主の僕の服従(主の僕の歌③) 2024年3月27日(水曜 聖書と祈りの会)
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主の僕の服従(主の僕の歌③)
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- 村田寿和 牧師
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イザヤ書 50章4節~9節
聖書の言葉
50:4 主なる神は、弟子としての舌を私に与えた/疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。/主は朝ごとに私を呼び覚まし/私の耳を呼び覚まし/弟子として聞くようにしてくださる。
50:5 主なる神は私の耳を開かれた。/私は逆らわず、退かなかった。
50:6 打とうとする者には背中を差し出し/ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。/辱めと唾から私は顔を隠さなかった。
50:7 主なる神が私を助けてくださる。/それゆえ、私は恥を受けることはない。/それゆえ、私は顔を火打ち石のようにし/辱められないと知っている。
50:8 私を義とする方が近くにおられる。/誰が私と争えようか。/我々は共に立とう。/誰が私の裁き人か。/私に近づくがよい。
50:9 見よ、主なる神が私を助けてくださる。/誰が私を罪に定められよう。/見よ、彼らは皆、衣のように擦り切れ/虫が彼らを食い尽くす。イザヤ書 50章4節~9節
メッセージ
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教会の暦によれば、今週は主イエス・キリストの御苦しみを覚える受難週です。それで、今朝は、『イザヤ書』の第50章4節から9節に記されている「主の僕の歌」から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。主の日の礼拝において、「主の僕の第四の歌」を学びましたが、今朝はその一つ前の「主の僕の第三の歌」を学びたいと思います。
4節と5節前半をお読みします。
主なる神は、弟子としての舌を私に与えた/疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。主は朝ごとに私を呼び覚まし/私の耳を呼び覚まし/弟子として聞くようにしてくださる。主なる神は私の耳を開かれた。
「主なる神」とありますが、元の言葉ですと「アドナイ ヤハウェ」と記されています。「主なるヤハウェ」と記されているのです。「主なる神」「主なるヤハウェ」という言葉は、今朝の御言葉に四回記されています。4節と5節と7節と9節です。今朝の御言葉に「主の僕」という言葉は出てきません。しかし、ヤハウェを主と呼ぶ「私」こそ、ヤハウェの僕、主の僕であるのです。主なる神は、ご自分の僕に、弟子としての舌を与えられました。それは、疲れた者を言葉で励ますすべを学べるようにするためです。そのために必要なことは、僕自身が、弟子として主の言葉を聞くことです。ここで教えられることは、主なる神が弟子としての舌を与え、弟子として聞くように耳を開いてくださらなければ、疲れた者を励ます言葉を語ることはできないということです。なぜなら、疲れた者を本当に励ますことができるのは、主なる神であるからです。
5節後半から7節までをお読みします。
私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者に背中を差し出し/ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。主なる神が私を助けてくださる。それゆえ、私は恥を受けることはない。それゆえ、私は顔を火打ち石のようにし/辱められないと知っている。
ここで主の僕は、人々から迫害され、苦しみを受けています。なぜ、主の僕は、人々から迫害されているのでしょうか。それは、主の僕が、主の教えに逆らうことなく、服従したからです。主の僕は、主なる神に従うゆえに、迫害を受けたのです。しかし、主の僕はひるんで、退くことはありませんでした。「打とうとする者に背中を差し出し/ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった」とあるように、主の僕は、主体的に、固い決意をもって、苦しみと侮辱を受けるのです。なぜ、主の僕は、主体的に、固い決意をもって、苦しみと侮辱を受けることができるのでしょうか。それは、主なる神、主なるヤハウェが私を助けてくださると確信しているからです。そもそも、ヤハウェというお名前は、「私はあなたと共にいる」という約束を含み持つお名前であります(出エジプト3:12、14参照)。主の僕は、主なる神、主なるヤハウェが共におられ、助けてくださるゆえに、自分が恥を受けることも、辱められることもないことを知っているのです。人々から背中を打たれ、髭を抜かれ、唾を吐きかけられても、主なる神が助けてくださるゆえに、主の僕は恥を受けることも、辱められることもないのです。主の僕は、主なる神から重んじられていることを知っているゆえに、決して辱められることはないのです。第一の歌で、主なる神は、主の僕について、こう言われました。「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を」(42:1)。また、第二の歌で、主の僕は、こう言いました。「私は主の目に重んじられ/私の神は私の力となった」(49:5)。主なる神と主の僕は、そのような信頼関係にあるのです。
8節と9節をお読みします。
私を義とする方が近くにおられる。誰が私と争えようか。我々は共に立とう。誰が私の裁き人か。私に近づくがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰が私を罪に定められよう。見よ、彼らは皆、衣のように擦り切れ/虫が彼らを食い尽くす。
主の僕は、人々から裁きを受けているようです。主の僕は、有罪の判決を受けて、苦しみと辱めを受けていたようです。しかし、主の僕は、「私を義とする方が近くにおられる」と言います。主の僕を正しいとしてくださる方、それは共におられる主なる神です。主の僕は、自分を裁くのが主なる神であることを知っているのです。それゆえ、主の僕は、「誰が私を罪に定められよう。見よ、彼らは皆、衣のように擦り切れ/虫が彼らを食い尽くす」と大胆に言うのです。主なる神が、主の僕を正しいと言われる以上、誰も主の僕を罪に定めることはできません。主の僕を罪に定める者たちこそ、主なる神によって罪に定められ、滅ぼされるのです。
この「主の僕の歌」は、究極的には、主の僕であるイエス様において実現しました。イエス様は、ユダヤの最高法院において、神を冒涜した者として死刑の判決を受け、こぶしで殴られ、唾を吐きかけられました(マタイ26:65~68参照)。さらには、ローマの総督官邸においても、苦しみと侮辱を受けられました(マタイ27:27~31参照)。正しい御方、何一つ罪を犯したことのないイエス様が、そのような苦しみと屈辱を耐え忍ぶことができたのは、なぜでしょうか。それは、イエス様が、「私を義とする方が近くにおられる」ことを知っていたからです(ヨハネ16:32「見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださる」参照)。「主なる神が助けてくださる」と確信しているからです。実際、主なる神は、主の僕であるイエス様を、十字架の死から三日目に復活させることによって、イエス様が正しい者であったことを宣言されました。そして、そのことは、イエス・キリストを信じる私たちにも起こることであるのです。8節の真ん中に「我々は共に立とう」とあります。この「我々」は、主の僕と主なる神のことです。また、主の僕であるイエス様と父なる神のことです。さらには、私たちと主イエス・キリストのことであるのです。私たちは、私を義とする御方が共におられることを知っているゆえに、苦しみと屈辱の中にあっても、主イエス・キリストに服従することができるのです。私たちの罪のために死んで、私たちを正しい者とするために復活してくださった主イエス・キリストが私たちと共にいてくださり、私たちを助け、私たちを正しいと宣言してくださる。そのことを心に留めて、主イエス・キリストの御心を行う者でありたいと願います(マタイ28:20、ローマ8:33、34参照)。