福音にふさわしい生活 2024年4月07日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、
1:28 どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神によることです。
1:29 なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。
1:30 あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。フィリピの信徒への手紙 1章27節~30節

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 しばらく『フィリピの信徒への手紙』から離れていましたが、今朝から再び『フィリピの信徒への手紙』を読み進めていきたいと思います。パウロは、この手紙を、牢獄の中で書き記しました。パウロは、取り調べを受け、裁判を控えていたようです。裁判では死刑の判決を受ける可能性もあったようです。パウロは、個人としては、世を去ってキリストと共にいたいと願っていました。しかし、フィリピの信徒たちのためには、肉にとどまるほうが必要であると確信していました。それゆえ、パウロは、自分は釈放されて、フィリピの信徒たちと共にいることになるだろうと書き記したのです。しかし、いつ、フィリピに行けるのかは分かりません。それで、パウロは、フィリピの信徒たちに、どのような生活を送るべきかを書き記すのです。

 27節と28節をお読みします。

 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神によることです。

 パウロは、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と記します。「ひたすら」と訳されている言葉は「ただ」とも訳すことができます。新改訳2017は、「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」と翻訳しています。パウロがフィリピの信徒たちに望むただ一つのこと、それは「キリストの福音にふさわしい生活を送ること」であるのです。「キリストの福音」とは、イエス・キリストが、十字架の死と復活によって、悪魔と死の力に勝利したという良き知らせのことです。さらには、イエス・キリストを信じる人は神の御前にすべての罪を赦され、正しい者とされ、神の子とされるという良き知らせのことです。私たちはイエス・キリストを信じるだけで、無償で、恵みによって救われるのです。ですから、キリストにふさわしい生活とは、イエス・キリストにあってすべての罪を赦され、正しい者とされ、神の子とされた者にふさわしい生活のことです。そのようなキリストの福音にふさわしい生活を送りなさいと、パウロは言うのです。ここでパウロが前提としていることは、キリストの福音を信じると生活が変わるということです。私たちは、イエス・キリストの福音を信じて、すべての罪を赦され、正しい者、神の子とされた者として、ふさわしい生活を送りたいと願います(一テサロニケ5章参照)。

 フィリピの信徒たちが、キリストの福音にふさわしい生活を送るならば、パウロは、会うにしても、離れているにしても、次のことを聞くことができると言います。すなわち、「あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと」。フィリピの信徒たちは、イエス・キリストを信じていない同胞の民から苦しめられていたようです。そのような信仰の戦いを立派に戦うにはどうすればよいのか。それは、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送ることです。そうすれば、一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦い、敵対者たちにひるんだりすることはないのです。パウロが「一つの霊によってしっかりと立ち」と言うとき、その「一つの霊」とは、教会の頭であるイエス・キリストの霊のことです。私たちは礼拝の間、ほとんど座っていますが、当時の人々は立って礼拝をささげていたと言います。そうであれば、私たちは、ここに、キリストの霊によってしっかりと立って礼拝をささげるフィリピの信徒たちの姿を思い描くことができるのです。私たちはイエス・キリストの霊によって、心を一つにして、礼拝をささげています。そのようにして、私たちは福音の信仰のために共に戦っているのです。以前の説教において、主の日の礼拝において、福音は前進と申しました(1:12参照)。また、主の日の礼拝において、私たちの信仰は前進すると申しました(1:25参照)。その主の日の礼拝を大切にして、私たちが歩むならば、私たちはどんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりすることはないのです。そして、パウロは、「これは神によることです」と言います。神様が、私たちを一つの霊によってしっかりと立たせ、福音の信仰のために心を一つにして共に戦わせ、どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりしないようにしてくださるのです。私たちにとって救いのしるしは、ひるむことなく、礼拝をささげ続けることにあるのです。そのようにして、私たちは、主イエス・キリストの勝利にあずかる者となるのです(ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでの世に勝っている」参照)。

 29節と30節をお読みします。

 なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。

 私たちは、恵みとして、イエス・キリストを信じる信仰を与えられました。その私たちに対して、パウロは、「あなたがたには、・・・キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と言います。イエス・キリストを信じる私たちにとって、キリストのために苦しむことも恵みであるのです。なぜ、そのように言うことができるのでしょうか。それは、キリストを信じる私たちが、キリストを愛する者であるからです。キリストを愛する私たちにとって「キリストのために苦しむことは恵みである」と言えるのです。親が愛する子供のために苦しむことを恵みとして与えられているように、私たちは愛するキリストのために苦しむことを恵みとして与えられているのです。また、キリストのために苦しむことが恵みであると言えるのは、その苦しみに、キリストが豊かに報いてくださるからです。このことは、イエス様が、山上の説教で教えられたことでもあります。『マタイによる福音書』の第5章10節から12節をお読みします。新約の6ページです。

 義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 イエス様は「私のために迫害され、苦しむ人々は幸いである」と言われました。それは、イエス様が天において大きな報いを与えてくださるからです。イエス様は「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われました。それゆえ、イエス・キリストの使徒パウロも、牢獄の中から「主にあって喜びなさい」とフィリピの信徒たちに語ることができたのです(3:1、4:4参照)。パウロの「主にあって喜びなさい」という言葉の背景には、主イエス・キリストの「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」という御言葉があるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の354ページです。

 私たちには、イエス・キリストを信じることだけではなく、イエス・キリストのために苦しむことも恵みとして与えられています。私たちにとって、イエス・キリストを信じることとイエス・キリストのために苦しむことは切り離すことのできない、一体的な恵みであるのです。パウロは、第3章10節で、こう記しています。「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。このように、パウロが記したのは、イエス・キリストが十字架の苦難の死を死んでくださり、三日目に栄光の体で復活されたからです。キリストが苦難を通して栄光に入られたからですね。そのキリストに従う私たちは、キリストの苦しみにあずかることも恵みとして与えられているのです(マタイ16:24、25「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」参照)。

 第1章30節に、「あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです」とあります。フィリピの信徒たちがかつて目にしたパウロの苦闘については、『使徒言行録』の第16章に記されています。かつてパウロとシラスは、フィリピの公衆の面前で鞭打たれ、牢獄に入れられました。そして、今もパウロはキリストのために投獄されているのです。そのパウロと同じ苦しい戦いを、フィリピの信徒たちも戦っていると言うのです。

 現代の私たちは、日本国憲法によって、信教の自由が保障されています。よって、私たちはキリストのために鞭打たれたり、牢に閉じ込められたりすることはありませんし、あってはなりません。では、私たちはキリストのために苦しんでいないのかと言えば、そうではないと思います。相手にされない。無視される。そのような消極的な苦しみを受けていると思います。礼拝になかなか人が来ない。来ても続かない。このようなことも地味ではありますが、苦しみと言えます。しかし、その苦しみもキリストのためであるゆえに、恵みであるのです。私たちが、主の日の礼拝を大切にして歩むとき、周りの人たちと衝突したり、悪口を言われたりすることがあります。その苦しみも、キリストのためであるゆえに恵みであると言えるのです。

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