へりくだりの模範 2024年4月14日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
2:4 めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
2:6 キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
2:7 かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ
2:8 へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
2:11 すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられていることを学びました。パウロは、イエス・キリストのために捕らえられ、投獄されていました。その苦しみをも、パウロは恵みであると言うのです。そして、パウロは、フィリピの信徒たちが、自分と同じ苦しい闘いを続けていると言うのです。そのフィリピの信徒たちに、パウロは、今朝の御言葉で、思いを一つして、へりくだるようにと言います。

 第2章1節と2節をお読みします。

 そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

 パウロは、「幾らかでも・・・あるのなら」と記していますが、これはあることを疑っているのではなく、あることを前提にしています。パウロは、「あなたがたには、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心が与えられているのだから」と言いたいのです(新共同訳参照)。ある研究者(佐竹明)は、「キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり」という言葉の背景には、礼拝で語られていた祝福の言葉があると言っています。『コリントの信徒への手紙二』の第13章13節に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」と記されています。そこには、父なる神の愛、子なる神イエス・キリストの恵み、聖霊の交わりという三位一体の神の祝福が語られています。この御言葉は、礼拝の最後に語られる祝福の言葉として用いられるようになりました。私たちの教会でも、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同とともにあるように」という言葉で礼拝を閉じます。ある研究者は、フィリピの教会においても同じであったのではないかと考えるのです。そう聞けば、言葉が少し違うと思われるかも知れません。それは、フィリピの信徒たちがパウロと同じ苦しい闘いを続けていたためであると思います。パウロは、自分と同じ苦しい闘いを続けているフィリピの信徒たちのことを思って、「キリストの恵み」を「キリストによる励まし」に変え、「神の愛」を「(神の)愛の慰め」に変えたと考えられるのです。ここでの「憐れみや慈しみの心」も三位一体の神の祝福を源とする憐れみや慈しみの心であります。パウロは、主の日の礼拝ごとに、主イエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりという祝福を受けているフィリピの信徒たちに対して、「あなたがたにはキリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心が与えられているのだから」と記すのです。同じことが、私たちにも言えます。主の日の礼拝ごとに、主イエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりという祝福を共に受けている私たちには、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心が豊かに与えられているのです。

 パウロは、フィリピの信徒たちに、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心が豊かに与えられていることを思い起こさせたうえで、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」と言います。このパウロの言葉から推測すると、フィリピの信徒たちは同じ思いとなっていなかったようです。少し先の第4章2節と3節で、パウロはこう記しています。「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。ここには、教会を指導する立場にあった二人の婦人が対立していたことが記されています。フィリピの教会においても、信徒同士の争い、対立というものがあったのです。牧師にとって、教会員が争い、対立しているのを見たり、聞いたりするのは悲しいことです。そのような悲しみを味わうことがないように、いやむしろ、私の喜びが満ちあふれるように、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしてほしいとパウロは言うのです。ここでパウロが求めていることは、私たちの主イエス・キリストにある一致ですね。私たちは、礼拝において、心を合わせて、声をそろえて、イエス・キリストの父なる神を崇めています。キリストの教会である私たちの一致は、何よりも礼拝において実現し、表されるのです。私たちは、主イエス・キリストを信じる者として、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして、礼拝をささげているのです。そのようにして、私たち自身が喜びに満たされているのです。

 3節から5節までをお読みします。

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それは、キリスト・イエスにも見られるものです。

 「利己心」とは「自分の利益ばかり考え、他人のことを顧みない心」のことです(明鏡国語辞典)。また、「虚栄心」とは「自分を実質以上に見せようと、みえを張る心」のことです(明鏡国語辞典)。利己心や虚栄心、この二つは、私たち人間が生まれながらに持っているものですね。最初の人アダムの最初の罪によって、良き創造の状態から堕落した人間は、何事も利己心と虚栄心をもってします。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストに結ばれているあなたがたは、そうであってはいけないとパウロは言うのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と言うのです。「へりくだる」ことと「相手を自分よりも優れた者と思うこと」は、同じことを意味しています。「へりくだる」とは、自分を相手よりも下に置くことです。また、「相手を自分よりも優れた者と考える」とは、相手を自分の上に置くことです。自分を相手の下に置く。あるいは、相手を自分の上に置く。そのような主体的なへりくだりを、パウロは私たちに求めているのです。ここで「互いに」と言われていることは大切ですね。私たちはへりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えるべきであるのです(これは自分の優位性を相手や周囲に示す行為、いわゆる「マウントを取る」とは全く逆の行為である)。

 また、パウロは、「めいめい、自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言います。ここでも「めいめい」と言われています。私たち一人ひとりが自分のことだけでなく、他人の救いにも注意を払うべきであるのです。これは具体的に言えば、私たち一人ひとりが他人の躓きとならないように注意すること。また、他人の救いのために祈り、配慮することと言えます。

 へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えること。自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払うこと。このことを私たちは互いに心がけるべきであるのです。なぜなら、私たちの主であるイエス・キリストがそのようなお方であるからです。なぜ、私たちは、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなければならないのか。なぜ、私たちは、めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払わなければならないのか。それは、私たちの主であるイエス・キリストが、そのような御方であるからです。

 6節から11節までをお読みします。

 キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ/へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ/すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。

 私たちが用いている「聖書協会共同訳」は、6節から11節を詩のように記しています。それは、このパウロの言葉が、当時の教会で歌われていた賛美歌であると考えられているからです(いわゆる「キリスト賛歌」)。パウロは、フィリピの信徒たちが知っていた賛美歌を用いて、キリストのへりくだりについて記すのです。

 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。ここに、キリストのへりくだりがあります。キリストは、ご自分の民である私たちを罪から救うために、罪を別にして、私たちと同じ人となってくださいました。創造主である神が被造物である人間と同じ者になられた。ここに、キリストの大いなるへりくだりを見ることができるのです。

 また、キリストは、人としての生涯においても、へりくだって、他人を自分よりも優れた者と思い、他人の救いのために働いてくださいました。キリストは、群衆を深く憐れみ、神の国の福音を語り、悪霊を追い出し、病を癒してくださいました。キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられたのです。『イザヤ書』の第53章に、「主の僕の苦難の死と栄光」が預言されています。キリストは、まさに、主の僕として、ご自分の民である私たちの罪を担って、十字架の上で死んでくださり、父なる神の望みを成し遂げてくださったのです(イザヤ53:10、ヨハネ19:30参照)。

 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたキリストを神は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。神は、キリストを死者の中から三日目に栄光の体で復活させられ、天のご自分の右の座に着かせられました。そして、キリストに、あらゆる名にまさる名、「主」という名をお与えになったのです(使徒2:36「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」参照)。

 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためであるのです(イザヤ45:23、24「すべての膝は私の前にかがみ/すべての舌は誓い/私について、『正義と力は主だけにある』と言う」参照)。イエスの御名によって、すべての者が膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白することは、父なる神が崇められることでもあります。なぜなら、父なる神が、十字架の死にいたるまで従順であったイエス・キリストを、高く上げて、主という名をお与えになったからです。神の救いのご計画はすべて、主イエス・キリストにおいて実現したからです(二コリント1:20「神の約束はすべて、この方において『然り』となったからです」参照)。

 私たちの主イエス・キリストは、父なる神の右の座に着いておられます。主イエス・キリストは天と地の一切の権能を授けられた王たちの王、主たちの主であられます。それゆえ、私たちは約束の聖霊に導かれて、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神を崇めているのです。終わりの日に、イエス・キリストが天から栄光の主として来られるとき、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神を崇めるようになります。その先取り、その初穂として、私たちは、「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神を崇めているのです。そのような私たちであるからこそ、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払って歩んで行きたいと願います。

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