とこしえに受ける分 2024年1月14日(日曜 夕方の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 9章1節~10節
聖書の言葉
9:1 私はこれらすべてを心に留め、明らかにした。すなわち、/正しき者も知恵ある者も/彼らの働きは神の手の中にある。/人は、愛も憎しみも/目の前にあるすべてのことを知ることはない。
9:2 すべての人に同じことが起きているにすぎず/一つの運命が/正しき者にも悪しき者にも、善人にも/清い人にも清くない人にも/いけにえを献げる人にも献げない人にも臨む。/善人にも罪人にも/誓いを立てる人にも誓いを恐れる人にも臨む。
9:3 太陽の下で行われるすべてのうちで最も悪しきことはこれ、すなわち一つの運命がすべての人に臨むこと。生きている間に、人の子らの心は悪に満ち、無知に支配される。そして、その後は死者のもとへ行く。
9:4 確かに、すべて生きる者として選ばれていれば/誰にも希望がある。/生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。
9:5 生きている者は死ぬことを知っている。/けれども、死者は何一つ知らず/もはや報いを受けることもない。/彼らにまつわる記憶も失われる。
9:6 彼らの愛も憎しみも/妬みすらもすでに消え去っている。/太陽の下で行われるすべてのうちで/彼らにはとこしえに受ける分はない。
9:7 さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。/あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。/神はあなたの業をすでに受け入れてくださった。
9:8 いつでも衣を純白に/頭には香油を絶やさないように。
9:9 愛する妻と共に人生を見つめよ/空である人生のすべての日々を。/それは、太陽の下、空であるすべての日々に/神があなたに与えたものである。/それは、太陽の下でなされる労苦によって/あなたが人生で受ける分である。
9:10 手の及ぶことはどのようなことでも/力を尽くして行うがよい。/あなたが行くことになる陰府には/業も道理も知識も知恵もない。コヘレトの言葉 9章1節~10節
メッセージ
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今年も、月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めいきたいと思います。今夕は、第9章1節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節をお読みします。
私はこれらすべてを心に留め、明らかにした。すなわち、正しき者も知恵ある者も/彼らの働きは神の手の中にある。人は、愛も憎しみも/目の前にあるすべてのことを知ることはない。
知恵の教師であるコヘレトは、前回学んだ第8章17節でこう言っていました。「私は神のすべての業を見た。太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない。人が探し求めようと労苦しても、見極めることはできない。たとえ知恵ある者が知っていると言っても、彼も見極めることはできない」。この見極めることのできない神の手の中に、正しき者の働きも知恵ある者の働きもあるのです。それは、正しき者も知恵ある者も自分の働きを見極めることができないことを意味しています。彼らの働きが見極めることのできない神の手の中にある以上、彼らの働きには予想がつかない不確定な要素があるのです。私たち人間は、神の時の中に生かされています(3:1〜8参照)。それゆえ、人は愛も憎しみも、目の前にあるすべてのことを知ることはできない、支配することはできないのです。私たちは、ある人を愛し、ある人を憎みます。それは私たちが支配することのできない心の有り様であるのです。そして、このことは、すべての人に起こる同じこと、死についても言えるのです。
2節と3節をお読みします。
すべての人に同じことが起きているにすぎず/一つの運命が正しき者にも悪しき者にも、善人にも/清い人にも清くない人にも/いけにえを献げる人にも献げない人にも臨む。善人にも罪人にも/誓いを立てる人にも誓いを恐れる人にも臨む。太陽の下で行われるすべてのうちで最も悪しきことはこれ、すなわち一つの運命がすべての人に臨むこと。生きている間に、人の子らの心は悪に満ち、無知に支配される。そして、その後は死者のもとへ行く。
すべての人に起きている同じこと、正しき者にも悪しき者にも、善人にも罪人にも臨む一つの運命とは、「人は必ず死ぬ」ということです。死を前にして、正しい者と悪しき者の違いはありません。善人と罪人の違いもないのです。正しい者も悪しき者も、善人も罪人も、死という運命を免れることはできないのです。そして、コヘレトの見たところ、これこそ太陽の下で行われるすべてのうちで最も悪しきことであるのです。コヘレトは、第8章11節でこう言っていました。「悪事に対して判決が速やかに下されないため/人の子らの心は悪をなそうという思いに満ちる」。これと同じようなことが、正しい者も正しくない者も死ぬことに言えるのです。正しい者も正しくないものも死ぬということは、人の子らの心を悪に満ちさせ、無知に支配させてしまうことであるのです。もちろん、神は掟を守るものに長寿を約束しておられます。例えば、十戒の第五戒にはこう記されています。「あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる」(出エジプト20:12)。このように、人は神の掟を守ることによって、長寿と繁栄を得ることができるのです(ウェストミンスター小教理 問66参照)。しかし、たとえ、長寿と繁栄を得たとしても、人は必ず死ぬわけです。コヘレトが問題にしているのは、そのことです。すべての人は死者のもとへ行くのです。
4節から6節までをお読みします。
確かに、すべて生きる者として選ばれていれば/誰にも希望がある。生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。生きている者は死ぬことを知っている。けれども、死者は何一つ知らず/もはや報いを受けることもない。彼らにまつわる記憶も失われる。彼らの愛も憎しみも妬みすらもすでに消え去っている。太陽の下で行われるすべてのうちで/彼らにはとこしえに受ける分はない。
コヘレトは、「すべて生きる者として選ばれていれば誰にも希望がある」と言います。死んだ者には希望はありませんが、生きている者には希望があるのです。生きていれば、何か良いことが起こるかもしれないからです。生きている者が死んだ者よりも幸いであることを、コヘレトは、「生きている犬のほうが死んだ獅子よりも幸いである」という格言によって言い表します。犬は卑しい動物であり、獅子(ライオン)は栄誉ある動物と考えられていました(百獣の王)。しかし、生きている犬の方が死んだ獅子よりも幸いであるのです。人間に置き換えれば、「生きている奴隷の方が死んだ王様よりも幸いである」ということです。それは、生きている者は死ぬことを知っているが、死んだ者は何一つ知らないからです。生きている者が神から報いを受けることができるのに対して、死んだ者はもはや報いを受けることができないからです。
死んだ者にまつわる記憶も失われてしまい。死んだ者の愛も憎しみも妬みすらすでに消え去っている。ここでコヘレトは、愛と憎しみと妬みを、生きている者のあらゆる活動の動機づけと考えているようです。生きている者は愛や憎しみや妬みに駆られて、あらゆる活動を行う。しかし、死者からは、あらゆる活動の動機づけとなる愛も憎しみも妬みも消え去っているのです。コヘレトにとって、死者の世界は、活動が停止している世界であるのです。このことは、死んだ人のことを考えればよく分かります。死んでしまった人は、文字通り、あらゆる活動を停止しているからです。そのような死んだ者たちには、とこしえに受ける分がないのです。けれども、生きている者には、受ける分があるのです。
7節から10節までをお読みします。
さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。神はあなたの業をすでに受け入れてくださった。いつでも衣を純白に/頭に香油を絶やさないように。愛する妻と共に人生を見つめよ/空である人生のすべての日々を。それは、太陽の下、空であるすべての日々に/神があなたに与えたものである。それは、太陽の下でなされる労苦によって/あなたが人生で受ける分である。手の及ぶことはどのようなことでも力を尽くして行うがよい。あなたが行くことになる陰府には/業も道理も知識も知恵もない。
コヘレトは、3節で、「一つの運命がすべての人に臨む」、すべての人が必ず死ぬと言いました。そして、5節で、「生きている者は死ぬことを知っている」と言いました。このことは、生きている日々がかけがえのない貴重な日々であることを私たちに教えてくれます。私たちは、つらいことがあると「死んでしまいたい」と思うことがあります。しかし、私たちは「死にたくない」と思っても、必ず死ぬことになるのです。そのような私たちにコヘレトは、「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。神はあなたの業を既に受け入れてくださった」と言うのです。ここでの「あなたの業」は「太陽の下でなされる労苦」労働のことです。純白の衣も、頭に香油を塗ることも、喜びの表現です。コヘレトは、働くことによって報酬を得て、楽しく飲み食いし、喜ぶこと。そのような人生を愛する妻(配偶者)と共に見つめること。これこそ、束の間の人生に与えられている神の賜物、あなたが人生で受ける分であると言うのです。
コヘレトは、10節で、「手の及ぶことはどのようなことでも力を尽くして行うがよい」と言います。それは、死者の世界である陰府には業も道理も知識も知恵もないからです。イエス・キリストが来られた新約時代に生きる私たちは、死んだ後に、イエス・キリストがおられる天国に行くこと。天国において父なる神様とイエス・キリストを礼拝することを知っています。また、イエス・キリストが天から再び来られる日に、私たちは自分がイエス・キリストと同じ栄光の体で復活することを知っています。これこそ、私たちが「とこしえに受ける分」であるのです。しかし、コヘレトは、そのことを知らないわけです。コヘレトが思い描く死者の世界は、業も道理も知識も知恵もない、人間の活動が停止している世界であるのです。
イエス・キリストを信じる私たちは、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために死んでくださったこと。私たちを正しい者とするために復活してくださったことを知っています。そのことを知っているからこそ、私たちは地上の日々を楽しみ、喜ぶことができるのです。
コヘレトは、「愛する妻と共に人生を見つけよ/空である人生のすべての日々を」と言いました。しかし、使徒ペトロは、こう言っています。「夫たちよ、妻を自分よりも弱い器だとわきまえて共に生活し、命の恵みを受け継ぐ者として尊敬しなさい」(一ペトロ3:7)。妻と共に見つめるのは、この世の束の間の人生だけではないとペトロは言うのです。
人は必ず死にます。イエス・キリストを信じる人も、イエス・キリストを信じない人も、肉体の死を経験します。しかし、イエス・キリストを信じる人の死は罪の刑罰としての死ではなく、天国の入り口であるのです(ルカ24:43「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」参照)。イエス・キリストを信じる私たちは、死を通して天国に入ります。そして、イエス・キリストが天から再び来られる日に栄光の体で復活するのです。これこそ、生きている者に与えられている希望であるのです。そのような希望に支えられて、私たちは、今日という日に、神の御心に適う善を、力を尽くして行いたいと願います。