静けさの中で聞かれる知恵の言葉 2024年2月11日(日曜 夕方の礼拝)

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静けさの中で聞かれる知恵の言葉

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 9章11節~10章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:11 太陽の下、私は振り返って見た。/足の速い者のために競走があるのでもなく/勇士のために戦いがあるのでもない。/知恵ある者のためにパンがあるのでもなく/聡明な者のために富があるのでもなく/知者のために恵みがあるのでもない。/時と偶然は彼らすべてに臨む。
9:12 人は自分の時さえ知らない。/不幸にも魚が網にかかり/鳥が罠にかかるように/突然襲いかかる災いの時に/人の子らもまた捕らえられる。
9:13 次もまた太陽の下で私が見た知恵であり、私にとってただならぬことであった。
9:14 小さな町があって、僅かな住民がいた。そこに強大な王が攻めて来て町を包囲し、これに向かって巨大な塁を築いた。
9:15 その町に貧しいが知恵のある男が現れ、知恵によって町を救った。けれども、この貧しい男を人々は記憶に留めることはなかった。
9:16 そこで、私は言った。/知恵は武力にまさるが/貧しい男の知恵は侮られ/その言葉は聞かれることがない。
9:17 静けさの中で聞かれる知恵ある者の言葉は/愚かな者たちの支配者が叫ぶ声にまさる。
9:18 知恵は武器にまさる。/一つの過ちは幸せをことごとく損なう。
10:1 死んだ蠅は香料職人の油を臭くし、腐らせる。/少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。コヘレトの言葉 9章11節~10章1節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第9章11節から第10章1節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 11節と12節をお読みします。

 太陽の下、私は振り返って見た。足の速い者のために競争があるのでもなく/勇士のために戦いがあるのでもない。知恵ある者のためにパンがあるのでもなく/聡明な者のために富があるのでもなく/知者のために恵みがあるのでもない。時と偶然は彼らすべてに臨む。人は自分の時さえ知らない。不幸にも魚が網にかかり/鳥が罠にかかるように/突然襲いかかる災いの時に/人の子らもまた捕らえられる。

 知恵の教師であるコヘレトは、太陽の下で起こることを観察して、「足の速い者が必ずしも競争に勝つのではなく、勇士が必ずしも戦いに勝つのではない」と言います。また、「知恵ある者が必ずしもパンを得るのでもなく、聡明な者が必ずしも富を得るのでもなく、知者が必ずしも恵みを得るのでもない」と言います。そして、その理由を、「時と偶然は彼らすべてに臨む」からであると言うのです。コヘレトは、第3章1節で、「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある」と記しました。また、第3章11節で、「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」と記しました。そのような神の時と偶然に、人間は翻弄されてしまうのです。私たちの人生には、神の時と偶然が臨むという不確定な要素があるのです(「勝負は時の運」)。12節にあるように、「人は自分の時さえ知らない」のです。ここでの「時」は、「突然襲いかかる災いの時」のことです。「魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように人間も突然襲いかかる災いの時に捕らえられる」とコヘレトは言います。地震などの自然災害や交通事故など、私たちは、いつ災いの時に捕らわれるか分からないのです(「一寸先は闇」)。私たちの人生は、明日どうなるか分からない、不確かなものであるのです。このことは、主の兄弟ヤコブが、言っていることでもあります。『ヤコブの手紙』の第4章13節から15節までをお読みします。新約の415ページです。

 さて、「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」と言う人たち、あなたがたは明日のことをも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現れ、やがて消えてゆく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。

 ここでヤコブが言っていることは、突然、災いの時が襲いかかることを考慮に入れて、あのことやこのことをすることです。人間は、突然、襲いかかる災いに備えて、保険という制度を考え出しました。ちなみに「保険」とは、「災害・病気・死亡など、偶発的な事故による損害を補償するために、多数の人が出し合った掛け金を資金として、事故に遭遇した人に一定の金銭を給付する制度」のことを言います。保険という制度は、人類の知恵であり、神の一般恩恵であると言えます。教会も、火災保険に加入していますが、それは火災という災いに備えてのことです。他にも、医療保険や自動車保険など、突然襲いかかる災いに備えて、いろいろな保険があります。しかし、一番の備えは、主イエス・キリストを信じて、天国に入る備えをすることであるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の1031ページです。

 13節から16節までをお読みします。

 次もまた太陽の下で私が見た知恵であり、私にとってただならぬことであった。小さな町があって、僅かな住民がいた。そこに強大な王が攻めて来て町を包囲し、これに向かって巨大な塁を築いた。その町に貧しいが知恵のある男が現れ、知恵によって町を救った。けれども、この貧しい男を人々は記憶に留めることはなかった。そこで、私は言った。知恵は武力にまさるが/貧しい男の知恵は侮られ/その言葉は聞かれることがない。

 僅かな住民がいる小さな町を、強大な王の軍隊が包囲して、巨大な塁(るい)、砦(とりで)を築きました。町が滅ぼされるのは時間の問題です。そのとき、貧しい男の知恵によって、町は救われました。そうであれば、この貧しい男は、町の英雄となるはずです。しかし、人々は、この貧しい男を記憶に留めることはありませんでした。それは、この男が貧しかったからです。『箴言』の第14章20節に、「貧しい人は友にさえも憎まれる。富める者を愛する者は多い」とあるように、知恵によって町を救った男は、貧しさのゆえに、人々から忘れられてしまったのです。

 この出来事からコヘレトはこう言います。「知恵は武力にまさるが、貧しい男の知恵は侮られ/その言葉は聞かれることがない」。ここでコヘレトが言っていることは、知恵の言葉を語る者がどのような者であるかによって、人々はその言葉に耳を傾けるということです。富める男が知恵の言葉を語れば、「それは良い考えだ」と言って人々は聞きます。しかし、貧しい男が知恵の言葉を語れば、「こいつは何者だ」と言って人々は聞かないのです。ここでコヘレトが教えていることは、知恵にも限界付けがなされているということです。知恵の言葉は、語る者によって、あるいは聞く者によって、限界付けられるのです。町の人々は、貧しい男の知恵によって救われたにもかかわらず、その男の貧しさゆえに、侮り、聞こうとしないのです。人々はこの貧しい男をすっかり忘れてしまうのです。

 第9章17節から第10章1節までをお読みします。

 静けさの中で聞かれる知恵ある者の言葉は/愚かな者たちの支配者が叫ぶ声にまさる。知恵は武器にまさる。一つの過ちは幸せをことごとく損なう。死んだ蠅は香料職人の油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。

 ここでコヘレトは、『箴言』の第24章5節と6節の御言葉を背景にしているようです。そこにはこう記されています。「知恵ある男は強い。知識のある人はさらに力を加える。あなたは良い指揮によって戦争を行い/多くの助言によって勝利する」。このような教えを背景にして、コヘレトは、「静けさの中で聞かれる知恵の言葉は、愚かな者たちの支配者が叫ぶ声にまさる」と言うのです。ここで「聞かれる」と言われていることに注意したいと思います。直前の16節には、知恵の言葉は「聞かれることがない」とありました。しかし、ここでは「聞かれる」と記されています。私たちは知恵の言葉を聞くことによって、もっと言えば知恵の言葉に聞き従うことによって、武器にまさる益を得ることができるのです。『箴言』の第1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」と記されています(新共同訳)。主を畏れることを源とする知恵の言葉に聞き従うとき、私たちは幸せを得ることができるのです。しかし、知恵によってもたらされる幸せも不確かであるとコヘレトは言います。「一つの過ちは幸せをことごとく損なう」とあるように、知恵によって得た幸せも、一つの過ちで失われてしまうのです。ちょうど、死んだ蠅が香料職人の油を臭くし、腐らせてしまうように、少しの愚かさは、知恵や栄光を台無しにしてしまうのです。知恵によってもたらされる幸せも、このように不確かなものであるのです。

 では、確かなものはないのでしょうか。そのような私たちの問いに対して、主の兄弟ヤコブは、上からの知恵がもたらす良い実りについて語ります。今夕はそのところを読んで終わりたいと思います。新約の414ページです。『ヤコブの手紙』の第3章13節から18節までをお読みします。

 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたが心の内に、苦々しい妬みや利己心を抱いているなら、誇ったり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から降って来たものではなく、地上のもの、自然のもの、悪魔から出たものです。妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。しかし、上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。

 「上から降る知恵」とは、「天におられる主イエス・キリストから注がれる聖霊」のことです。聖霊は、私たちに、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という良い実りをもたらしてくださいます(ガラテヤ5:22、23)。そして、聖霊がもたらしてくださる良い実りこそ、変わることのない確かなものであるのです。なぜなら、それは主イエス・キリストの聖霊が、私たちの内に結んでくださる良い実であるからです。教会における人間関係において、少しの愚かさが、知恵と栄光を損なってしまうことはあります(牧師が罪を犯して、牧師を辞めることはその典型と言える)。しかし、神様の御前に、私たちの知恵と栄光が損なわれることはないのです。なぜなら、神様は、私たちの愚かさをよくご存じのうえで、私たちに上からの知恵と神の子としての栄光を与えてくださったからです。そして、このことは、私たちが災いの時に捕らえられたとしても変わることがないのです。私たちの主イエス・キリストは、私たちが死の陰の谷を歩むときも共にいてくださいます(詩23:4参照)。私たちの主イエス・キリストは、死を越えて私たちを天の御国へと導いてくださるのです(詩48:15参照)。

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