エッサイの株から 2023年12月20日(水曜 聖書と祈りの会)
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- 村田寿和 牧師
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イザヤ書 11章1節~9節
聖書の言葉
11:1 エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。
11:3 彼は主を畏れることを喜ぶ。/その目の見えるところによって裁かず/その耳の聞くところによって判決を下さない。
11:4 弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。/その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり/真実はその身の帯となる。
11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛と若獅子は共に草を食み/小さな子どもがそれを導く。
11:7 雌牛と熊は草を食み/その子らは共に伏す。/獅子も牛のようにわらを食べる。
11:8 乳飲み子はコブラの穴に戯れ/乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
11:9 私の聖なる山のどこにおいても/害を加え、滅ぼすものは何もない。/水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。イザヤ書 11章1節~9節
メッセージ
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今朝は、『イザヤ書』の第11章1節から9節より、「エッサイの株から」という題でお話します。イザヤは、紀元前8世紀に、南王国ユダで活躍した預言者であります。
1節から5節までをお読みします。
エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かず/その耳の聞くところによって判決を下さない。弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその身の帯となる。
「エッサイ」とはダビデ王の父親の名前です。ダビデは紀元前11世紀に活躍した王様です。また、「株」とは「切り株」のことです(6:13「聖なる子孫が切り株となって残る」参照)。エッサイの子であるダビデ王朝という木は切り倒されてしまいますが、その切り株から芽が萌え出で、その根から若枝が育ちます。ここでの「若枝」とは、王国と王座をとこしえに堅く据えるダビデの子孫のことです。このイザヤの言葉の背景には、『サムエル記下』の第7章に記されているナタンの預言、いわゆるダビデ契約があります。主は預言者ナタンを通して、ダビデにこう言われました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国と王座をとこしえに堅く据える」(サムエル下7:12、13参照)。主が若枝を芽生えさせてくださることについては、「ダビデの最後の言葉」でも言われています。『サムエル記下』の第23章5節にこう記されています。「私の家は神と共にある。神は永遠の契約を私に賜り/すべてを整え、すべてを守られる。私の救い、私の喜びをすべて神はかなえてくださる」。ここで「かなえてくださる」の別訳は「育んでくださる」です。新共同訳では「芽生えさせてくださる」と翻訳していました。この「芽生えさせてくださる」というダビデの言葉から「若枝」という言葉が来るべきメシアを表す言葉として用いられるようになったのです。今朝の御言葉、『イザヤ書』第11章は、ナタンの預言である「ダビデ契約」と「ダビデの最後の言葉」を背景にして、来るべきメシア、王について預言しているのです。
ダビデは、サムエルによって油を注がれて、イスラエルの指導者となりました。そして、その日からダビデに主の霊が激しく降るようになりました(サムエル上16:13参照)。ダビデ自身も「終わりの言葉」の中で、こう言っています。「主の霊は私の内に語り/主の言葉は私の舌の上にある」(サムエル下23:2)。そのダビデのように、ダビデの子孫である若枝(メシア)にも、主の霊がとどまるのです。ここでは、主の霊がどのような霊であるのかがいくつもの言葉で言い表されています。「知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊」。このような聖霊のお働きによって、若枝(メシア)は王国と王座を永久に堅く据えるのです。2節の終わりに「主を知り、畏れる霊」とあり、続く3節に「彼は主を畏れることを喜ぶ」とあります。「主を畏れる」ことが二度記されて、強調されています。メシア、王に求められること、それは第一に「主を畏れる」ということであるのです。なぜなら、イスラエルのまことの王は、主なる神であるからです。王が主なる神を畏れて、主なる神の御心に従うとき、イスラエルの民は、まことの王である主なる神の御支配にあずかることができるのです。ここで「彼は主を畏れることを喜ぶ」と言われていることに注意したいと思います。若枝(メシア)にとって、主を畏れて、主の御心を行うことは喜びであるのです。若枝(メシア)は「知恵と分別の霊」によって、正義によって裁き、公平な判決をくだします。また「思慮と勇気の霊」によって正義を行い、悪人を懲らしめます。若枝(メシア)は、正義と真実を帯のように身につけているのです。
6節から9節までをお読みします。
狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み/小さな子供がそれを導く。雌牛と熊は草を食み/その子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ/乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。私の聖なる山のどこにおいても/害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。
ここには、若枝によってもたらされる平和が記されています。若枝によってもたらされる平和は、人間だけではなく、動物や地を這うものにも及ぶのです。狼と小羊が共に宿ることは考えられないことです。狼は小羊を食べてしまうからです。しかし、若枝によってもたらされる平和によって、狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏すようになるのです。ここに描かれている光景は、はじめの人アダムが罪を犯す前の世界の光景です。神様がご覧になって良しとされた極めて良い世界です。『創世記』の第1章によれば、神は人間や獣などあらゆる命あるものに、すべての青草を食物として与えられました(人間に肉食が許されるのは、ノアの洪水の後である)。動物には肉食動物と草食動物がいるわけですが、アダムが罪を犯す前の良き世界では、すべての動物が青草を食べていたのです(血が流されることはなかった)。その良き創造の状態が回復されることを、イザヤは預言しているのです。若枝(メシア)によってもたらされる平和は、動物と動物、動物と人間との関係に及びます。若枝(メシア)によってもたらされる平和は「害を加え、滅ぼすものは何もない」と言えるほどに満ち満ちているのです。そして、そのような平和は、水が海を覆うように、主を知ることが地を満たすことによるのです。若枝(メシア)がもたらす平和は、主を知る人々が地に満ちることによってもたらされるのです。
さて、この若枝(メシア)とは誰でしょうか。それは、イザヤの預言からおよそ700年後に、ダビデ家のヨセフのいいなずけおとめマリアから聖霊によってお生まれになった、イエス・キリストです。イエス・キリストこそ、正義と真実によって裁かれる永遠の王であられます(使徒13:23,37参照)。そして、この御方によって、良き創造の状態が回復され、さらには完成されるのです。そのことを『ヨハネの黙示録』は「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」として預言しています。主イエス・キリストの再臨によってもたらされる「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」には、害を加え、滅ぼすものは何もありません。そこは主を知る人で満たされた、完全に平和な世界であるのです。