神に認めていただけるように 2024年2月04日(日曜 朝の礼拝)

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神に認めていただけるように

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 3章14節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:14 それゆえ、愛する人たち、これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐強さは救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
3:16 すべての手紙と同じように、彼も、これらのことについて述べています。彼の手紙には分かりにくい所があって、無学な人や心の定まらない人は、それをほかの書物と同じように曲解し、自分の滅びを招いています。
3:17 それゆえ、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っておいて、不道徳な者たちの迷いに引き込まれて、堅固な足場を失わないように用心しなさい。
3:18 私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このイエス・キリストに、栄光が今もまた永遠にありますように。
ペトロの手紙二 3章14節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 昨年、2023年11月5日から『ペトロの手紙二』を読み進めて来ました。今朝はその最後の学びとなります。先程は第3章1節から18節までを読みましたが、今朝は14節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 14節をお読みします。

 それゆえ、愛する人たち、これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。

 ペトロは、小アジアのキリスト者たちに、「愛する人たち」と呼びかけます(3:1,8,14,17参照)。主イエス・キリストにあって、ペトロは小アジアのキリスト者たちを愛しているのです。小アジアのキリスト者たちは、主イエス・キリストにあってペトロから愛されている者たちであるのです。ここに、私たちは、ペトロと小アジアのキリスト者たちの主にある関係、牧会関係を見ることができます。ペトロは主イエス・キリストを愛して主の羊を飼う者として、小アジアのキリスト者たちを愛しているのです(ヨハネ21:15~17参照)。同じことが、牧師である私と信徒である皆さんとの関係においても言えます。牧師である私は、主イエス・キリストを愛して、主の羊を飼う者として、信徒である皆さんを愛しているのです。

 ペトロは「これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と言います。「これらのこと」とは、主イエス・キリストの再臨と裁きによって、義の宿る新しい天と新しい地が到来することです。「義の宿る新しい天と新しい地」とは「主イエス・キリストにあって義とされた人たちが住む新しい天と新しい地」のことです。私たちは、主イエス・キリストが天から再び来られるとき、罪から完全に解放され、公に正しい者と宣言されて、新しい天と新しい地に住むことになるのです(黙21章参照)。そのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神様に認めていただけるように励みなさいとペトロは言うのです。ペトロは、第2章13節で、宴席に連なるとき、だまし事にふけって騒ぐ偽教師たちを、「染みや傷のようなもの」と言いました。そうであれば、ここでペトロは、偽教師たちを教会の交わりから追放することを仄めかしていると読むことができます。小アジアの教会は、偽教師たちによって惑わされ、混乱していました。その偽教師たちを教会の交わりから追放して、平和に過ごしていると神様に認めていただけるように励みなさいと言うのです。ここでの平和は、主イエス・キリストの贖いによって与えられた神様との平和のことです。第2章1節によれば、偽教師たちは、滅びをもたらす異端(間違った教え)をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主イエス・キリストを否定していました。そのような偽教師たちを教会の交わりから追放して、主イエス・キリストの贖いを土台とする平和に過ごすようにとペトロは言うのです。ここでのペトロの言葉は、個人的にではなく、教会として捉えるべきだと思います(一ペトロ4:17「なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来たからです」参照)。ペトロの言葉によれば、私たちは羽生栄光教会という一つの群れとして、神様に御前に立つことになるのです。私たちが今、一つの群れとして神様の御前に礼拝をささげているように、私たちは一つの群れとして神様の御前に立つことになるのです。そのことを覚えて、平和に過ごしていると神様に認めていただける教会の交わりを形づくっていきたいと思います。

 15節と16節をお読みします。

 また、私たちの主の忍耐強さは救いであると考えなさい。それは、私たちの愛するパウロが、彼に与えられた知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。すべての手紙と同じように、彼もこれらのことについて述べています。彼の手紙には分かりにくい所があって、無学な人や心の定まらない人は、それをほかの書物と同じように曲解し、自分の滅びを招いています。

 15節前半の「私たちの主の忍耐強さは救いであると考えなさい」は、9節の御言葉を受けてのものです。「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。その主イエス・キリストの忍耐強さを救いであると考えるようにとペトロは言うのです。主イエス・キリストは、一人も滅びることがないように、すべての人が救われるようにと裁きを下すことを忍耐しておられます。そのように考えて、私たちは、すべての人に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていかなければならないのです。

 15節でペトロは、パウロの手紙について言及しています。『ガラテヤの信徒への手紙』の第2章を読むと、ペトロとパウロがアンティオキアで衝突したことが記されています。しかし、「私たちの愛する兄弟パウロ」とあるように、ペトロは、パウロのことを愛する兄弟として受け入れています。ペトロは、パウロが神から与えられた知恵に基づいて、手紙を書き送ったことを認めています。これは、ペトロだけが認めていることではなく、教会において、パウロの手紙は権威ある神の言葉として受け入れられていたのです(一テサロニケ2:13参照)。このことは、パウロが主イエス・キリストの使徒であることを考えれば当然であると言えます。イエス・キリストの使徒とは、イエス・キリストから遣わされた全権大使であるからです。イエス・キリストの使徒パウロの言葉は、イエス・キリストの言葉として受け入れられたのです(ヨハネ13:20参照)。同じことが使徒ペトロにも言えるわけです。私たちは、使徒ペトロの言葉を、ペトロを遣わされた主イエス・キリストの言葉として読み、聞いているのです。

 16節に、「すべての手紙と同じように、彼もこれらのことについて述べています」とあります。「これらのこと」とは、ペトロが第3章で記した主イエス・キリストの再臨とそれを待ち望む生活のことであります。ペトロは、「主の日は盗人のようにやって来ます」と言い、「聖なる敬虔な生活を送らなければならない」と言いました(3:10、11)。これらのことは、ペトロだけが言っていることではなく、パウロも手紙の中で記していることであるのです。『テサロニケの信徒への手紙一』の第5章1節から6節までをお読みします。新約の370ページです。

 きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが襲って来るのです。決して逃れることはできません。しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも闇にも属していません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

 ここでパウロは、「主の日は、盗人が夜来るように来る」と言い、光の子、昼の子として、「目を覚まし、身を慎んでいましょう」と言っています。このように、パウロも、主イエス・キリストの再臨とそれを待ち望む生活について、ペトロと同じようなことを述べているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の428ページです。

 ペトロは、16節後半で、「パウロの手紙には分かりにくい所があって、無学な人や心の定まらない人は、それをほかの書物と同じように曲解し、自分の滅びを招いている」と言います。ここでの「無学な人や心の定まらない人」とは、「偽教師たちと彼らによって惑わされた人たち」のことです(2:14参照)。偽教師たちと惑わされた人たちが曲解したパウロの教えとは何でしょうか。それはおそらく、律法からの自由、キリスト者の自由についての教えであったと思います。偽教師たちと惑わされた者たちは、パウロの教え、律法からの自由、キリスト者の自由を曲げて解釈し、欲望のままに振る舞っていたのです。偽教師たちと惑わされた者たちは、自由と放縦を履き違えて、自分に滅びを招いていたのです。彼らは、主イエス・キリストが天から再び来られる日に、滅びることになるのです(3:7参照)。

 17節と18節をお読みします。

 それゆえ、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っておいて、不道徳な者たちの迷いに引き込まれて、堅固な足場を失わないように用心しなさい。私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このイエス・キリストに、栄光が今も永遠にありますように。

 「あなたがたはこのことをあらかじめ知っておいて」の「このこと」とは何のことでしょうか。それは、「聖書の言葉であっても曲解すると滅びをもたらす」ということです。聖書は救いの書物です(二テモテ3:15「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます」参照)。しかし、聖書を曲解するならば、滅びをもたらすことになるのです。このことを弁えて、私たちは不道徳な者たちの迷いに引き込まれて、堅固な足場を失わないように用心しなければならないのです。ここでの「堅固な足場」とは「聖書を正しく解釈すること」と言えます。教会に教職の制度が設けられたのも、「堅固な足場を失わない」ためであると言えます。聖書を正しく解釈して、その教えに聞き従うとき、私たちはイエス・キリストの救いにあずかることができるのです。

 18節の「私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」という御言葉は、第1章5節から8節の御言葉を思い起こさせます。そこでペトロはこう記していました。「こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、怠惰な者、実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう」。このように記したペトロが、この手紙を閉じるにあたって、「私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と言うのです。このことは、堅固な足場を失わないこと、聖書の正しい解釈を聞き続けることと一体的な関係にあります。私たちは聖書の正しい解釈を聞き続けることによって、私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長することができるのです(説教は大切)。たとえ人数が増えていなくても、私たちは、私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しているのです。羽生栄光教会が伝道開始44周年を迎えることができたことは、その証拠であると言えるのです。

 ペトロは、最後に、私たちの主、救い主イエス・キリストに栄光を帰して、遺書とも呼べる、この手紙を閉じます(1:14、15「それは、私がこの仮の宿を離れる時が間もなく訪れることを知っているからです。自分が世を去った後もあなたがたがこれらのことをいつも思い起こさせるように、私は努めましょう」参照)。「このイエス・キリストに、栄光が今もまた永遠にありますように」。このペトロの言葉は、イエス・キリストが今もまた永遠に生きておられることを教えています。十字架の死から復活し、天に昇り、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストは、今もまた永遠に生きておられるのです。ペトロは、第1章11節でこう記していました。「こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです」。私たちは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを与えられた者として、イエス・キリストに栄光を帰して、この地上の生涯を歩んでいきたいと願います。

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