神を畏れる幸せ 2023年12月10日(日曜 夕方の礼拝)
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神を畏れる幸せ
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 8章10節~17節
聖書の言葉
8:10 そして、悪しき者たちが葬られるのを私は見た。彼らは聖なる場所に出入りしていたが、あのように振る舞っていたことは町で忘れ去られている。これもまた空である。
8:11 悪事に対して判決が速やかに下されないため/人の子らの心は悪をなそうという思いに満ちる。
8:12 百度も悪を重ねながら/生き長らえる罪人がいる。/しかし、私は知っている/神を畏れる人々には/神を畏れるからこそ幸せがあると。
8:13 悪しき者には/神を畏れることがないゆえに幸せはない。/その人生は影のようで、生き長らえることがない。
8:14 地上に起こる空なることがある。/悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け/正しき者にふさわしい報いを悪しき者が受ける。/私は、これも空であると言おう。
8:15 そこで、私は喜びをたたえる。/太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに/人に幸せはない。/これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に/伴うものである。
8:16 私は知恵を知るために心を尽くし、地上でなされる人の務めを見ようとした。昼も夜も、見極めようとして目には眠りがなかった。
8:17 私は神のすべての業を見た。太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない。人が探し求めようと労苦しても、見極めることはできない。たとえ知恵ある者が知っていると言っても、彼も見極めることはできない。
コヘレトの言葉 8章10節~17節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第8章10節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。お配りした「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。
10節から14節までをお読みします。
そして、悪しき者たちが葬られるのを見た。彼らは聖なる場所に出入りしていたが、あのように振る舞っていたことは町で忘れられている。これもまた空である。悪事に対して判決が速やかに下されないため/人の子らの心は悪をなそうという思いに満ちる。百度も悪を重ねながら/生き長らえる罪人がいる。しかし、私は知っている/神を畏れる人々には/神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には/神を畏れることがないゆえに幸せはない。その人生は影のようで、生き長らえることがない。地上に起こる空なることがある。悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け/正しき者にふさわしい報いを悪しき者が受ける。私は、これも空であると言おう。
知恵の教師であるコヘレトは、10節で、悪しき者が、神を畏れる正しい者であるかのように葬られたことを嘆いています。「聖なる場所」とは「神殿」のことであり、「あのような振る舞い」とは「悪しき振る舞い」のことです。悪しき者は神殿に出入りしており、町の人は彼らの悪しき振る舞いを忘れて正しい者であるかのように葬った。それを見て、コヘレトは、「これもまた空である」と言うのです。悪しき者が神を畏れる正しい者であるかのように葬られる。その一つの理由は、悪事に対して判決が速やかに下されないからです。11節に、「悪事に対して判決が速やかに下されない」とありますが、ここでの主語は、裁きを執り行う人間であり、さらに言えば、神であります。と言いますのも、イスラエルにおいて、裁判は神に属することであるからです(申命1:17参照)。今夕の御言葉で、コヘレトが問題にしているのは、伝統的な知恵である応報思想です。応報思想とは、良い事をすれば良い報いを受け、悪い事をすれば悪い報いを受けるという考え方です。イスラエルの社会において、神の掟に背く悪い事をすれば、裁かれて、ふさわしい罰を受けることになります。しかし、その判決が速やかに下されない。悪しき者は、金持ちで、賄賂を使ったのかも知れません。そうすると、そのことを見ている人たちの心は悪をなそうという思いに満ちると言うのです。悪い事をしても、罰を受けないのであれば、人々は自分も悪い事をしようと思うようになるのです。
良い事をすれば良い報いを受け、悪い事をすれば悪い報いを受けるという応報思想には、例外があることを、コヘレトは12節で記します。生き長らえること、長生きは、神からの祝福であると考えられていました。しかし、コヘレトは、「百度も悪を重ねながら/生き長らえる罪人がいる」と言うのです。この罪人に対する神の裁きは速やかに実行されていないわけです。では、コヘレトは、悪を行うことを勧めるかと言えば、そうではありません。コヘレトはこう言います。「しかし、私は知っている/神を畏れる人々には/神を畏れるからこそ幸せがあると」。このコヘレトの言葉は、知恵の教師にふさわしい至言(いかにも事実・真理にかなっていると思われる言葉)であると思います。「神を畏れる」とは「神を信じる」と言い換えることができます。神を畏れる、神を信じることは、人間がなすべき最も良いことです。神が遣わされたイエス・キリストを信じること。それは、人間がなすべき最も良いことです。しかし、イエス・キリストを信じたからといって、この世において、必ずしも良い報いがあるわけではありません。むしろ、イエス・キリストを信じたことによって、悪口を言われ、苦しみを受けることになるのです(二テモテ3:12「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」参照)。では、私たちは、イエス・キリストを信じることをやめてしまった方がよいのかと言えば、そんなことはありません。神を畏れる人々には、神を畏れるからこそ幸せがあるからです。イエス・キリストを信じる私たちにとって、イエス・キリストを信じていること自体が幸せであるのです。このことは、イエス様がペトロに言われたことでもあります。聖書を開いて確認しましょう。新約の31ページです(新共同訳)。『マタイによる福音書』の第16章13節から19節までをお読みします。
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
ここには、ペトロの信仰告白が記されています。ペトロは、弟子たちを代表して、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。すると、イエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたのです。イエス様を「メシア、生ける神の子」と信じることは、イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただけるほどに、幸せなことであるのです。その幸せの源は、私たち自身にあるのではなく、そのことを示してくださった父なる神にあるのです。私たちが持っている神を畏れる心、イエス・キリストを信じる心は、父なる神の霊、聖霊によって与えられたものであるのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる幸いは、揺らぐことのない絶対的な幸いであるのです。イエス・キリストを信じて、すべての罪を赦されて、「父なる神様」に親しく祈ることができる。そのような幸いを、私たちは恵みとして与えられているのです。
今夕の御言葉に戻りましょう。旧約の1044ページです(新共同訳)。
「神を畏れる人々には、神を畏れるからこそ幸せがある」と知っているコヘレトは、「悪しき者には、神を畏れることがないゆえに幸せはない。その人生は影のようで、生き長らえることはない」と言います。神を畏れることなくして、幸せを得ることはできないのです。悪しき者の人生は影のようで、生き長らえることはない。これこそ、伝統的な知恵である応報思想です。しかし、地上に起こっていることを見るとき、応報思想が破綻しているかのように見えるわけです。地上において、悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け、正しき者にふさわしい報いを悪しき者が受けている。それゆえ、コヘレトは「空である」と言うのです。伝統的な知恵である応報思想によれば、正しい者は生き長らえ、悪しき者は生き長らえることができないはずです。しかし、地上においては、正しい者が生き長らえることができずに、悪しき者が生き長らえているのです。そのような地上において、コヘレトは、「私は喜びをたたえる」と言います。
15節をお読みします。
そこで、私は喜びをたたえる。太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに/人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである。
ここには、コヘレトの幸福論が記されています(2:24,25、3:12,13、5:17,18参照)。応報思想が破綻している地上において、食べ、飲み、楽しむことこそ、人間の喜びであるのです。このような喜びこそ、神が人生の日々の労苦に伴って与えてくださる賜物であるのです。私たちは、神が日々の労苦に伴って与えてくださっている楽しみを、感謝して楽しみたいと思います(たとえば「仕事の後の一杯はおいしい」など)。
16節と17節をお読みします。
私は知恵を知るために心を尽くし、地上でなされる人の務めを見ようとした。昼も夜も、見極めようとして目には眠りがなかった。私は神のすべての業を見た。太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない。人が探し求めようと労苦しても、見極めることはできない。たとえ知恵ある者が知っていると言っても、彼も見極めることはできない。
ここで注意したいことは、「人の務め」が「神のすべての業」に含まれているということです。地上でなされる人の務めは、神と無関係に行われているのではありません。地上でなされる人の務めは、神のすべての業に含まれているのです(摂理の協働の教理)。それゆえ、コヘレトは、「太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない」と言うのです。被造物である人間にとって、創造主である神の業を見極めることはできないのです(有限は無限を容れない)。そのような私たちにとって、大切なことは、創造主である神の善意(善い意志)を信じることです。神は、御自分の善意を、御子イエス・キリストにおいて示してくださいました。『ヘブライ人への手紙』の第1章1節と2節にこう記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。また、『ヨハネによる福音書』の第1章18節にこう記されています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。父なる神は、ご自分の善意を、私たちへの愛を、御子イエス・キリストによって示してくださいました。それゆえ、私たちは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と確信をもって言うことができるのです(ローマ8:28)。
私たちはイエス・キリストを知ることによって、神を知る者となりました。もちろん、私たちは神を知り尽くすことはできません。神が示してくださった範囲内で知ることができるのです。そして、その中に、イエス・キリストの再臨と裁きがあるのです。この地上では、応報思想が破綻しているように見えます。しかし、正しい者が正しい者にふさわしい報いを受け、悪しき者が悪しき者にふさわしい報いを受けるときが必ず来るのです(コヘレト12:14「神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう」参照)。それが、イエス・キリストの裁き、いわゆる最後の審判のときであるのです。死後の裁きを教える、いわゆる黙示思想は、応報思想の貫徹(貫き通すこと)であると言えるのです。イエス・キリストが天から再び来られるとき、イエス・キリストをメシア、生ける神の子と信じる私たちは、公に正しい者と宣言され、新しい天と新しい地に住むことになります。そこにはもはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もありません。神が人と共に住み、私たちの目の涙を拭ってくださるのです。そのとき、私たちは、「神を畏れる人々には、神を畏れるからこそ幸せがある」というコヘレトの言葉が真実であったことを、身をもって知ることになるのです。