キリストの威光の目撃者 2023年11月12日(日曜 朝の礼拝)

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キリストの威光の目撃者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 1章16節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:16 私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。
1:17 イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」
1:18 私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。
1:19 こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。
1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
1:21 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。
ペトロの手紙二 1章16節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ペトロの手紙二』の第1章16節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。お配りした「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。

 16節の前半をお読みします。

 私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。

 イエス・キリストの使徒であり、僕であるペトロは、主イエス・キリストの力と来臨を、小アジアのキリスト者たちに宣べ伝えました。このことは、主イエス・キリストが御自分の使徒たちに命じられたことでありました。『使徒言行録』の第10章に、ペトロがローマの百人隊長コルネリウスの家で、福音を告げ知らせたことが記されています。その一部を読みたいと思います。新共同訳聖書でお読みします。新約の233ページです。第10章34節から43節までをお読みします。

 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主です―平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 このような福音(良き知らせ)を、ペトロは、小アジアでも宣べ伝えたのだと思います。ここで注意したいのは42節の御言葉です。「イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」。このイエス・キリストのご命令に従って、ペトロは、イエス・キリストが生きている者と死んだ者とを裁く御方として、天から再び来られることを宣べ伝え、力強く証ししたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の437ページです(新共同訳)。

 ペトロが、「主イエス・キリストの力と来臨」について語るとき、この「来臨」(パルーシア)は、十字架の死から復活されたイエス・キリストが栄光の主として生きている者と死んだ者とを裁くために、天から再び来られる「再臨」のことです。第2章に、「偽教師についての警告」が記されていますが、偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨を、巧みな作り話だと言って、否定していたようです。そのような偽教師たちのことを念頭において、ペトロは、「私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨(再臨)をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません」と言うのです。そして、その証拠として、自分たちが目撃した出来事を記すのです。

 16節の後半から18節までをお読みします。

 この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者」。私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。

 ここでペトロが語っていることは、『マルコによる福音書』の第9章に記されている「山上の変貌」の出来事です。聖書を開いて確認しましょう。新共同訳聖書でお読みします。新約の77ページです。第8章34節から第9章9節までをお読みします。文脈としては、ペトロの信仰告白を受けて、イエス様が御自分の死と復活を予告された続きとなります。

 それから、群衆と弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

 山の上で、イエス様の姿が変えられるという出来事の六日前に、イエス様は、御自分の再臨について語っておられました。第8章38節にあるように、イエス様は、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来ること、再臨についてお語りになりました。そして、ペトロの理解によれば、その六日後に起こった、山の上での出来事は、イエス様が栄光の人の子として再び来られることの先取りであり、その保証であるのです。イエス様が栄光の姿へと変えられ、その服が白く輝いたことは、イエス様が父なる神から誉れと栄光を受けられたことを示しています。そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という神の声は、イエス様が神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを示しているのです(創22:2、詩2:7、イザヤ42:1参照)。このことは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、天からの声によって示されたことでありました。イエス様は、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になりました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたのです(マルコ1:11)。このようにして、イエス様は、父なる神から油を注がれて、イスラエルのメシア、王として就任されたのです。ですから、イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え始められたのです(1:15参照)。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたのは、イエス様だけでした。しかし、そのことが、山の上で、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声によって、ペトロたちにも示されたのです。そのようにして、父なる神は、イエス様が十字架の死から栄光の姿で復活させられ、生きている者と死んだ者とを裁かれる御方として再び来られることを前もって示されたのです。そして、そのことの意味を本当に理解することができるのは、イエス様が死者の中から復活されて、御自分の聖霊を弟子たちに与えてくださった後のことであるのです。ですから、イエス様は、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」とペトロたちに命じられたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の437ページです(新共同訳)。

 19節をお読みします。

 こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯火として、この言葉を心に留めておきなさい。

 イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたのを目撃して、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という神の声を聞いたペトロたちにとって、預言の言葉はより確かなものとなりました。同じことが、ペトロたちの証言を受け入れている私たちにも言えます。山の上で、イエスが父なる神から誉れと栄光をお受けになり、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声が聞こえたことを信じる私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っているのです。ここでの「預言の言葉」は、旧約聖書全体を指すとも言えますが、特に、イエス・キリストの再臨を預言する御言葉のことです。例えば、『ダニエル書』の第7章に、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」(神)から、権威、威光、王権を受けたこと。そして、諸国、諸族、諸言語の民は皆、人の子に仕え、彼の支配はとこしえに続くことが預言されています。この「人の子」こそ、イエス・キリストであります(マルコ14:62参照)。イエス・キリストは、『ダニエル書』の第7章に預言されている「栄光の人の子」として、雲に乗って天から来られるのです。そして、そのことは、ペトロたちの目撃証言を信じる私たちにとって、より確かなことであるのです(山上の変貌は、イエス・キリストの再臨の先取りであり、保証であるから)。それゆえ、ペトロは、「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝く灯火として、この言葉を心に留めておきなさい」というのです。私たちが生きている世界は罪と悲惨に満ちた暗い夜(よる)のような世界です。しかし、その暗い夜(よる)が明ける時が来ます。それが、明けの明星であるイエス・キリストが、天から再び来られる時です。イエス・キリストは、稲妻が東から西へとひらめき渡るように、誰の目にも明かな仕方で、天から再び来てくださるのです(マタイ24:27参照)。しかし、ペトロは、そのことを「心の中に昇るときまで」と実存的に記します。明けの明星であるイエス・キリストは、この世界だけではなく、私たち一人一人の心の中をも照らしてくださるのです。そのときまで、私たちは暗い所に輝く灯火として、この言葉を心に留めておく必要があるのです。

 20節と21節をお読みします。

 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。

 小アジアの教会を惑わせていた偽教師たちは、預言の言葉を自分勝手に解釈していたようです。それで、ペトロは、小アジアのキリスト者たちに、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」と言うのです。聖書の預言には、ふさわしい解釈の仕方があるのですね(ルイス・ベルコフの『聖書解釈の原理』によれば、聖書は、文法的に(グラマティカル)、歴史的に(ヒストリカル)、神学的に(セオロジカル)解釈しなければならない)。それはひと言で言えば、聖霊に導かれて解釈するということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです(二テモテ3:16も参照)。それゆえ、預言の言葉は、人間が記した言葉でありながら、神の言葉であると言えるのです(いわゆる有機的霊感)。ここでの「聖書の預言」は、厳密に言えば、旧約聖書の預言です。しかし、同じことが新約聖書の預言においても当てはまります。旧約の『ダニエル書』は、人の子のような者が日の老いたる者(神)から権威、威光、王権を受けること。諸国、諸族、諸言語の民が皆、人の子に仕えることを預言しました。そして、新約の『ヨハネの黙示録』は、その人の子がイエス・キリストであること。イエス・キリストが全世界とその歴史を裁き、悪魔とその手下たちを燃える硫黄の池に投げ込まれること。そして、新しい天と新しい地が到来することを預言しています。その預言は、神からの言葉であるゆえに、必ずそのとおりになるのです。そのような確信を、私たちは聖霊によって与えられているのです(一コリント2:12参照)。

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