尊く大いなる約束 2023年11月05日(日曜 朝の礼拝)

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尊く大いなる約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 1章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 イエス・キリストの僕であり使徒であるシメオン・ペトロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
1:2 神と私たちの主イエスとを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。
1:3 主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。
1:4 この栄光と力ある顕現によって、私たちには尊く大いなる約束が与えられています。それは、あなたがたがこの約束によって、世の欲にまみれた腐敗を免れ、神の本性にあずかる者となるためです。
1:5 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、怠惰な者、実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
1:9 これらを備えていない者は、目が塞がれ、近くのものしか見えず、自分が以前の罪から清められたことを忘れているのです。
1:10 ですから、きょうだいたち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするようにいっそう努めなさい。これらのことを行っているなら、決して過ちを犯すことはありません。
1:11 こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです。
1:12 それゆえ、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、授かった真理に基づいて生活していますが、私はいつも、これらのことをあなたがたに思い起こさせたいのです。
1:13 私は、自分がこの体を仮の宿としている間、これらのことを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせようと考えています。
1:14 それは、私たちの主イエス・キリストが私に示されたように、私がこの仮の宿を離れる時が間もなく訪れることを知っているからです。
1:15 自分が世を去った後もあなたがたがこれらのことをいつも思い起こせるように、私は努めましょう。
ペトロの手紙二 1章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝から『ペトロの手紙二』を御一緒に学びたいと思います。私が『ペトロの手紙二』から説教するときは、お配りした「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。

 1節と2節をお読みします。

 イエス・キリストの僕であり使徒であるシメオン・ペトロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神と私たちの主イエスとを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。

 ここには、この手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。差出人は、「イエス・キリストの僕であり使徒であるシメオン・ペトロ」であります。また、受取人は「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた人たち」であります。ここには、地名が記されていません。しかし、第3章1節を見ると、「愛する人たち、今私は、あなたがたにこの第二の手紙を書いています」とありますので、この手紙も、第一の手紙と同じ小アジアのキリスト者たちに宛てて記されたようです(一ペトロ1:1「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」参照)。ペトロは契約の民であるユダヤ人であり、小アジアのキリスト者たちはユダヤ人ではない異邦人でした。しかし、ペトロと小アジアのキリスト者たちとの間に、何の違いもありません。ユダヤ人であるペトロたちも、また、異邦人である小アジアのキリスト者たちも、同じ尊い信仰を受けたのです。イエス・キリストの僕であり使徒であるペトロの信仰は、他の人の信仰よりも価値があるのではありません。ペトロの信仰も、小アジアのキリスト者たちの信仰も、そして、私たちの信仰も同じ価値を持つ尊い信仰であるのです。なぜなら、その信仰は、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって与えられたからです。私たちは神であり救い主であるイエス・キリストの義(正しさ)によって、同じ尊い信仰を恵みとして受けたのです。

 2節は挨拶の言葉ですが、ここでペトロは、「神と私たちの主イエスとを知ることによって」と記します。「知る」という言葉は、この手紙の1つの鍵語(キーワード)です。第二章に、「偽教師についての警告」が記されていますが、ペトロは、小アジアのキリスト者たちが偽教師たちに惑わされないように、神と私たちの主イエスを深く知るようにと、この手紙を書き送ったのです。私たちが神と主イエス・キリストの恵みと平和に豊かにあずかるには、私たちが神と主イエス・キリストを深く知る必要があるのです。

 3節と4節をお読みします。

 主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。この栄光と力ある顕現によって、私たちには尊く大いなる約束が与えられています。それは、あなたがたがこの約束によって、世の欲にまみれた腐敗を免れ、神の本性にあずかる者となるためです。

 ここでペトロは、主イエスが私たちにしてくださったことを記します。「主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました」。「敬虔」とありますが、新共同訳では「信心」と訳していました。ちなみに、敬虔とは「うやまいつつしんで神に仕えること」を意味します。主イエスは、ご自身の神の力によって、命と敬虔とにかかわるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちが主イエス・キリストを知ることによるのです。「私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方」とありますが、これは主イエス・キリストのことです。「顕現」とありますが、新共同訳では「業」と訳していました。ちなみに、顕現とは「はっきりとした姿・形をとって現れること」を意味します。主イエス・キリストは、栄光と力ある顕現によって、御自分をはっきりと現してくださり、私たちを弟子として招いてくださったのです。主イエスの栄光と力ある顕現の最たるものは、十字架の死と復活であります。主イエスは、十字架の死と復活によって、私たちに尊く大いなる約束を与えてくださったのです。この「尊く大いなる約束」については、11節に記されています。「こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです」。主イエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光の体で復活された。この栄光と力ある顕現によって、私たちも主イエス・キリストと同じように栄光の体で復活して、主イエス・キリストの永遠の御国(王国)に入ることができるという約束が与えられたのです(イエス・キリストの復活、昇天、着座は、私たちの初穂であるから)。ペトロは、この約束が私たちに与えられた目的を次のように記します。「それは、あなたがたがこの約束によって、世の欲にまみれた腐敗を免れ、神の本性にあずかる者となるためです」。私たちには、主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国(王国)に入ることができるという約束が与えられています。それは、私たちがこの地上において、主イエス・キリストに倣う者となり、神の本性にあずかる者となるためであるのです。私たちが、尊く大いなる約束の実現を待ち望んで歩むならば、私たちの地上の歩みが変わってくるのです。すなわち、世の欲にまみれた腐敗を免れて、主イエス・キリストに倣うことにより、神の本性にあずかる者となるのです(一ヨハネ2:6、3:2,3参照)。

 5節から8節までをお読みします。

 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、怠惰な者、実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

 神の本性にあずかるには、どうしたらよいのか。ペトロは、「あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と言います。ここで「信仰」から始まり、「愛」で終わっていることに注意したいと思います。ここでの愛は、神の無償の愛、アガペーであります。イエス・キリストを信じた私たちは、永遠の御国に入るという希望に支えられて、神の愛を目指して成長していくのです(一コリント13:13参照)。ペトロは、「これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう」と言います。このことから、ペトロが主イエス・キリストを知ることを単なる知識の問題とは考えていないことが分かります。主イエス・キリストを知るようになるには、私たち自身も主イエス・キリストに似た者となる必要があるのです。私たちが信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えて、神の御子イエス・キリストに似た者となることは聖霊なる神の御業であります。しかし、聖霊なる神は私たちの努力を有効に用いられるのです。ですから、ペトロは、「あなたがたは力を尽くして」と言っているのです。私たちは、世の欲にまみれた腐敗にどっぷり浸かっていては、主イエス・キリストを知ることはできません。主イエス・キリストに倣って、力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えて歩むときに、私たちの主イエス・キリストを知るようになるのです。主イエス・キリストを交わりの中で、人格的に知るようになるのです。

 9節から11節までをお読みします。

 これらを備えていない者は、目が塞がれ、近くのものしか見えず、自分が以前の罪から清められたことを忘れているのです。ですから、きょうだいたち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするようにいっそう努めなさい。これらのことを行っているなら、決して過ちを犯すことはありません。こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです。

 小アジアの教会には、偽教師たちに惑わされて、世の欲にまみれた腐敗にどっぷり浸かっている者たちがいました(2:2参照)。そのような者たちを念頭に置いて、ペトロはこう言います。「これらを備えていない者は、目が塞がれ、近くのものしか見えず、自分が以前の罪から清められたことを忘れているのです」。世の欲にまみれた腐敗にどっぷり浸かっている者も主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けました。彼らの罪は、主イエス・キリストの十字架の血潮によって清められたのです。しかし、彼らはそのことを忘れてしまって、再び罪を犯して歩んでいたのです。そのようなことがないように、ペトロは、「きょうだいたち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするようにいっそう努めなさい」と言うのです。「きょうだいたち」と平仮名で記されていますが、これは「兄弟姉妹たち」という意味です。ここでペトロが言っていることは、「救いの確信」のことです(『ウェストミンスター信仰告白』第18章「恵みと救いの確信について」参照)。私たちは、「自分は本当にイエス・キリストから召されているのだろうか。自分は本当にイエス・キリストから選ばれているのだろうか」と不安になることがあります。もし、私たちが世の欲にまみれた腐敗にどっぷりと浸かって、罪を犯しているならば、「自分は本当にイエス・キリストから召されているのだろうか」と不安になっても当然なことです。しかし、私たちが世の欲にまみれた腐敗を免れて、イエス・キリストに似た者になろうと努めているならば、私たちは自分がイエス・キリストから召されていること、イエス・キリストに選ばれていることを確信することができるのです。私たちが力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えて、これらを備えるようになるならば、私たちは過ちから守られ、確かに、キリストの永遠の御国に入ることができるのです。

 12節から15節までをお読みします。

 それゆえ、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、授かった真理に基づいて生活していますが、私は、自分がこの体を仮の宿としている間、これらのことを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせようと考えています。それは、私たちの主イエス・キリストが私に示されたように、私がこの仮の宿を離れる時が間もなく訪れることを知っているからです。自分が世を去った後もあなたがたがこれらのことを思い起こせるように、私は努めましょう。

 ここには、ペトロがこの手紙を書き記した目的が記されています。ペトロは、ローマ皇帝ネロの迫害によって、紀元65年頃に、ローマで殉教の死を遂げたと言われています。その少し前に、この手紙は記されたようです。今朝は「招きの言葉」として、『ヨハネによる福音書』の第21章の御言葉をお読みしました。その18節で、復活された主イエス・キリストは、ペトロにこう言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。このように主イエスは、ペトロが殉教の死を遂げることを予告されたのです。その主イエスの御言葉が実現するときが近づいているとペトロは言うのです。その前に、ペトロは、小アジアのキリスト者たちに、授かった真理をもう一度思い起こさせて奮い立たせたいと願っているのです。そのような意味で、この手紙は、使徒ペトロの遺書であると言えます。ペトロは、主イエス・キリストの羊を飼う者として、この手紙を記しました。それは、この手紙を読む私たちが授かった真理を思い起こして、奮い立つためであるのです(ルカ22:32「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」参照)。

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