生きることはキリスト 2024年3月10日(日曜 朝の礼拝)
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生きることはキリスト
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- 村田寿和 牧師
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フィリピの信徒への手紙 1章20節~26節
聖書の言葉
1:20 そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
1:21 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
1:22 けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。
1:24 しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。1:26 そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。フィリピの信徒への手紙 1章20節~26節
メッセージ
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先程は『フィリピの信徒への手紙』の第1章12節から26節までを読んでいただきました。前回は12節から19節までを学びましたので、今朝は20節から26節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
パウロは、この手紙を、牢獄の中で記しています。そうであれば、パウロの願いは、牢獄から解放されることであろうと思います。しかし、イエス・キリストの僕であるパウロの願いは、そのようなものではありませんでした。20節で、パウロはこう記しています。
そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
「どんなことがあっても恥じることなく」という御言葉は、私たちに、『ローマの信徒への手紙』の第1章16節の御言葉を思い起こさせます。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。パウロが切に願い、望んでいること、それはどんなことがあっても福音を恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、自分の身によってキリストが崇められることであるのです。パウロは投獄されており、取り調べを受け、裁判を控えていたようです。その裁判で、パウロは死刑判決を受ける可能性もあったようです。そのような状況において、「私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです」とパウロは言うのです。なぜ、パウロは、このようなことを切に願い、望むことができたのでしょうか。それは、直前の19節にあるように、パウロの投獄によって福音が前進したことが、パウロの救いとなることを知っていたからです。パウロは16節で、私は「福音を弁明するために捕らわれている」と記しました。パウロが投獄されたことは、その兵営にいる総督や兵士たちに、イエス・キリストの福音を宣べ伝える機会となりました。投獄されたパウロを通しても、福音は前進したのです(4:22「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです」参照)。また、パウロが投獄されたのを見て、主にあるきょうだいたちの多くの者は確信を得て、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになりました。彼らは、死を恐れず福音を弁明するパウロの姿を見て、福音は永遠の命をもたらす良い知らせであると確信し、大胆に福音を宣べ伝えたのです。そのようなパウロが福音を恥としたらどうなるでしょうか。主にあるきょうだいたちの多くの者は、ひるんでしまうことでしょう。そのようなことがないように、パウロは、「私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです」と言うのです。パウロにとって生きるか死ぬかは二の次であって、大切なことは、「私の身によってキリストが崇められること」であるのです。そして、このことは、パウロだけではなく、私たちキリスト者が切なる願いとし、望みとすべきことです。「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められること」。そのことを私たちの切なる願いとし、望みとしたいと思います。
生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることを切なる願いとするパウロは、21節でこう言います。
私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
「私にとって、生きることはキリストである」。このパウロの言葉は、意味深長であります。このパウロの言葉を理解する助けとなるのが、『ガラテヤの信徒への手紙』の第2章の御言葉です。新約の338ページです。第2章19節と20節で、パウロはこう記しています。
私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために御自身を献げられた神の子の真実によるものです。
このパウロの言葉は、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたことを背景にしています。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストの死と命にあずかる者となりました(ローマ6章参照)。それゆえ、私たちは、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と言える者たちとされているのです。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」。このように記したパウロが、今朝の御言葉で、「私にとって、生きることはキリストである」と言っているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の354ページです。
「私にとって、生きることはキリストである」。このパウロの言葉を消極的に言えば、「私にとって、キリストなしに生きることはできない」となります。このことは、パウロだけではなく、私たちにおいても当てはまります。私たちもキリストなしで生きていくことはできないのです。と言いますのも、ここでの「生きること」は、この地上の生命を越えた命、神様との親しい交わりである永遠の命に生きることであるからです。パウロが、「私にとって、生きることはキリストである」と言うとき、その生きている命は、死で終わってしまう地上だけの命ではなくて、死を越えて続く永遠の命であるのです。ですから、パウロは続けて、「死ぬことは益なのです」と記すことができたのです。キリストによって永遠の命、復活の命に生かされているゆえに、パウロは、「死ぬことは益なのです」と言うことができたのです。なぜなら、イエス・キリストを信じる者は死を通して、イエス・キリストがおられる天国へと入ることができるからです。イエス・キリストは、御自分の民の罪を担って、罪の刑罰であり、律法の呪いである十字架の死を死んでくださいました。それゆえ、私たちにとって死は天国の入り口となったのです(ハイデルベルク信仰問答 「問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです」参照)。十字架につけられたイエス様が御自分を信じた犯罪人に、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われたことは、そのことを教えているのです(ルカ23:43)。
人間の常識で考えれば、死は益どころか損です。死は最も忌むべきものであり、避けたいものです。しかし、キリストの命に生かされている私たちは、「死ぬことは益です」と言うことができるのです(ここでの「死」は肉体の死のこと)。
生きることと死ぬこと。このことは獄中にいて、取り調べを受け、裁判を控えているパウロにとっては、身近な問題でした。パウロは、生きるにも死ぬにも、自分の身によってキリストが崇められることを切に願い、望んでいました。また、「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と確信していました。しかし、自分がこれからどのようになるかは分からないわけです。その心の内を、パウロは22節から26節で次のように記しています。
けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。
パウロの切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることでした。しかし、自分が世に留まることがフィリピの信徒たちのために必要であるとの確信から、「あなたがた一同と共にいることになると思っています」と言います。パウロが、世を去るか、世にとどまるかは、パウロが選ぶことではなく、ローマ帝国の権力の背後にいて、福音宣教を導いておられる主イエス・キリストによることであるのです。パウロは、世にとどまって、フィリピの信徒たちの信仰の前進と喜びのために、フィリピの信徒たちと共にいることを、神の御心として確信していたのです。28節に、「あなたがたの信仰の前進」とあります。これは、12節の「福音の前進」と対応しています。パウロの投獄が福音を前進させたように、パウロの釈放は、フィリピの信徒たちの信仰を前進させるのです。フィリピの信徒たちは、パウロが投獄されたと聞いて、パウロのために祈っていました。フィリピの信徒たちは、パウロが釈放されて、再び会えるように祈っていたと思います。そのフィリピの信徒たちの祈りを父なる神と主イエス・キリストは聞いてくださり、パウロは、再びフィリピの信徒たちのところへ行くことになるのです。そのとき、「キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ちあふれるでしょう」とパウロは言います。「誇り」とは「拠り所」とも言うことができます。私たちは、神様の御前に自分を誇りとすることはできません。私たちの誇り、拠り所は、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを正しい者とするために復活されたイエス・キリストだけであるのです。パウロは、コリントの信徒たちに、「誇る者は主を誇れ」と言いました(二コリント10:17)。また、パウロは、ガラテヤの信徒たちに、「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはなりません」と言いました(ガラテヤ6:14)。そのような誇り、キリスト・イエスにあるという誇りを、フィリピの信徒たちも、また、私たちも与えられているのです。そして、フィリピの信徒たちの誇りは、パウロが釈放されて、再びフィリピを訪れることによって、満ち溢れるのです。それは、パウロが再びフィリピを訪れることが、主イエス・キリストが再び来られることの先取りであるからです(パウロのパルーシアはイエス・キリストのパルーシアの先取りである)。御言葉の教師が教会に遣わされていることも同じような意味を持っています。イエス・キリストは御言葉の教師を遣わすことによって、私たちの信仰を前進させ、キリスト・イエスにあるという誇りを満ち溢れさせてくださるのです。キリスト・イエスにあるという誇りを満ちあふれさせてくださるとは、私たちに救いの確信を与えてくださるということです。
今、定住の牧師がいない教会、いわゆる無牧の教会がいくつもあります。その原因として、教会・伝道所の数よりも教師の数が少ないこと。また、小さな教会・伝道所は、牧師を経済的に支えることが難しいことが考えられます。私が代理牧師を務めている宇都宮教会も無牧です。しかし、イエス・キリストは、主の日ごとに御言葉の教師を遣わしてくださっています(引退教師の岩崎謙先生や永沼猛志先生)。また、私も来週、宇都宮教会に行きます。そのようにして、イエス・キリストは、宇都宮教会の兄弟姉妹の信仰を前進させ、キリスト・イエスにあるという誇りを満ち溢れさせてくださっているのです。イエス・キリストは、羽生栄光教会にも、私という御言葉の教師を遣わしてくださっています。それは、私たちの信仰を前進させ、キリスト・イエスにあるという私たちの誇りを満ち溢れさせるためであるのです。