パウロの祈り 2024年2月25日(日曜 朝の礼拝)
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パウロの祈り
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- 村田寿和 牧師
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フィリピの信徒への手紙 1章7節~11節
聖書の言葉
1:7 私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、獄中にいるときも、福音を弁明し立証しているときも、あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。
1:8 私が、キリスト・イエスの深い憐れみの心で、あなたがた一同をどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
1:9 私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、
1:10 本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。フィリピの信徒への手紙 1章7節~11節
メッセージ
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先程は『フィリピの信徒への手紙』の第1章1節から11節までを読んでいただきました。前回は、3節から6節までを学びましたので、今朝は7節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
7節をお読みします。
私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、獄中にいるときも、福音を弁明し立証しているときも、あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。
「獄中にいるときも」とありますが、パウロは、この手紙を牢獄の中で書き記しています。パウロは、イエス・キリストの福音のゆえに、捕らえられていたのです。新約聖書には、パウロが牢獄から書き送った手紙がいくつかあります。『フィリピの信徒への手紙』も、牢獄の中で記された、いわゆる獄中書簡であるのです(他に、エフェソ、コロサイ、フィレモン、第二テモテ)。第1章13節に「私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他すべての人に知れ渡り」と記されています。この「兵営全体」(プラエトーリウム)は、ローマ兵が居住する所です。また、第4章22節に「特に、皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです」と記されています。この皇帝はカエサル、ローマ皇帝のことです。これらのことから、パウロが、ローマ帝国の権力によって捕らえられていたことが分かります。しかし、その牢獄の場所がどこであったかについては諸説があります。伝統的には、ローマであると考えられてきました。『使徒言行録』の最後に、パウロが未決囚として、ローマで軟禁状態にあったことが記されています。そのローマでの軟禁状態の時に記されたのではないかと考えられてきたのです。しかし、ローマ帝国の権力によって捕らえられていたことは、パウロがローマで投獄されていたことを必ずしも意味していません。それである人は、カイサリアで投獄されたときではないかと推測しています。『使徒言行録』を読むと、パウロがローマに護送される前に、カイサリアに2年以上監禁されていたことが記されています(使徒24:27参照)。そこで、パウロは、総督フェストゥスの前で、また、アグリッパ王の前で、福音を弁明しました。またある人は、エフェソではないかと推測しています。『使徒言行録』を読むと、パウロが3年間、エフェソで福音を宣べ伝えたことが記されています。そこには、パウロが投獄されたとは記されていません。しかし、パウロが記した『コリントの信徒への手紙二』の第11章にある「苦難のリスト」を読むと、パウロが『使徒言行録』に記されていない多くの苦難を経験していたことが分かります(二コリント11:23「投獄されたこともずっと多く」参照)。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第15章32節で「エフェソで獣と戦った」と記しています。また、『コリントの信徒への手紙二』の第1章8節と9節では、生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いをしたアジア州での苦難について記しています(エフェソはアジア州の首都)。このことから、ある人は、「パウロはエフェソで投獄されていた」と考えるのです。ローマやカイサリアに比べて、エフェソはフィリピに近いので、物のやり取りやエパフロディトの派遣などのことを考えると、エフェソ説は説得力があると思います。パウロが投獄されていた場所については、ローマ説、カイサリア説、エフェソ説とあるのですが、どの説を取るかによって、パウロがこの手紙を記した執筆年代が変わってきます。ローマ説ですと紀元61年から63年に、カイサリア説ですと紀元58年から60年に、エフェソ説ですと紀元54年から56年に、執筆されたことになります。ともかく、パウロは、ローマ帝国の権力によって捕らえられた牢獄の中から、この手紙を、フィリピの信徒たちに宛てて書き記したのです。
7節で、パウロは、「私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です」と記します。「このように考える」とは、3節から6節までを指しているのでしょう。「私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています」。このように考えるのは当然であるとパウロは言うのです。それは、パウロが、獄中にいるときも、福音を弁明し立証しているときも、フィリピの信徒たち一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。パウロが、フィリピの信徒たち一同を、「共に恵みにあずかる者」と言うとき、その「恵み」とは「福音の恵み」のことです。パウロは、5節で、フィリピの信徒たちが、「最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっている」と記しました。その「福音の恵み」のことです。福音の恵みとは、イエス・キリストを信じる人は、神の御前にすべての罪を赦され、正しい者、神の子とされるという恵みのことです。また、前回もお話しましたように、「福音の恵みにあずかる」とは「福音宣教の恵みにあずかる」ことでもあります(新改訳2017参照)。パウロは、フィリピの信徒たちのことを、福音の恵みに共にあずかる者として、また、福音宣教の恵みに共にあずかる者として、いつも心に留めていたのです。
このパウロの視点は、大切な視点であると思います。私たちは、互いを恵みに共にあずかる者として、いつも心に留めるべきであるということです。私たちは、福音の恵みに共にあずかる者であり、福音宣教の恵みに共にあずかる者であるのです。そのことを心に留めるとき、私たちも感謝と喜びをもって、互いのために祈り合うことができるのです。
8節をお読みします。
私が、キリスト・イエスの深い憐れみの心で、あなたがた一同をどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
ここで、パウロは、自分がフィリピの信徒たち一同のことをどれほど思っているかを、神様を証人にして断言しています。しかも、パウロは、「キリスト・イエスの深い憐れみの心で」、フィリピの信徒たち一同のことを思っていたのです。パウロは生まれながらに持っている憐れみの心ではなく、キリスト・イエスの深い憐れみの心で、フィリピの信徒たち一同のことを思っていたのです。このパウロの言葉は、『ガラテヤの信徒への手紙』の第2章20節の御言葉を思い起こさせます。新約の338ページです。第2章19節と20節をお読みします。
私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
このことは、パウロだけではなくて、すべてのキリスト者にも当てはまります。私たちの内にも、キリストが生きておられるのです。そのキリストの深い憐れみの心が私たちにも与えられているのです。それゆえ、私たちも、キリストの深い憐れみの心で、互いのことを心に留めて、祈り合うことができるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の353ページです。
9節から11節までをお読みします。
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。
パウロは、4節で、「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と記していました。その祈りの内容が、9節から11節に記されています。パウロは、「あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように」と祈っていたのです。パウロは、フィリピの信徒たちの愛が、ますます豊かになるようにと祈っていたのです。『コリントの信徒への手紙一』の第13章に記されているように、愛は私たちキリスト者の最高の道であり、聖霊が私たちの内に形作ってくださる徳であり、品性であります。その13節でパウロは、こう記しています。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」。この愛がますます豊かになるようにと、パウロは祈っていたのです。しかもこの愛は、盲目的な愛ではありません。深い知識とあらゆる洞察を身につけた愛であるのです。パウロは、フィリピの信徒たちの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができるようにと祈るのです。私たちは、深い知識とあらゆる洞察を身につけた愛によって、本当に重要なことが何であるかを見分けることができるのです(愛が価値判断の基準となる)。そして、この愛も、私たちが生まれながらに持っている愛ではなくて、キリスト・イエスの愛であるのです。イエス・キリストは私たちを愛して、十字架の上で命をささげてくださいました。そして、復活して、私たちに御自分の霊を与えてくださいました。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」のです(ローマ5:5)。それゆえ、私たちもイエス・キリストを愛する者、イエス・キリストに結ばれた兄弟姉妹を愛する者、さらには、イエス・キリストをまだ信じていない人々を愛する者とされているのです。その愛がますます豊かになるように、そして、その愛によって本当に重要なことを見分けることができるようにとパウロは祈っているのです。
また、パウロは、「キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように」と祈ります。「キリストの日」とは、イエス・キリストが天から再び来られる日のことです。パウロは、6節でこう記していました。「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています」。そのように記したパウロが、「キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように」と祈っていたのです。ここでパウロが願っていることは、私たちの内で行われる聖霊の御業、特に、聖化の御業です。聖化について、『ウェストミンスター小教理問答』は問35で、次のように告白しています。「聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされているのです」(榊原康夫訳)。イエス・キリストを信じる私たちは、この世で、イエス・キリストから、義認、子とされること、聖化という大きく三つの祝福を分け与えられています(ウ小教理 問32参照)。「義認」と「子とされること」について、「ウェストミンスター小教理問答」は、問33と問34で告白しています。そこには、「義認」と「子とされること」は、「神の一方的恵みによる決定(アクト)」であると記されています。しかし、聖化は「神の一方的恵みによる御業(ワーク)」です。聖化の御業は、0が100になるようなものではなく、少しずつ進展していくのです。この地上で聖化の御業は完成しませんが、私たちは少しずつ、聖霊のお働きにによって、イエス・キリストに似た者への造りかえられているのです(二コリント3:18参照)。それゆえ、私たちは、キリストの日を見据えながら、純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美する者となることを、祈り求めるべきであるのです。
「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて」とありますが、私たちは、イエス・キリストの真実によって、あるいはイエス・キリストへの信仰によって、神の御前に正しい者とされています(3:9参照)。そのキリストの正しさがもたらす実り、愛、喜び、平和などの聖霊の実に満たされて、神を崇め、賛美する者となる(ガラテヤ5:22参照)。そのことは、既に、私たちのうちに起こっている神の御業であるのです。私たちは、主の日ごとの礼拝において、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美しているのです。そして、それが完成されるのが、キリスト・イエスの日であるのです(黙22:3、4「神と子羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている」参照)。そのキリスト・イエスの日を待ち望みつつ、私たちはパウロの祈りを、私たち自身の祈りにしたいと願います。