イエス・キリストの十字架と復活 2024年3月31日(日曜 朝の礼拝)
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イエス・キリストの十字架と復活
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 27章32節から28章20節
聖書の言葉
27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、
27:40 言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。
27:45 さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
27:48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
27:55 またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。
27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
28:8 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
28:20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書 27章32節から28章20節
メッセージ
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今朝は、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝です。それで、今朝は、『マタイによる福音書』から、イエス様の十字架の死の場面と復活の場面をお読みしました。神様は、十字架に磔にされて死んだイエス・キリストを、三日目に栄光の体で復活させられました。そのことを、今朝はご一緒に、聖書の御言葉から教えられたいと願います。
イエス様は、十字架に磔にされて処刑されたのですが、十字架刑は、ローマ帝国の死刑方法でした。生きたまま、十字架に磔にされて、長い時間、苦痛を味わい、人々から嘲られて死んでいく。そのような苦しくて恥ずかしい死をイエス様は死なれたのです。こう聞きますと、イエスという男は、さぞかし悪いことをしたのだろうと思うかも知れません。十字架につけられたイエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられていました。なぜ、これが罪状書きになるのかと言うと、当時(紀元1世紀)のユダヤの国は、ローマ帝国の属州となっており、自分たちの王を持つことができなかったからです。自らをユダヤ人の王と名乗る者がいれば、ローマ皇帝に逆らう反逆者として、十字架に磔にされ、見せしめにされたのです。
イエス様は、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架刑の判決を受けたのですが、実はその前に、ユダヤの最高法院で裁判を受けておられます。最高法院の裁判については、第26章57節から68節に記されています。新約の53ページです。
人々はイエスを捕らえ、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで行き、成り行きを見届けようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。偽証者が何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙っておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、わたしは言っておく。あなたがたはまもなく/人の子が力ある方の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔につばを吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打って、「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言った。
黙っておられるイエス様に、大祭司は、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と言います。すると、イエス様は、「それはあなたが言ったことだ」と断りながらも、ご自分が、神の右に座り、天の雲に乗ってくる約束のメシアであると言われました(詩110編、ダニエル7章参照)。メシアとは、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味で、王様を意味します。メシアのギリシャ語訳は「キリスト」です。イエス様は、ご自分が神の右に座る神の子であり、全世界を支配するメシア、王であると言われたのです。しかし、そのようなイエス様の発言は、最高法院の議員たちにとって、神を冒涜すること、死刑に値することであったのです。最高法院の議員たちは、イエス様を殺すために協議しました。そして、イエス様を縛って連れ出し、ローマの総督ポンテオ・ピラトに引き渡したのです(27:1、2参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の56ページです。
39節以下に、十字架に磔にされたイエス様を罵る人々の言葉が記されています。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い」。また、イエス様を総督ピラトに引き渡した祭司長たちも、イエス様を侮辱してこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから」。これらの罵りの言葉は、最高法院での裁判を背景にしています。ここで人々が強調していることは、イエス様が「神の子」であるということです。「あなたは神の子であると言っていたのだから、十字架から降りて自分を救ってみろ」と人々は言います。十字架刑はローマの処刑方法ですが、ユダヤ人にとって、神に呪われた者の死を意味していました。旧約聖書に、「木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである」と記されていたからです(申命21:23)。十字架の死は神に呪われた者の死である。そのように考える人々にとって、神の子が十字架に磔にされて死ぬことは考えられないことでありました。ですから、人々は、「神の子なら、十字架から降りて、自分を救ってみろ」と言ったのです。これは、イエス様にとって、最大の試みでありました(4:3「すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」参照)。イエス様は、神の子ですから、十字架から降りることもできます。能力として可能です。しかし、イエス様は、神の子であるゆえに、十字架から降りないのです。神の子であるゆえに、父なる神の御心に従って、多くの人の罪を背負って、十字架の呪いの死を死なれるのです。旧約聖書の『イザヤ書』の第53章には、多くの人を正しい者とするために、彼らの過ちを自ら背負って、死に至るまで命を注ぎだす主の僕の姿が描かれています。神の子であるイエス様は、その主の僕として、十字架から降りないのです。イエス様はイスラエルの王であり、神の子であり、主の僕であるのです(3:17「これは私の愛する子、私の心に適う者」参照)。
45節に、「昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ」と記されています。このことは、十字架につけられたイエス様のうえに、世の終わりの裁き、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています(アモス8:9「その日になると/私は真昼に太陽を沈ませ/白昼に地を闇とする」参照)。旧約聖書は、「主なる神が歴史に介入して、正しい裁きをしてくださる日が来る」と預言しています(マラキ3:19〜24参照)。その神様の正しい裁きが、十字架に磔にされたイエス様の上に臨んでいたのです。イエス様は、ご自分の民の罪を背負って、主の日の裁きをお受けになりました。その苦しみの中で、イエス様は、大声でこう叫ばれたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。イエス様は、ご自分の民である私たちに代わって、このように叫ばれたのです。それは、イエス・キリストを信じる私たちが、このように叫ぶことがないようにするためです。イエス様は、私たちの罪を担って、神に見捨てられるという絶望を味わってくださいました。それゆえ、私たちは、どのような苦しみの中にあっても、神から見捨てられるという絶望を味わうことはないのです。イエス・キリストは、私たちの罪を背負って、十字架の死を死ぬことにより、ご自分の民である私たちを罪から救ってくださったのです(1:21「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」参照)。
イエス様が再び大声で叫び、息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たと記されています(51節)。この「神殿の垂れ幕」は聖所と至聖所を隔てる幕のことです(出エジプト26:33参照)。聖所は祭司たちが仕える場所であり、至聖所は神様が臨在される場所であります。至聖所には、年に一度、大祭司だけが贖いの儀式を行うために入ることができました(レビ16:32~34参照)。聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことは、イエス様の贖いの死によって、神殿祭儀が役割を終えて、神様に近づく新しい道が開かれたことを示しています(ヘブライ9章参照)。今や、イエス・キリストの御名によって、誰もが大胆に神様に近づく道が開かれたのです(ヘブライ4:14~16参照)。
イエス様が息を引き取られたのを見て、その場を取り仕切っていたローマの百人隊長はこう言いました。「まことに、この人は神の子だった」。自分の力だけを頼りにして、成り上がってきた百人隊長が、「まことに、この人は神の子だった」と言うほどの出来事が、十字架のうえで起こったのです。この百人隊長が、どのような思いでこの言葉を口にしたのかは分かりません。しかし、この百人隊長の言葉は、真実であります。十字架に磔にされて、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様こそ、父なる神の御心に完全に従われた神の子であるのです。
なぜ、そう断言することができるのか。それは、神様が、イエス様を死者の中から三日目に復活させられたからです。第28章には、週の始めの日(日曜日)に、婦人たちがイエス様の墓を見に行ったお話しが記されています。その婦人たちに、天使が現れ、空っぽの墓を見せてこう言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます」。ユダヤの最高法院の議員たちは、イエス様を偽メシア、神を冒涜する者として死刑に定めました。しかし、神様は、イエス様を十字架の死から復活させることによって、イエス様がまことのメシアであり、神の子であり、主の僕であることを証明されたのです。十字架の死から復活されたイエス様こそ、私たちを罪の奴隷状態から解放し、私たちを自由な者、神の子としてくださるメシア、救い主であるのです。
天使の言葉を聞いた女たちが弟子たちに知らせるために走って行くと、行く手にイエス様が立っていました。そして、こう言われます。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」。このイエス様の言葉は、天使の言葉とほぼ同じです。違っている点は、天使が「弟子たち」と言ったのに対して、イエス様が「きょうだいたち」と言われている点です。イエス様の弟子たちは、神様を父とし、イエス様を一番上の兄とするきょうだいたちであるのです。イエス様は、ご自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちを「きょうだいたち」と呼んでくださり、受け入れてくださいます。イエス様は、私たちを「きょうだいたち」と呼んでくださり、神の家族の一員として受け入れてくださるのです(12:49、50参照)。
16節以下に、復活されたイエス様と弟子たちとの再会の場面が記されています。弟子たちは、イエス様に会い、ひれ伏しました。しかし、疑う者もいました。復活されたイエス様にお会いしながら、イエス様が復活されたことを疑う者もいたのです。そのような弟子たちの疑いを吹き払うために、イエス様は近寄ってくださり、御言葉を与えてくださいます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。父なる神様は、復活させられたイエス様に、天と地の一切の権能を与えられました。イエス様は、ユダヤ人の王だけではなく、すべての民の王になられたのです。それゆえ、イエス様は、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」とお命じになるのです。今朝は、大変長く聖書を読みました。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活と弟子たちの派遣がひと続きであることを覚えたかったからです。イエス・キリストの十字架の死によって救われ、イエス・キリストのきょうだいたちとされた私たちは、すべての民をイエス・キリストの弟子にするために遣わされた者たちであるのです。「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」。このイエス・キリストのご命令を実行するために、私たちは、イエス・キリストが復活された週の初めの日に集まり、礼拝をささげているのです。そのようにして、私たちは、イエス・キリストが十字架の死から復活されたことを証しし、すべての人に宣べ伝えているのです。復活されたイエス・キリストは、最後にこう言われます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。イエス・キリストは、目には見えませんが、聖霊と御言葉において、いつも私たちと共にいてくださいます(18:20「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」参照)。また、共にいてくださるイエス・キリストにあって父なる神が共にいてくださるのです(1:23「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」参照)。十字架の死から復活されたイエス・キリストと父なる神が聖霊においていつも共にいてくださる。これが私たちに与えられている祝福であるのです(三位一体の神の名によって洗礼を受けた者の祝福)。