天に宝を積む(奨励題) 2023年11月19日(日曜 朝の礼拝)

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天に宝を積む(奨励題)

日付
説教
大澤長老(奨励者)
聖書
マルコによる福音書 10章17節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」マルコによる福音書 10章17節~27節

原稿のアイコンメッセージ

天に宝を積む  マルコによる福音書10:17-27

神の国について ― 子供の時から掟をみな守ってきたという人とイエス

 今回取り上げた箇所は、神の国が大きなテーマになっているところです。ペトロがイエスに「あなたはメシアです」と信仰を言い表してのち(8章27節以下)、弟子たちの関心が引き起こされ、主イエスも折に触れて神の国について教えておられました。このような経緯があって、イエスのもとに走り寄ってきたある人の話になります。

 「金持ちの男」という小見出しがつけられていますが、この福音書の著者マルコは、この人についてただ「ある人が・・・」とだけ紹介しています。「たくさんの財産を持っていた」という説明は、この記事の最後に至って、なぜ悲しんで立ち去ったのか、その理由として説明されています。「金持ちの男」であるということで、あらかじめ答えを得たように読みがちかと思いますが、この箇所の豊かさを味わうために、この人が言った言葉と、それに応じて答えられた主イエスの言葉を一つずつ吟味しながら読んでいくのがよいと思います。

1.「善い先生」

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17節)

イエス一行が旅立つところに「ある人が走り寄って」来たと記されています。この人はイエスと対面できる機会を逃すまいとして駆けつけてきたわけですが、もう少し深い別の理由があったようです。それは、彼の「善い先生」という呼びかけの言葉が示していることです。この言葉には、イエスとの会見に期待する思いが込められています。グレイアム・スイフトというマルコの福音書を注解している人は次のように言っています。「善い先生」という呼び方は、「きわめて珍しい呼び方であり、ラビに対するユダヤ人の呼びかけとしては全くの異例であった。たぶん、お世辞たっぷりのものだったのであろう。」*1 ユダヤの人々には、律法を説くユダヤ人教師に敬意を表す「ラビ」と言いう敬称がすでにあります。「ラビ」という呼びかけで十分敬意を表しているのです。「お世辞」を含んだこの言葉に主イエスの方は、単なるお世辞としては聞き過ごすことのできない意味を受けとめられています。呼びかけの言葉に続いて、この人の言った「永遠の命を受け継ぐには・・・」という問いかけを主は後回しにして、まずこの呼びかけについて受け答えられているからです。

 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(18節)

期待をもって走り寄ってきたこの人の出端がくじかれるようなイエスの言葉が返ってきます。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。」この人が「善い」という言葉にこめる意味に、主イエスは疑問を付しておられます。この人はイエスに期待を込めて「善い」と言ったのでしょうが、主イエスは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えられ、「善い」のは神ご自身のこととしています。私たちからすれば、イエスご自身も善い方のはずなのです。それで、神が善い方であるということについて考えてみます。

神が善い方である。このことを私たちとの関わりで言うなら、「善い」のは神の御心であると言えます。そのことは、創世記の天地創造の記事で知ることができます。神が七日の日を要して天地万物を創造され、七日目に創造のわざを完成されますが、六日目に、神は造られたすべてのものをご覧になり、「見よ、それは極めて良かった。」と表明されています(創世記1章31節)。神ご自身の御心が被造物に余すところなく反映されているのを確かめられまして「良かった」と言っておられるのです。なお付け加えれば、ここでの「よい」は「善い」ではなく「良い」という漢字が用いられています。英語の聖書では、マルコの福音書においても創世記においても「good」です。この創造記事においては、造られたすべてのものが神の御心が反映されていたのですが、ここでは被造物の状態について言っていますので、「良い」*2という漢字をもって表しているのだと考えられます。

この人が考えている「善い」は、神の御心とはちがうこの世の意味合いが含まれていたのでしょう。イエスは「神おひとりのほかは・・・」と言われて、この人の心を天の神ご自身に、神の御心に向かわせようとされています。

*1 C.E.グレイアム・スイフト  ウェード・ストリート・バプテスト教会牧師(ケープタウン)、『聖書註解』キリスト者学生会1966.

*2 日本では自然の事物や事象に神が宿るという宗教心が醸成される社会であるというのが、日本語の聖書の翻訳に配慮されているのではないかと思います。創造者なる神とその被造物である自然とを区別し、神と、そしてその御心については「善い」、造られたもの、またその状態については「良い」という漢字で区別していると考えられます。

2.そういうことはみな、子供の時から守ってきた

『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。(19-20節)

イエスは続けて掟を述べています。「善い」ということがどういうことなのか、この掟について神の御心は何であるのかをこの人に問いかけているのだと思います。ところが、これらの掟を彼はどれもみな守ってきたと答えています。アーロン・コール*3 という別の注解者は、この人について「間違いなく道徳的であった」としています。確かにユダヤ社会の常識からすればそう言えるでしょう。が、イエスが言われた掟をほんとうに理解して生活していたのかどうかは、「そういうことはみな、子供の時から守ってきた」と言ったこの人の言葉からそのまま受けとめることはできないように思います。イエスの問いかけに、「はい、私はこの掟をこのように理解しています。」とか、「この掟について、私はこうしています。」などと答えるのが、この問いに応じた返答です。しかし、この人はこの掟について理解していること、掟の内容や意味をどう受けとめているかには触れません。「そういうことはみな、子供の時から守ってきた」と言っているのです。普通の語順で言えば、「私はそれらすべてを子供の時から守ってきました。」となりますが、ここは、「そういうことを すべて 私は子供の時から守ってきた」という語順(日本語の翻訳も同じ)で言っています。「これらの掟はすべて」ということを強調して言っています。それは、これらすべてを怠りなく守って来た自分を主張する返答のように聞こえます。これらの掟はもうクリアできている、と。イエスの問いかけに、彼は自分で終止符を打とうとしているようです。サマリアの女の人のときのようには対話がかみ合いません。こうした論議は終わらせて、彼の期待するところ、イエスから別の言葉を待っているようです。

では、彼の意図は何だったのでしょうか。この人は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいか」とイエスに問いかけてはいます。しかし、「そういうことはみな・・・守ってきました」という答は、「何をすればよいか」と自分で問いかけた言葉を、うつろな言葉にしてしまっています。「善い先生」から「みな守ってきた」自分にお褒めの言葉をいただき、「永遠の命」の承認の言葉を期待しての問いかけだったように聞こえるのです。イエスが「善い」先生であるように、自分も「善い」者と考えていたのではないかと思います。イエスが「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えられた理由は、このことにあったのだと思います。

一方、主イエスは、「何をすればよいか」という彼の質問を正面から受けとめられました。イエスが「知っているはずだ」と述べられた掟は、十戒の後半、隣人に対する掟でした。主イエスはこれを要約して、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われています。イエスはこの掟において神の御心がどこにあり、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいか」、その答えに至るようにと問いかけられたのです。

この十戒に関して、別のところで、イエスと対話した律法学者の言葉が記されています(マルコ12章28-34節)。一人の律法学者が十戒について、次のように言っています。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』とうことは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」これに対しては、「あなたは、神の国から遠くない」とイエスは答えておられます。一方、この人は、「そういうことはみな守ってきた」と答えてはいますが、「隣人を自分のように愛する」という神の御心に関する点で欠けていたのではないか思います。イエスが十戒の後半の掟を持ち出されたのは、この人がほんとうの意味で「善い」こととは何なのかに気づき、隣人に対して「善い」こと、隣人に対して神の御心を行うことを求めたのです。

*3 アーロン コール  ムーア神学大学(シドニー)、トリニティ神学大学(シンガポール)旧約聖書講師、New Bible Commentary 21st-century edition, IVP 1944 

3.イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた

イエスは彼をみつめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)

彼は掟を「子供の時からみな守ってきた」と言っていますが、どのような意味で「守ってきた」のかはわかりません。が、あの律法学者が言ったことと関連させて考えると、焼き尽くす献げ物やいけにえをささげ、それで怠りなく掟を守ってきた、と言えるのかもしれません。それは、ユダヤ社会においては道徳的に、また宗教的にも欠けるところのない生活をしていた、ということになります。しかし、この人にとっての「善い」ことというのは、永遠の命を受け継ぐために怠りなくこの地上に積み上げるものであったと考えられます。この掟を守ることは、彼の功績として意味があったのです。それは地上にしか積み上げられない功績です。その意味で、彼にとっての「善い」ことは財産と同じと言えます。イエスは、彼が神の御心にかない、この掟が意味する「善い」ことに導かれるよう、「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言われています。

彼が「小さい時から守って来た」という掟は、図らずも彼が積み上げてきた過去のものとしての掟であることを言い表しています。ですから、イエスの「行って・・・」という勧めは、自分と同じように隣人を愛するという掟を、彼が生活し、そして隣人も生活している今、行うようにということを促しています。さらに、掟を守るのが神殿ではなく、貧しい人々のところに「行って」、そうして掟を守るということを促すものでもあります。彼のこれまでの人生において掟を欠けるところなく守ってきましたが、神の御心にかなう「善い」ことについては、彼の内で穴のようにぽっかり空いたままになっていたわけです。それで、「あなたに欠けているものが一つある。」と言われたのです。

この勧めは、「そうすれば、天に富を積むことになる。」とつけ加えられています。彼の思いを天の神に向け、本来の「善い」こと、すなわち彼にとっての神の御心は何なのか考えることを促す言葉であります。同時に、彼が囚われていたことから解き放つことになる勧めでもありました。彼が所有していた富とこの世にしか積み上げられない「善い」こと、この二つは、彼にとっては称賛されるべき功績でありましたが、しかし、その功績でもって永遠の命を受け継ぐことはできない、ということには思い至らなかったのです。この地上の功績に囚われているところから解き放ち、この人の思いが神の御心を知ることにおいて豊かになるように勧める言葉でありました。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょう。」という彼の問いに、イエスは、さらに「それから、私に従いなさい。」という言葉を加えています。彼が「善い先生」と呼びかけたイエスが誰なのか、神の御心のあらわれであるイエスご自身を彼がほんとうに知るようになることを望んで言われた言葉です。イエスご自身次のように言われています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

4 永遠の命を受け継ぐということは

その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(22~27節)

この人が「気を落とし、悲しみながら立ち去った」とあります。「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」というイエスの言葉が、直接の理由でしたが、自分の目論見を達成することができなかったということも表しています。自分は永遠の命を受け継ぐことができると思い、その承認を得ようというのが、おそらく彼の目論見でした。ここで、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われ」ていたことに注意しておきたいと思います。彼が伏せた顔を挙げてイエスを見るなら、イエスが彼に注がれていた慈しみに(この時すぐにではなかったにしても)気づくことができたかもしれません。

この人がイエスのもとを去った後、神の国について、イエスと弟子たちとの対話が記されています。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と、イエスは弟子たちに話しておられます。このことから、この箇所の小見出しが「金持ちの男」とつけられたのだと思います。しかし、神の国について、富める者と貧しい者との比較で終わらせてしまってはならないように思います。ユダヤ社会では、ヨブ記にあるように、神がその人の手の業を祝福された結果多くの財産を所有している、と考えられています。土地や家畜、使用人など多くの財産を所有していることは、神に祝福されているしるしでした。財産を持っている、すなわち神に祝福されていると考えられている人が神の国に入るよりも、「らくだが針の穴を通る方が易しい」とイエスが言われたので、「弟子たちは、ますます驚い」て、「それでは、だれが救われるのだろうか」と、言っているわけです。それは神に祝福されていると考えられている富める者であれ、そうでない貧しい者であれ、自分が地上で積み上げた功績をもってしては、神の国に入る道は開かれないのです。神の国、すなわち永遠の命に至るのは、神が招き入れてくださることによるのだ、ということを「人間にはできることではないが、神にはできる。」(27節)という言葉で教えておられます。

この男の人は、『善い』先生と考えたイエスから、自分に積み上げた『善い』ことによって神の国にふさわしい者であるということを承認してもらえるにちがいないと期待していました。しかし、隣人を自分のように愛すること、すなわち神の御心について思いを至らせることには欠けていました。主イエスはこのような人にも慈しみをもって対応されました。この主イエスの慈しみを私たちも心に留めながら、天に宝を積むということが、では私にとって何なのか、どうすることなのかを考えて、父なる神と御子主イエスを知っていく歩みとなるようにと願っています。

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