祝福の子として歩む 2023年12月03日(日曜 朝の礼拝)

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祝福の子として歩む

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 2章10節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:10 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。
2:11 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。
2:12 この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。
2:13 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。
2:14 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。
2:15 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、
2:16 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。ペトロの手紙二 2章10節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、説教していて思ったのですが、『ペトロの手紙二』を「聖書協会共同訳」で読み、他の聖書箇所を「新共同訳」で読むと話しづらいし、皆さんも聞きづらいのではないかと思いました。それで今朝は「新共同訳」に基づいてお話ししたいと思います。

 今朝は、最初に前回の振り返りをしたいと思います。第2章には「偽教師についての警告」が記されています。この手紙の宛先である小アジアの教会は、偽教師たちによって惑わされていました。偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨と裁きを否定していました(1:16参照)。そのようにして、彼らは、自分たちを贖ってくださった主イエス・キリストを否定していたのです(2:1参照)。偽教師たちは、終わりの日の裁きを否定して、欲望のままに振る舞っていました。しかし、ペトロは、このような者たちに対する神の裁きが、昔から滞りなく行われていると言います。ペトロは、罪を犯した天使たちについて、ノアの時代の大洪水について、ソドムとゴモラの滅亡について語ることによって、神様が偽教師たちを必ず滅ぼされると言うのです。しかし、そこで心に留めたいことは、神の裁きは、敬虔な人々を救い出すという面もあるということです。ペトロは9節で言います。「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます」。神の裁きは、義を説いていたノアたち八人と正しい人ロトを救い出されたように、敬虔な人々にとって試練からの救いという面があるのです。主イエス・キリストの再臨と裁きは、主イエス・キリストを贖い主として信じる私たちにとって、苦しみや悩みからの解放であり、救いの完成であるのです。それゆえ、主イエス・キリストの再臨と裁きは、私たちにとっての希望であるのです。ここまでは、前回の振り返りです。

 今朝は、その続きである第2章10節後半から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 10節後半から12節までをお読みします。

彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。

 ここで、ペトロは、偽教師たちがどのような者たちであるかを記しています。偽教師たちは、厚かましくわがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。偽教師たちは、他人のことを考えないで、自分のしたいように振る舞う自己中心的な者たちであるのです。偽教師たちは、栄光ある者たち、天使たちを悪く言って、非難していました。なぜ、偽教師たちは天使たちをそしるのでしょうか。一つの可能性は、神の戒めである律法が天使たちの手を通して与えられたからです(使徒7:53、ガラテヤ3:19参照)。偽預言者たちは、律法からの自由を説いて、欲望のままに振る舞っていました。それゆえ、彼らは律法をもたらした天使たちをも悪く言って、非難していたのです。これに対し、天使たちは、権威にも力にもまさっているのに、主イエス・キリストの前で、偽教師たちを訴えそしることはしません。それは、天使たちが、主イエス・キリストの再臨と裁きを信じているからです。天使たちは、終わりの日の裁きを信じているので、彼らを訴えそしることをしないのです(ローマ12:19参照)。

 偽教師たちは、捕らえられ、滅ぼされるために生まれて来た理性のない動物と同じで自分が知りもしないことをそしっています。欲望のままに振る舞う偽教師たちは、理性のない動物と同じであり、彼らは知りもしないことを悪く言っているのです。理性のない動物が滅ぼされるように、知らないことをそしっている偽教師たちも滅ぼされてしまうのです。

 13節から16節までをお読みします。

 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。

 13節に、「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます」とあります。これは裁きの基準である応報思想です。応報思想とは、「良いことをすれば良い報いを受ける。悪いことをすれば悪い報いを受ける」という考え方です。神様はおのおのの行いに従ってお報いになるのです(ローマ2:6~8参照)。偽教師たちは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしていました。また、偽教師たちは、小アジアのキリスト者たちと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎました。その目は姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねていたのです。ここでの宴席は、教会での食事会であったようです。その教会での食事会で、偽教師たちははめを外して騒ぎ、姦通の相手を求め、罪を重ねていたのです。偽教師たちは、心の定まらない人々を誘惑する呪いの子であるのです。「呪いの子」とは、「呪いを受けるべき者」という意味です。自分たちを贖ってくださった主イエス・キリストを否定する彼らは、自らの不義の報いを受ける呪いの子であるのです。偽教師たちは、正しい道を離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどりました。ボソルの子バラムについては、『民数記』の第22章から第24章に記されています。そこには、モアブの王バラクが、バラムを招いて、イスラエルの民に呪いをかけようとしたことが記されています。結局、バラムは、主の御言葉に従って、イスラエルを三度祝福します。バラクはイスラエルに呪いをかけるためにバラムを招いたのですが、バラムはイスラエルを祝福するのです。このように、バラムは主の御言葉を忠実に語ったのですが、ペトロによれば、最初はそうではなかったようです。ペトロの解釈によれば、ボソルの子バラムは不義の儲けを愛して、イスラエルに呪いをかけようとしていました(民数22:7「占いの礼物」参照)。しかし、主はその過ちをとがめるために、ろばの口を用いられたのです。ものを言わないろばが人間の声でものを言い、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。このところは、聖書を開いて読みたいと思います。『民数記』の第22章22節から35節までをお読みします。旧約の252ページです。

 ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはろばに乗り、二人の若者を従えていた。主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。主の御使いは、ぶどう畑の狭い道に立っていた。道の両側には石垣があった。ろばは主の御使いを見て、石垣に体を押しつけたので、バラムはまた、ろばを打った。主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがった。ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」彼は言った。「いや、なかった。」

 主はこのとき、バラムの目を開かれた。彼は主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した。主の御使いは言った。「なぜ、このろばを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来たのだ。このろばはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう。」バラムは主の御使いに言った。「わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」主の御使いはバラムに言った。「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」バラムはバラクの長たちと共に行った。

 ペトロの解釈によると、不義の儲けを愛していたバラムが、主が告げることだけを告げることができたのは、ろばが人間の言葉でものを言う出来事のゆえでありました。主は、抜き身の剣を手にする御使いを通して、預言者であるバラムに、「ただわたしがあなたに告げることだけを告げるように」と警告されました。このような警告を受けていたからこそ、バラムは、イスラエルに呪いをかけることなく、イスラエルを三度祝福したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の438ページです。

 ペトロは、偽教師たちが、「ボソルの子バラムが歩んだ道をたどった」と言いました。しかし、偽教師たちは、バラムよりも悪い者です。バラムはろばの声を聞いて、主に従う者となりました。しかし偽教師たちは、使徒ペトロの声を聞いても、主に背いているのです。

 神様は、今も、使徒ペトロの言葉を通して、御自分の民に語りかけておられます。ペトロは、第1章21節で、聖書の預言について次のように記していました。「預言は決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」。聖書は、神の霊に導かれた人々が記した神の言葉であるのです。神様は、今日も、聖書の御言葉とその解き明かしである説教を用いて、私たちに語りかけておられます。神様は、私たちが偽教師たちのようにならないように警告しているのです。偽教師たちは私たちにとっての反面教師であるのです。そのことを踏まえて、二つのことをお話ししたいと思います。一つは、イエス・キリストを救われた後も、律法は有効であるということです。使徒パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』で記しているように、イエス・キリストを信じる私たちは、律法を守って正しい者とされるといった掟の世界から解放されています。では、律法は私たちにとって何の意味もないかと言えば、そうではありません。律法は、救われた者の感謝の生活の指針として意味をもっているのです。イエス・キリストを信じる私たちは、律法を守って救われるのではありません。しかし、イエス・キリストによって救われた者として、感謝と喜びをもって律法を守ることが命じられているのです。その律法とは、十戒に代表される道徳律法であり、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの律法であるのです(ガラテヤ5:14、6:2参照)。それゆえ、私たちは、律法を持たないかのように、欲望のままに振る舞ってはならないのです。偽教師たちは、道徳律法をも廃棄して、天使たちをそしり、欲望のままに振る舞っていました。偽教師たちは律法に対して間違った考えを持っていたのです。

 二つ目にお話ししたいことは、イエス・キリストを信じる私たちは祝福の子であるということです。このことも使徒パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』に記していることです。イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって律法の呪いの死を死んでくださいました。イエス・キリストの十字架の死は、私たちの身代わりとしての呪いの死であったのです(ガラテヤ3:13参照)。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは祝福の子、神に祝福されている神の子たちであるのです。それは私たちが生活のすべての面で聖なる者となるためであるのです。私たちは放縦な生活を送るためにではなく、聖なる生活を送るために救われたのです。ですから、もし私たちが欲望に従って不義を行うならば、それは自分たちを贖ってくださった主イエス・キリストを否定することであり、自らを呪いの子としてしまうことであるのです。

 今朝は、最後に、一通目の手紙、『ペトロの手紙一』の第1章13節から16節までをお読みします。新約の429ページです。

 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 私たちは、偽教師たちの間違った教えではなく、使徒ペトロの正しい教えに聞き従って歩んで行きたいと願います。

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