主の僕の使命(主の僕の歌②) 2024年3月13日(水曜 聖書と祈りの会)
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主の僕の使命(主の僕の歌②)
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
イザヤ書 49章1節~6節
聖書の言葉
49:1 島々よ、聞け。/遠い国々の民よ、心して聞け。/主は母の胎にいる時から私を呼び/母の腹にいる時から私の名を呼ばれた。
49:2 主は私の口を鋭利な剣のようにして/私を御手の陰に隠し/研いだ矢としてご自身の矢筒の中に隠された。
49:3 主は私に言われた。/「あなたは私の僕、イスラエル。/私はあなたの中で私の栄光を現す。」
49:4 しかし、私は言った。/「私はいたずらに労苦し/意味もなく、空しく力を使い果たしました。/それでも、私の公正は主と共にあり/私の報酬は私の神と共にあります。」
49:5 今、主は言われる。/主は、ヤコブをご自分のもとに立ち帰らせ/イスラエルをご自分のもとに集めるために/母の胎にいる時から/私をご自分の僕として形づくられた方。/私は主の目に重んじられ/私の神は私の力となった。
49:6 主は言われる。/「あなたが私の僕となって/ヤコブの諸部族を立たせ/イスラエルの生き残った者を連れ帰らせるのは/たやすいこと。/私はあなたを諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。」イザヤ書 49章1節~6節
メッセージ
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教会の暦によると、私たちは今、受難節(レント)を過ごしています。それで、水曜日の「聖書と祈りの会」では、『イザヤ書』に記されている「主の僕の歌」からお話ししています。『イザヤ書』には、四つの「主の僕の歌」が記されています。前回は、第一の歌である第42章1節から4節をご一緒に学びました。今朝は、第二の歌である第49章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から4節までをお読みします。
島々よ、聞け。遠い国々よ、心して聞け。主は母の胎にいる時から私を呼び/母の腹にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭利な剣のようにして/私を御手の陰に隠し/研いだ矢としてご自身の矢筒の中に隠された。主は私に言われた。「あなたは私の僕、イスラエル。私はあなたの中で栄光を現す。」しかし、私は言った。「私はいたずらに労苦し/意味もなく、空しく力を使い果たしました。それでも、私の公正は主と共にあり/私の報酬は私の神と共にあります。」
第一の歌は、「島々は彼の教えを待ち望む」という言葉で終わっていました(42:4)。第二の歌は、その「島々」に「聞け」と語りだされます。「島々よ、聞け。遠い国々よ、心して聞け」。このように、第二の歌は、遠い外国の人々に呼びかけるのです。ここで語っているのは、主の僕です。主の僕は、「主は母の胎にいる時から私を呼び/母の腹にいる時から私の名を呼ばれた」と言います。ここでの「主の僕」は、エレミヤのような預言者であるようです。『エレミヤ書』の第1章4節と5節に、こう記されています。「主の言葉が私に臨んだ。『私はあなたを胎内で形づくる前から知っていた。母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。諸国民の預言者としたのだ』」。主は、エレミヤを、母の胎にあるときから、諸国民の預言者として聖別していました。それと同じように、主は、主の僕を、母の胎にあるときから、諸国民の預言者として聖別していたのです。2節に、「主は私の口を鋭利な剣のようにして/私を御手の陰に隠し/研いだ矢としてご自身の矢筒の中に隠された」とあるように、主の僕は神の言葉を武器とする預言者であるのです。主の僕がエレミヤのような預言者であるならば、3節の「主は私に言われた。『あなたは私の僕、イスラエル』」を、どのように理解したらよいのでしょうか。結論から申しますと、「あなたこそ、私の僕イスラエル」と個人のことを言っているのだと思います。そもそもイスラエルは、族長のヤコブに与えられた名前であり、個人名でありました(創世32:29「男は言った。『あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ』」参照)。それが、ヤコブの子孫たちにも用いられて、神の民イスラエルと集団を表すようになったのです。あえて言えば、主の僕はイスラエル(集団)の中のイスラエル(個人)であるのです。では、「私はあなたの中で私の栄光を現す」を、どのように理解したらよいのでしょうか。ここでの「あなた」「イスラエル」は神の民という集団を表しているようです。このように、主の僕は個人をも集団をも表す(個人と集団の流動性を持つ)集合人格概念であるのです(H・W・ロビンソン著『旧約聖書における集団と個』参照)。
主は、ご自分の僕であるイスラエルの民の中で栄光を現すと言われますが、主の僕である預言者は、こう言います。「私はいたずらに労苦し/意味もなく、空しく力を使い果たしました。それでも、私の公正は主と共にあり/私の報酬は私の神と共にあります」。イスラエルの民は、主の僕である預言者の言葉に耳を傾けなかったようです。それゆえ、預言者はいたずらに労苦し、空しく力を使い果たしたと言うのです。しかし、それでも、自分の公正(ミシュパート)は主と共にあり、自分の報酬は神と共にあると言います。主の僕は、主に望みを置くのです。新共同訳は、このところを次のように翻訳しています。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である」。このように、主の僕は自分の働きの意味を、自分を裁き、報いてくださる主に置くのです。
5節と6節をお読みします。
今、主は言われる。主は、ヤコブをご自分のもとに集めるために/母の胎にいるときから/私をご自分の僕として形づくられた方。私は主の目に重んじられ/私の神は私の力となった。主は言われる。「あなたが私の僕となってヤコブの諸部族を立たせ/イスラエルの生き残った者を連れ帰らせるのは/たやすいこと。私はあなたを諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。」
主の僕の使命は、ヤコブ(神の民イスラエル)を主のもとに集め、約束の地へと連れ帰らせることです。そして、そのことは、「たやすいこと」であると主は言われます。それは、主が僕を重んじて、神が僕の力となってくださったからです。人から軽んじられたとしても、主はご自分の僕を重んじてくださいます。そして、主が僕に上からの力を与えてくださるのです。その上からの力によって、主は、僕を諸国民の光とし、地の果てにまで、主の救いをもたらす者とされるのです。
6節の「私はあなたを諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする」という御言葉は、『使徒言行録』の第13章で、パウロが自分たちに当てはめて語っています。聖書を開いて確認しましょう。新約の235ページです。第13章44節から48節までをお読みします。
次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み、口汚く罵って、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは堂々と語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている。そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます。主は私たちにこう命じておられるからです。『私は、あなたを異邦人の光とし/地の果てにまで救いをもたらす者とした。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を崇めた。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
47節は、『イザヤ書』の第49章6節からの引用です。パウロは自分たちこそ、異邦人の光であり、地の果てに救いをもたらす主の僕であると言うのです。それはパウロたちを遣わしたイエス様こそが主の僕であるからです。異邦人の光、地の果てまで救いをもたらす主の僕の預言は、十字架の死から復活されたイエス・キリストにおいて最終的に成就されました。その主の僕であるイエス・キリストから遣わされたゆえに、パウロたちも異邦人の光、地の果てまで救いをもたらす主の僕であるのです。同じことは、主イエス・キリストから遣わされている私たち教会においても言えます。使徒的な教会である私たちは、異邦人の光、地の果てまで救いをもたらす者とされているのです。その使命を果たすために必要なこと。それは、私たちが神様の目に重んじられていることを知ることです。神様はその独り子を与えられたほどに、私たちを愛してくださいました(ヨハネ3:16参照)。また、私たちに神の力である聖霊を与えてくださいました(使徒1:8参照)。「私は主の目に重んじられ、私の神は私の力となった」。このことを信じて、福音宣教という使命を果たしていきたいと願います。