
11:9 若者よ、あなたの若さを喜べ。/若き日にあなたの心を楽しませよ。/心に適う道を/あなたの目に映るとおりに歩め。/だが、これらすべてについて/神があなたを裁かれると知っておけ。
11:10 あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け。/若さも青春も空だからである。
12:1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。/災いの日々がやって来て/「私には喜びがない」と言うよわいに/近づかないうちに。
12:2 太陽と光、月と星が闇にならないうちに。/雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
コヘレトの言葉 11章1節~12章2節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は第11章1節から第12章2節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節と2節をお読みします。
あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見出すからである。あなたの受ける分を七つか八つに分けよ。地にどのような災いが起こるか/あなたは知らないからである。
知恵の教師であるコヘレトは、「あなたのパンを水面に投げよ」と言います。その意味するところは、「惜しみなく与えよ」ということです。パンを水面に投げることは、パンを無駄にするような行為です。それと同じように、お返しできない人に与えることも無駄なように思えます。しかし、コヘレトは、「月日が過ぎれば、それを見出す」と言うのです。かつて与えたものが巡り巡って自分に返って来るというのです。ここには、「弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること。主はその行いに報いてくださる」という信仰があります(箴言19:17)。貧しい人を造られた主が報いてくださるゆえに、コヘレトは、「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見出すからである」と言うのです。同じようなことを、イエス様も、『ルカによる福音書』の第16章の「不正な管理人のたとえ」で言われています。新約の138ページです。第16章9節をお読みします。
「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
「不正の富」とは、この地上の富のことです。イエス様は、この地上の富を施すことによって、貧しい人の友となるようにと言われています。そうすれば、貧しい人を造られた神様が、あなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくださると言うのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1032ページです。
2節に「あなたの受ける分を七つか八つに分けよ」とありますが、このところを新共同訳は、「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」と翻訳しています。「あなたの受ける分」とは「神から賜物としていただいたパン(食料)」のことです。そのパンを多くの人と分かち合っておけば、地に災いが起きて食料に困っても、分けてもらうことができるのです。地にどのような災いがおこるかを知らないからこそ、あなたのパンを七人、八人と分けておけとコヘレトは言うのです。ここでコヘレトが言っていることは、ことわざで言えば、「情は人のためならず」ですね(「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる」という意味)。私たちは、地にどのような災いが起こるか知らないからこそ、貧しい人に施し、困っている人に親切にすべきであるのです。
3節と4節をお読みします。
雲が満ちれば、雨が地に降り注ぐ。木が南に倒れても、北に倒れても/その倒れた場所に木は横たわる。風を見守る人は種を蒔けない。雲を見る人は刈り入れができない。
3節には、人間の力ではどうしようもないことの代表例が記されています。人間が雨が降って欲しくないと思っても、雲が満ちれば、雨は地に降り注ぎます。また、南風に倒されても北風に倒されても、木はその倒れたところに横たわります(新共同訳参照)。人は風によって倒れる木の方角を定めることはできないのです。それゆえ、風を見守る人は種を蒔けない。雲を見る人は刈り入れができないのです。ですから、人は風や雲が思いどおりにならない、予測できないことを認めて、決断をして、種を蒔き、刈り入れをすべきであるのです。
5節と6節をお読みします。
あなたはどこに風の道があるかを知らず/妊婦の胎内で骨がどのようにできるかも知らないのだから/すべてをなす神の業は知りえない。朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか。あるいは、そのいずれもなのか/あなたは知らないからである。
イエス様は、ニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と言われました(ヨハネ3:8)。そのように、私たちは、「どこに風の道があるか」を知らないのです。また、コヘレトの時代、紀元前3世紀の人々にとって、「妊婦の胎内で、赤ちゃんがどのように形作られるか」はまさしく神秘でありました。現代では、妊婦の胎内をエコーで見ることができます。しかし、それでも、赤ちゃんの誕生はまさに神秘です。そのような私たちにとって、すべてをなす神の業を知ることはできないのです。そのことは、蒔いた種がうまくいくかどうか、においても言えます。蒔いた種が芽を出して成長することも、神の御業であると考えられていました。すべてをなす神の業を知ることができない私たちには、蒔いた種のどれがうまくいのか、あれのなのか、これなのか、あるいはいずれもなのか分かりません。だからこそ、コヘレトは、「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな」と言うのです(ちなみに、昼間は暑いので働かずに天幕で休む)。知らないからこそ、勤勉に働くようにと、コヘレトは言うのです。
1節から6節には、「知らない」という言葉が三度記されています。2節に「あなたは知らないからである」とあります。また、5節に「知らないのだから」とあります。さらに、6節に「あなたは知らないからである」とあります。私たちには分からないこと、知らないことがたくさんあります。そのことを認めて、私たちは助け合い、決断をし、勤勉に働くべきであるのです。
7節と8節をお読みします。
光は快く、太陽を見るのは目に心地よい。人が多くの年月を生きるなら/これらすべてを喜ぶがよい。しかし、闇の日が多いことも思い起こすがよい。やって来るものはすべて空である。
「光は快く、太陽を見るのは目に心地よい」。このコヘレトの言葉は、生きることを肯定する言葉です。私たちは、晴れている日に、あたたかな太陽に照らされると、生きることの素晴らしさを感じます。人が多くの年月を生きること。年を重ねることは、喜ばしい神の祝福であります。しかし、コヘレトは、「闇の日が多いことも思い起こすがよい」と言います。「闇の日」とは、苦しみと悩みの日のことです。人生には、良いときもあれば、悪いときもあるのです。コヘレトは「やって来るものはすべて空である」と言います。ここでの空(ヘベル)は「束の間」という意味であると解釈できます。コヘレトは、「闇の日も多いが、それは束の間である」と、私たちを慰め、励ましているのです。
第11章9節から第12章2節までをお読みします。
若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ。心に適う道を/あなたの目に映るとおりに歩め。だが、これらすべてについて/神があなたを裁かれると知っておけ。あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け。若さも青春も空だからである。若き日に、あなたの造り主を心に刻め。災いの日々がやって来て、「私には喜びがない」というよわいに近づかないうちに。太陽と光、月と星が闇にならないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
ここでコヘレトは、「若者よ」と呼びかけます。コヘレトは、この書物を、若者に対する言葉で締めくくるのです。コヘレトは、「若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ。心に適う道を/あなたの目に映るとおりに歩め」と言います。コヘレトは、若者に対して寛大ですね。若者は自分の思うとおりの道を歩んだらよいと言うのです。けれども、コヘレトは、一つの警告を記します。「だが、これらすべてについて/神があなたを裁かれると知っておけ」。コヘレトは、このように記すことによって、若き日の喜びや楽しみを、神の御心に適ったものにしようとするのです(詩119:9「どうすれば若者は自分の道を清く保てるでしょうか。あなたの言葉どおりにそれを守ることです」参照)。
コヘレトは、若者に、「あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け」と言います。それは、若さも青春も空であるからです(「青春」とは「人生の春にたとえられる若い時代。青年期」の意味)。ここでの空(ヘベル)も束の間という意味であると思います。若さも青春も束の間である。だから、悩みと痛みを取り去って、大いに楽しめと言うのです。コヘレトは、多くの年月を重ねた者として、自分が若かった頃を振り返りつつ、若者に対する言葉を記しているのです。そのコヘレトが、第12章1節で、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と言うのです。それは、あなたの造り主である神を心に刻むことによって、災いの日々にも、年を重ねても、喜びをもって歩むことができるようになるからです。ここで「あなたの造り主」と言われていることに注意したいと思います。神は、私たちを造られた御方であるのです。また、神は、私たちにパンとぶどう酒を与え、私たちの心を楽しませてくださる御方でもあります。コヘレトは、第5章17節から19節でこう記していました。旧約の1025ページです。
見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見出すことである。それこそが人の受ける分である。神は、富や宝を与えたすべての人に、そこから食べ、その受ける分を手にし、その労苦を楽しむよう力を与える。これこそが神の賜物である。人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって答えてくれる。
このようなコヘレトの幸福論の前提には、「あなたの造り主を心に刻む」ことがあるのです。それゆえ、コヘレトは、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と言うのです。たとえ、年老いていたとしても、その人にとって、今日が一番若い日であります。それゆえ、私たちは、今日という日に、自分の造り主を心に刻みたいと願います。