主の再臨の約束 2024年1月14日(日曜 朝の礼拝)

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主の再臨の約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 3章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 愛する人たち、今私は、あなたがたにこの第二の手紙を書いています。これらの手紙によって、私はあなたがたの記憶を呼び起こし、純粋な心を奮い立たせたいのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の戒めを思い出させるためです。
3:3 まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、
3:4 こう言います。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」
3:5 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、
3:6 当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれ、不敬虔な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、火で焼かれるために、保たれているのです。ペトロの手紙二 3章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も「主の日の礼拝」では、『ペトロの手紙二』を御一緒に読み進めていきます。今朝は、『ペトロの手紙二』の第3章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 1節と2節をお読みします。

 愛する人たち、今私は、あなたがたにこの第二の手紙を書いています。これらの手紙によって、私はあなたがたの記憶を呼び起こし、純粋な心を奮い立たせたいのです。それは、聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の戒めを思い出させるためです。

 ペトロは、この手紙の宛先である小アジアのキリスト者たちに、また、私たちに「愛する人たち」と呼びかけます。そして、自分が書いている手紙を「第二の手紙」と言うのです。このペトロの言葉から、この手紙は『ペトロの手紙二』という表題(タイトル)が付けられたのです(表題は手紙の本文を読んで、後の時代の人が付けたものである)。ペトロは、「あなたがたの記憶を呼び起こし、純粋な心を奮い立たせたい」と願って、第一の手紙と第二の手紙を書きました。「あなたがたの記憶を呼び起こし、純粋な心を奮い立たせたい」。このペトロの願いは、日曜日ごとに、キリストの教会として集まり、礼拝をささげている私たちの願いでもあります。私たちは、記憶を呼び起こし、純粋な心を奮い立たせたいと願って、キリストの教会として集まり、礼拝をささげているのです。

 1節で、ペトロは、これらの手紙を書き記した願いを記しました。2節には、これらの手紙を書き記した目的が記されています。ペトロは、「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の戒めを思い出させるため」にこれらの手紙を書いたのです。私たちは、『ペトロの手紙』を読むことによって、聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、使徒たちが伝えた、主であり、救い主であるイエス・キリストの戒めを思い起こすことができるのです。そのことを念頭において、3節以下を読み進めていきたいと思います。

 3節から6節までをお読みします。

 まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、こう言います。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。

 「終わりの日」とありますが、より正確に翻訳すると「終わりの日々」となります。終わりの日々に現れる嘲る者たちとは、小アジアの教会を惑わしていた偽教師たちのことです(2章と3章は続いている)。終わりの日々に、偽教師たちが現れることは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストが前もって言われたことでした。イエス・キリストは、『マタイによる福音書』の第24章で、世の終わりの徴として、「偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす」と言われました。ペトロは、そのイエス・キリストの教えを聞いた使徒として、「終わりの日々には、嘲る者たちが現れる」と記すのです。偽教師たちは、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、こう言っていました。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか」。「主が来られるという約束」とは、十字架の死から復活して、天にあげられた主イエス・キリストが、生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られるという約束のことです。主イエス・キリストが天から再び来られる日こそ、終わりの日であるのです。このことも、イエス様が『マタイによる福音書』の第24章で言われたことです。新約の47ページです。第24章29節から31節までをお読みします。

 「それらの日が起こる苦難の後、たちまち、太陽は暗くなり/月は光を放たず、星は天から落ち/天の諸力は揺り動かされる。その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの響きとともに天使たちを遣わし、天の果てから果まで、選ばれた者を四方から呼び集める。」

 ここでの「人の子」は、イエス様御自身のことです。イエス様は、人の子である御自分が、「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」と言われるのです。このイエス様の御言葉の背景には、聖なる預言者たちの言葉、『ダニエル書』の第7章の預言があります。イエス様は、『ダニエル書』の第7章に預言されている栄光の人の子として、天の雲に乗って来ると約束されたのです。そして、その日こそ終わりの日であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の428ページです。

 「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか」。このように言い張る者たちは、次のことを忘れているとペトロは言います。「すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました」。確かに天は大昔から存在して何も変わっていない。しかし、地はそうではない。地は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまったのであり、私たちが今いる地は新しい地であると言うのです。「地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成った」という言葉は、『創世記』の第1章の「天と地の創造」の記述をもとにしています。そこには、「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります(創世1:2)。また、神様が大空の下の水と大空の上の水を分けられたこと(創世1:7)。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ」と神様が言われたことが記されています(創世1:9)。そのような『創世記』の記述を背景にして、ペトロは、「天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが」と言うのです。御言葉によって水を元としてなった世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。この洪水とは、『創世記』の第6章から第8章に渡って記されているノアの時代に起こった大洪水のことです。この大洪水について、ペトロは第2章5節で記していました。「また神は、古い世界を容赦せず、不敬虔な者たちの世界に洪水を引き起こし、ただ、義を説いていたノアたち八人だけを守られました」。ノアの時代に起こった大洪水は、悪しき人間に対する神の裁きであったのです。旧約の7ページです。『創世記』の第6章5節から8節までをお読みします。

 主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を作ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」だが、ノアは主の目に適う者であった。

 このように、主は御言葉によって水を元として成った地を、御言葉によって洪水を起こして、滅ぼされるのです。そのようにして、悪しき人間を滅ぼし、ノアたち八人を救われたのです。

 洪水後の地が新しい地であることは、主の命令があるまで、ノアたちが箱舟から出なかったことにも示されています。旧約の10ページ。『創世記』の第8章13節から22節までをお読みします。

 ノアが601歳の最初の月、その月の一日に、地上の水は乾いた。ノアが箱舟の覆いを取り外して見ると、地の面は乾いていた。そして、第二の月、その月の27日に地は乾ききった。

 神はノアに語られた。「あなたは、妻、息子たち、息子の妻たちと一緒に箱舟から出なさい。あなたと共にいたすべての生き物、すべての肉なるもののうち、鳥、家畜、地を這うあらゆるものを一緒に連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で子を産み、増えるようにしなさい。」そこで、ノアは息子たち、妻、息子の妻たちと一緒に外に出た。また、すべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地上を動き回るものは、それぞれの種類に従って箱舟から出た。ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた。主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種まきと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」

 ここで2つのことを指摘したいと思います。一つは、ノアが地の面が乾いていたのを見たにも関わらず、主の命令があるまで、箱舟の中にとどまっていたということです。それは、洪水後の地が、神様が所有する新しい地であるからです。私たちが勝手に他人の家に入らないように、ノアは神様の地に勝手に足を踏み入れないのです。「あなたは、妻、息子たち、息子の妻たちと一緒に箱舟から出なさい」という主の命令を受けて、ノアは外に出たのです。

 指摘したい2つ目のことは、「主が洪水を起こされた理由が、主が二度と洪水を起こさない理由となっている」ということです。主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、洪水を起こされました。しかし、その主が、「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない」と言われるのです。それは、洪水の水によっては、人の心を悪から清めることはできないからです。宗教改革者のジャン・カルヴァンは、このところを解説して、次のように言っています。「もし人々がふさわしく扱われねばならないとしたら、毎日洪水が必要である」。四十日四十夜、雨が降り続くという大洪水が起こらないのは、私たちがノアの時代の人間よりも良い人間になったからではありません。それは、ひとえに主の慈しみと忍耐によることであるのです。しかし、偽教師たちは、その主の慈しみと忍耐を忘れて、「天地創造の初めから何も変わらないではないか」と言っていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の428ページです。

 『創世記』の第8章で、主は「地の続くかぎり、種まきと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない」と言われました。主は、この世界の営みを保つことを決意されたのです。そのことを背景にして、ペトロは、7節でこう言います。  

しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれ、不敬虔な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、火で焼かれるために、保たれているのです。

ペトロは、かつて水によって滅ぼされた地が、今度は火によって滅びることになると言います。このペトロの言葉の背景にも、聖なる預言者たちの言葉があります。『イザヤ書』の第66章15節に次のように記されています。「見よ、主は火と共に来られる。その戦車は旋風(せんぷう)のようだ。怒りを燃え上がらせ/その炎で責めさいなむ」。このイザヤの預言を背景にして、ペトロは、今の地が火で焼かれることになっていると言うのです(黙示的表現)。そして、不敬虔な者たちを燃え盛る火で滅ぼされる御方こそ、天から再び来られる主イエス・キリストであるのです(二テサロニケ1:8「主イエスは、燃え盛る火の中を来られ、神を知らない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」参照)。主イエス・キリストが天から再び来られる日こそ、今の天と地の終わりの日であり、義の宿る新しい天と新しい地が到来する日であるのです(3:13参照)。

 『創世記』の第8章において、主は、「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない」と言われました。しかし、主は、御自分の民を救うために、正しい人であり、神の御子であるイエス・キリストを呪いの死へと引き渡されたのです。さらに、主は、イエス・キリストを栄光の体で復活させられ、御自分の右の座にあげられ、あらゆる名にまさる名、主という名をお与えになりました。そして、主イエス・キリストを通して、御自分の民に聖霊を与えて、私たちの心を清めてくださったのです。洪水ではできなかったことを、主イエス・キリストの聖霊がしてくださったのです。ペトロが、奮い立たせようとしている純粋な心とは、主イエス・キリストの聖霊によって清められた心のことであるのです。

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