キリスト・イエスにある聖なる者たち 2024年2月11日(日曜 朝の礼拝)

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キリスト・イエスにある聖なる者たち

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 1章1節~2節

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1:1 キリスト・イエスの僕パウロとテモテから、フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。フィリピの信徒への手紙 1章1節~2節

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 先週で『ペトロの手紙二』を学び終えましたので、今朝から『フィリピの信徒への手紙』をご一緒に読み進めていきたいと思います。先程は第1章1節から11節までを読んでいただきましたが、今朝は1節と2節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節と2節をお読みします。

 キリスト・イエスの僕パウロとテモテから、フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。

 ここには、この手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。最初にこの手紙の差出人についてお話しします。この手紙の差出人は、「キリスト・イエスの僕パウロとテモテ」です。ここでの「僕」は、元の言葉では「僕たち」(ドゥロイ)と複数形で記されています。口語訳聖書には、「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから」と記されています。パウロだけではなく、テモテもキリスト・イエスの僕であるのです。「キリスト・イエス」とは、「キリストであるイエス」という意味です。「キリスト」とはヘブライ語のメシアのギリシャ語訳で、「油を注がれた者」「王」を意味します。ですから、「キリスト・イエス」とは「メシア・イエス」「油を注がれた者であるイエス」「王であるイエス」という意味です。パウロは、「自分とテモテは王であるイエスに従う僕たちである」と言うのです。このことは、パウロとテモテだけではなくて、「イエスはキリストである」と告白している私たちにも当てはまります。私たちも、キリスト・イエスの僕たちであるのです。

 差出人はパウロとテモテですが、実際に手紙を記したのはパウロ一人でありました(3節以下は「私は」と記されている)。なぜ、パウロは共同の差出人として「テモテ」の名前を記したのでしょうか。それは、パウロが記した手紙の内容に、テモテも同意していることを示すためであると思います。旧約の律法に、「真実は一人の証言によってではなく、二人または三人の一致した証言によって立証される」と記されています(申命19:15参照)。このことは、福音の証言においても言えるのです(マルコ6:7「イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた」参照)。この手紙に記されているイエス・キリストの福音は、パウロとテモテの一致した証言であり、真実であるのです。私たちは、イエス・キリストが復活された週の始めの日に、イエス・キリストの教会として集まり、礼拝をささげています。礼拝では、聖書が読まれ、聖書の解き明かしである説教が語られます。そこで語るのは、説教者である私一人です。しかし、説教者が語る福音に耳を傾け、説教後の祈りに「アーメン」「そのとおり、真実である」と声を合わせることによって、私たちは教会として福音の真実を証ししているのです(マタイ18:20「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」参照)。

 また、パウロが、テモテの名前を記したのは、パウロがフィリピで福音を宣べ伝えたとき、テモテも一緒にいたからです。この手紙の宛先であるフィリピの信徒たちは、パウロだけではなく、テモテのこともよく知っていたのです(2:22参照)。パウロが、フィリピで福音を宣べ伝えたことは『使徒言行録』の第16章に記されています。新約の240ページです。第16章11節から40節までお読みします。

 私たちはトロアスから船出しサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスに着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に、私たちは町の門を出て、祈りの場があると思われる川岸に行った。そして、そこに座って、集まっていた女たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神を崇めるリディアと言う女も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください」と言って、無理やり招き入れた。

 私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロや私たちの後ろに付いて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると、霊は即座に彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて行った。そして、二人を高官の前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです。」群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。

 真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させ、駆け込んで来て、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家族一同に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

 夜が明けると、高官たちは警吏たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」ところが、パウロは警吏たちに言った。「高官たちは、ローマ市民である私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ったあげく投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ。」警吏たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ市民であると聞いて恐れ、出向いて来て、わびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行ってきょうだいたちに会い、彼らを励ましてから出発した。

 ここには、パウロとシラスが、フィリピで福音を宣べ伝えたこと。女から占いの霊を追い出したことによって、鞭で打たれ、牢に入れられたことが記されています。テモテの名前は出てきませんが、テモテもパウロたちに同行していました。少し前の第16章1節から5節までの小見出しに「テモテ、パウロに同行する」とあるように、パウロは、若いテモテを連れてフィリピに行ったのです。第16章11節に「私たちは」とあり、16節にも「私たちは」とあります。この「私たち」には、『使徒言行録』を記したルカとパウロとシラスとテモテが含まれているのです。

 フィリピという町については、12節にこう記されています。「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民市であるフィリピ」。聖書巻末の地図で、場所を確認したいと思います。「11 パウロの第一次および第二次宣教旅行」の地図をご覧ください。Bの2に、「トロアス」とあります。このトロアスから船出してサモトラケ島に行き、翌日、ネアポリスに着き、フィリピに入ったのです。フィリピはAの2にあります。このようにして、イエス・キリストの福音は、アジアからヨーロッパへともたらされたのです。

 では、『使徒言行録』の第16章に戻ります。新約の240ページです。

 14節と15節に、ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神を崇めるリディアとその家族が主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたことが記されています。33節に、看守とその家族が主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたことが記されています。フィリピの教会は、リディアの家族と看守の家族の二家族から始まったようです。私たち羽生栄光教会が、STさん家族とYYさん家族の二家族から始まったように、フィリピの教会は、リディアの家族と看守の家族から始まったのです。

 40節に、「牢を出た二人(パウロとシラス)は、リディアの家に行ってきょうだいたちに会い、彼らを励ましてから出発した」とあります。フィリピの信徒たちは、リディアの家に集まって、礼拝をささげていたようです。当時は、信徒の家に集まって、礼拝をささげていたのです(家の教会)。場所がどこであろうと、イエス・キリストの御名によって集まり、礼拝をささげている人々の群れが教会(エクレーシア)であるのです(エクレーシアは「呼び出された者たちの集い」を意味する)。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の353ページです。

 次に、この手紙の受取人についてお話しします。この手紙の受取人は「フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たち」であります。パウロは、フィリピに住んでいる信徒たちを「キリスト・イエスにある聖なる者たち」と呼びます。このことは、私たちにもそのまま当てはまります。私たちは、キリスト・イエスにある聖なる者たちであるのです。私たちは、王であるイエスの民とされたことによって、聖なる神の民とされたのです。それは、神様が、ナザレのイエスを十字架の死から栄光の体で復活させられ、御自分の右の座にあげられて、主とし、またメシアとされたからです(使徒2:36参照)。神によって立てられた王であるイエスを信じ、その僕となることによって、私たちは聖なる神の民とされたのです。その昔、イスラエルの民が、主によって油を注がれたダビデに従うことによって、神の王権にあずかったのと同じですね。聖なる民であるかどうかは、血筋によるのではなく、キリスト・イエスにあるかどうかにかかっているのです(使徒2:38参照)。

 1節に、「キリスト・イエス」という言葉が二度、差出人にも受取人にも記されています。「キリスト・イエス」こそ、パウロとフィリピの信徒たちを結ぶ絆であるのです。私たちの交わりも同じですね。私たちを結びつける絆は、キリスト・イエスであります。私たちの交わりは、キリスト・イエスにある交わりであるのです。私たちはキリスト・イエスの僕仲間であるのです。

 パウロは「ならびに監督たちと奉仕者たちへ」と記しています。私たちの教会に当てはめれば、「長老たちと執事たちへ」となります。第4章を読むと、フィリピの教会がパウロの窮乏を救おうとして、何度も物を贈ったことが記されています(4:16参照)。この手紙には、「贈り物への感謝」も記されているのです。それで、パウロは、贈り物を取り仕切っていた監督たちと、その実務にあたっていた奉仕者たちのことを記したのだと思います。

 最後に挨拶の言葉についてお話しします。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」。パウロは、単に「神から」とは記さずに、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」と記します。主イエス・キリストを信じる私たちにとって、神は、「私たちの父なる神」であられます。神の独り子であるイエス・キリストに結ばれて、私たちも神の子供たちとしていただいたのです。それゆえ、パウロは、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」と記すのです。私たちの父なる神と主イエス・キリストから与えられる恵みと平和とは、どのような恵みと平和でしょうか。それは罪の赦しという恵みであり、神様との和解という平和であります。罪の赦しという恵みと神様との和解という平和を、私たちは、「父なる神と主イエス・キリストから」与えられているのです。それゆえ、私たちも、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和がありますように」と、互いに挨拶を交わすことができるのです。

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