義の宿る新しい天と新しい地 2024年1月28日(日曜 朝の礼拝)
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義の宿る新しい天と新しい地
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙二 3章8節~13節
聖書の言葉
3:8 愛する人たち、この一事を忘れてはなりません。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
3:9 ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てて消えうせ、自然界の諸要素は焼け崩れ、地とそこで造り出されたものも焼けてしまいます。
3:11 このように、これらのものがみな、崩れ去るのだとすれば、あなたがたはどれほど聖なる敬虔な生活を送らなければならないことでしょう。
3:12 神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。その日には、天は燃え尽き、自然界の諸要素は火で溶け去ってしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。ペトロの手紙二 3章8節~13節
メッセージ
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小アジアの教会を惑わせていた偽教師たちは、欲望のままに振る舞い、嘲ってこう言っていました。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか」。このように、偽教師たちは、主イエス・キリストが天から再び来て、生きている者と死んだ者とを裁かれることを否定していたのです。偽教師たちは、イエス・キリストの再臨と裁きを否定していたのです。そのような偽教師たちに、ペトロは、この世界は一度水によって滅びを経験した世界であり、火で滅ぼされるために取っておかれていると語りました。この世界はノアの時代に起こった大洪水によって一度滅びを経験しているのです。そうであれば、「天地創造の初めから何も変わらない」とは言えないわけです。ペトロの認識によれば、世界は3つに区分できます。1つはノアの洪水によって滅んでしまった古い世界です。2つ目は、火で焼かれるために保たれている今の世界です(イザヤ66:15、二テサロニケ1:8参照)。3つ目は、主イエス・キリストの再臨と裁きによってもたらされる新しい世界、義の宿る新しい天と新しい地です。今、私たちは、二つ目の世界、火で焼かれるために保たれている世界で、主イエス・キリストの再臨を待ち望んでいるのです。
今朝の御言葉、8節と9節をお読みします。
愛する人たち、この一事を忘れてはなりません。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペトロは、「愛する人たち、この一事を忘れてはなりません」と言います。この一つの事とは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようである」という事です。この事は、『詩編』の第90編4節に記されています。「まことに、あなたの目には、千年といえども過ぎ去った一日(ひとひ)のよう。夜回りの一時(ひととき)に過ぎない」。この『詩編』の御言葉を背景にして、ペトロは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と言うのです。つまり、神様の時間の尺度と私たち人間の時間の尺度は異なるということです。イエス様が天に昇られてからおよそ2000年が経っています。しかし、神様の時間の尺度では、2日しか経っていない。あるいは2時間しか経っていないのです。そもそも、神様は時間と空間を造られた御方であり、時間と空間という枠組みを超越している永遠の御方であります。他方、私たち人間は時間と空間という枠組みの中で生きています。ですから、神様と私たち人間の時間の尺度が異なることは、考えてみれば当然のことであるのです。
偽教師たちは、イエス・キリストの再臨と裁きを否定して、欲望のままに振る舞っていました。そして、多くの人が惑わされていたのです(2:2参照)。それは、多くの人が主が来られるのが遅いと思っていたからです。この手紙は、紀元65年頃に書かれたと考えられています(使徒ペトロによって書かれたとする保守的な立場)。イエス様が十字架の死から復活して、天にあげられたのは、紀元30年頃です。イエス様は、30年以上経っても、来られないので、ある人たちは遅いと思い、偽教師たちが言っているように、主が来られるという約束は巧みな作り話ではないかと考えるようになっていたのです(1:16参照)。このことは、現代の私たちにとっては尚更だと思います。イエス様が天にあげられてから、2000年近く経っているのですから、私たちも遅いと思うわけです。そのような私たちに対して、ペトロはこう言うのです。「主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。主イエスが天から再び来られないのは、「一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望んでおられる」からです。主イエス・キリストが天から再び来られるとき、すべての人が裁かれます。そして、私たちが学んだように、裁きには二つの面があるのです。主イエス・キリストの裁きは、主イエス・キリストを信じる敬虔な人々には救いをもたらします。しかし、主イエス・キリストを信じない正しくない人々には滅びをもたらすのです。主イエス・キリストを信じていない正しくない人たちが多い世界に、主イエス・キリストが来られたらどうなってしまうのか。多くの人が自分の罪のゆえに滅びることになるわけです。そのことを主イエス・キリストは望んではおられないのです。主イエス・キリストの望みは、すべての人が悔い改めて、主イエス・キリストを信じて、命を得ることであるのです。
また、ペトロは、「あなたがたのために忍耐しておられる」と言います。ここでの「あなたがた」は、イエス・キリストを信じていると言いながら、主は遅いと思い、主が来られるという約束は巧みな作り話ではないかと疑っている「あなたがた」のことです。もしかしたら、ここに私たちも含まれるかも知れません。私たちも、そのように考えてしまうことがあるからです。しかし、主はそのような私たちのために忍耐しておられると言うのです。このペトロの言葉は、私たちに、主イエス・キリストをお迎えする準備ができているかどうかを反省させます。旧約の預言者アモスは、「イスラエルよ、自分の神に会う備えをせよ」と言いました(アモス4:12)。主が来られるのは遅いと思い、自分が生きている内には来ないだろうと考えて、欲望のままに振る舞うならば、私たちは自分に滅びを招いてしまうのです。そうならないように、私たちは、主イエス・キリストがいつ来てもいいように心備えをしていなければならないのです(マタイ24:45~51参照)。その心備えとして、私たちは日曜日を主の日と呼び、主イエス・キリストの御名によって集まり、礼拝をささげているのです。
10節から13節までをお読みします。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てて消えうせ、自然界の諸要素は焼け崩れ、地とそこで造り出されたものも焼けてしまいます。このように、これらのものがみな、崩れ去るのだとすれば、あなたがたはどれほど聖なる敬虔な生活を送らなければならないことでしょう。神の日が来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。その日には、天は燃え尽き、自然界の諸要素は火で溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。
ペトロは、「主の日は盗人のようにやって来る」と言います。このことも、イエス様が教えられたことです。イエス様は、『マタイによる福音書』の第24章42節から44節でこう言われました。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。このようにイエス様は、御自分を盗人にたとえて、思いがけないときに来ることを教えられたのです。私たちが主は遅いと思っているその矢先に、主は来られるかも知れないのです。
ペトロは、10節で主の日が来たときの情景を黙示文学の言葉で言い表しています(イザヤ34:4、24:19参照)。主の日に、天は激しい音を立てて消え失せ、自然界の諸要素は焼け崩れ、地とそこで造り出されたものも焼かれてしまう。このようなカタストロフ(破局)が訪れるのです。そして、ペトロは、そうであれば、「あなたがたはどれほど聖なる敬虔な生活を送らなければならないことでしょう」と言うのです。このペトロの言葉は、崩れ去ることのない二つのものを前提にしています。一つは、イエス・キリストの御言葉です。イエス様は、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と言われました(マタイ24:35)。二つ目は、神のかたちに似せて造られた私たち人間の魂です。天地が滅びても、イエス・キリストの御言葉と私たち人間の魂は滅びないのです。死後の裁き、いわゆる最後の審判はこのことを前提にしています。それゆえ、私たちは、やがては崩れ去る世界にあって、いよいよ聖なる敬虔な生活を送らなければならないのです。
ペトロは「神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい」と言います。これは随分、大胆な言葉です。私たちは、どのようにして、神の日が来るのを早めることができるのでしょうか。それは、私たちが、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることによってです。イエス様は、『マタイによる福音書』の第24章で世が終わるときの徴について教えられました。そのところを開いて読んでみたいと思います。新約の46ページです。3節から14節までをお読みします。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
世の終わりの徴の最後に、「この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」とあります。主の日ごとに礼拝をささげ、福音を宣べ伝えている私たち自身が世の終わりの徴であるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストの福音を宣べ伝えることによって、終わりの日である神の日の到来を早めることができるのです。このことは、主イエス・キリストが一人も滅びないように望んでおられることとも繋がっています。一人でも多くの人を救いたいという主イエス・キリストの願いは、私たちの福音宣教によって実現していくのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の428ページです。
今の世界の終わりは、新しい世界の始まりでもあります。私たちが待ち望んでいるのは、今の世界が火で溶け去ってしまうという破局そのものではありません。その先にあるもの、義の宿る新しい天と新しい地であるのです。13節でペトロが、「私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と言うとき、その神の約束とは、『イザヤ書』の第65章に記されている預言の言葉です。今朝はその約束の言葉を読んで終わりたいと思います。旧約の1153ページ。第65章17節から25節までをお読みします。
見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく/心に上ることもない。しかし、私が創造するものを/代々とこしえに楽しみ、喜べ。
私はエルサレムを創造して喜びとし/その民を楽しみとする。私はエルサレムを喜びとし/私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も/自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ/百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てて別の人が住むことはなく/彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり/私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。彼らは無駄に労することもなく/産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり/その末裔も彼らと共にいる。彼らが呼ぶより先に、私は応え/彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。狼と小羊は共に草を食み/獅子は牛のようにわらを食べ/蛇は塵を食べ物とし/私の聖なる山のどこにおいても/これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない ――主は言われる。
このような義の宿る新しい天と新しい地をもたらすために、主イエス・キリストは天から再び来てくださるのです(黙21章参照)。義の宿る新しい天と新しい地とは、イエス・キリストにあって正しい者とされた私たちが住む新しい天と新しい地ということです。私たちは義の宿る新しい天と新しい地を待ち望む者として、聖なる敬虔な生活を送り、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。