災いを招く時代 2023年11月12日(日曜 夕方の礼拝)
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コヘレトの言葉 8章1節~9節
聖書の言葉
8:1 誰が知恵ある者でありえよう。/誰が言葉の解釈を知りえよう。/知恵はその人の顔を輝かせ/その顔の険しさを和らげる。
8:2 私は言う。/神との誓いのゆえに、王の言葉を守れ。
8:3 王の前から慌てて立ち去るな。/悪事に関わるな。/王はすべてを思いどおりにするのだから。
8:4 王の言葉には権威がある。/誰が王に/「何ということをなさるのか」と言えよう。
8:5 王の命令を守る者は悪事を知らない。/知恵ある者の心は時と法をわきまえる。
8:6 確かに、すべての出来事には時と法がある。/災いは人間に重くのしかかる。
8:7 やがて何が起こるかを知る者は一人もいない。/確かに、何が起こるかを/誰が人に告げることができるだろう。
8:8 息を支配し、息を止められる人はいない。/また、死の日を支配できる人もいない。/戦いからの免除はなく/不正はそれを行う者を救えない。
8:9 これらすべてを私は見て、太陽の下で行われるすべての業に心を向けた。今は、人が人を支配し、災いを招く時代である。コヘレトの言葉 8章1節~9節
メッセージ
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夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第8章1節から9節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。お配りした「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。
1節をお読みします。
誰が知恵ある者でありえよう。誰が言葉の解釈を知りえよう。知恵はその人の顔を輝かせ/その顔の険しさを和らげる。
ここでコヘレトは、知恵を賛美しています。「誰が知恵ある者でありえよう。誰が言葉の解釈を知りえよう」とありますが、これは修辞的な問いで、言いたいことは、「知恵ある者と呼べる人は誰もいない。言葉の解釈を知りえる者は誰もいない」ということです。そのように知恵は得難いものであるのです(ヨブ28章参照)。ここでの知恵は主を畏れることを源とする知恵のことです。主を畏れることを源とする神からの知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の険しさを和らげます。知恵は、人の表情をも変えてしまうのです。知恵はその人の心に希望を与え、平安を与えるものであるのです。イエス・キリストを信じる私たちには、上からの知恵が与えられています(ヤコブ3:17参照)。私たちは、上からの知恵によって、イエス・キリストを信じ、希望と平安を与えられているのです。
2節から5節までをお読みします。
私は言う。神との誓いのゆえに、王の言葉を守れ。王の前から慌てて立ち去るな。悪事に関わるな。王はすべてを思いどおりにするのだから。王の言葉には権威がある。誰が王に「何ということをなさるのか」と言えよう。王の命令を守る者は悪事を知らない。知恵ある者の心は時と法をわきまえる。
コヘレトは、「ダビデの子、エルサレムの王」を装っていましたが(1:1)、ここでは、王に仕える者の一人として語っています。コヘレトは、王に仕える者として、「私は言う。神との誓いのゆえに、王の言葉を守れ」と言うのです。『コヘレトの言葉』が記された紀元前4世紀頃、イスラエルはペルシア帝国によって支配されていました。ですから、ここでの王は、まことの神を知らない異邦人の王のことです。では、なぜ、コヘレトは、「神との誓いのゆえに」と言うのでしょうか。それは、異邦人の王であっても、イスラエルの神、主によって立てられている王であるからです。このことは、『ダニエル書』が教えていることです。ダニエルは、バビロンの王ベルシャツアルにこう言いました。旧約の1389ページ(新共同訳)。第5章18節から21節までをお読みします。
王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。その権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々はすべて、恐れおののいたのです。父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。しかし、父王様は傲慢になり、頑なに尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。
このような信仰をもっていたからこそ、ダニエルは、バビロンの王様にも忠実に仕えることができたのです(ローマ13:1「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」、一ペトロ2:17「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」参照)。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1043ページです(新共同訳)。
王の言葉には権威があり、誰も王に「何ということをなさるのか」と言うことはできません。王の命令を守ることこそ、正しい事であり、自分の身を守ることであるのです。そして、そこにも、時と法をわきまえる知恵が必要であるのです。
6節から8節までをお読みします。
確かに、すべての出来事には時と法がある。災いは人間に重くのしかかる。やがて何が起こるかを知る者は一人もいない。確かに、何が起こるかを/誰が人に告げることができるだろう。息を支配し、息を止められる人はいない。また、死の日を支配できる人もいない。戦いからの免除はなく/不正はそれを行う者を救えない。
「確かに、すべての出来事には時と法がある」という言葉は、第3章1節の御言葉を思い起こさせます。第3章1節で、コヘレトはこう言っていました。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。そのように記したコヘレトが、「すべての出来事には時と法(ミシュパート)がある」と言うのです。すべての出来事には時と法があるのですが、人間はそれを知ることができません(3:11「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」参照)。何が起こるかを告げることができる人は誰もいないのです。8節には、人間が支配することのできない時と法が四つ記されています。息を支配し、息を止められる人はいません。自分の寿命を延ばすことができる人は誰もいないのです。また、死の日を支配できる人もいません。私たちは生かされているのであって、自分がいつ死ぬのかは分からないのです。戦争が始まってしまえば戦いを免れることはできず、不正によって救われることもないのです。
9節をお読みします。
これらすべてを私は見て、太陽の下で行われるすべての業に心を向けた。今は、人が人を支配し、災いを招く時代である。
9節は、今夕の御言葉の結論であります。コヘレトが「今は、人が人を支配し、災いを招く時代である」と言うとき、イスラエルの国が異邦人の王によって支配されている現実があります。神の民であるイスラエルがまことの神を知らない異邦人の王によって治められていたのです。そして、そのような時代をコヘレトは「災いを招く時代」というのです。かつて水曜日の祈祷会で、『サムエル記』を学んだことがあります。神はイスラエルの王として、サウルを立てられました。しかし、サウルは主の御心に従わなかったので、退けられてしまいました。そして、サウルに代わって、ダビデがイスラエルの王となったのです。イスラエルの王に求められること、それはまことの王である主、ヤハウェの御心に従うことであります。イスラエルの王がまことの王であるヤハウェに従うとき、イスラエルの民は主の恵みの支配に豊かにあずかることができるのです。現在、私たちの国、日本には、政治制度としての王はいません。しかし、私たちには、神の御子であり、ダビデの子孫であるイエス・キリストが王として与えられているのです(ローマ1:3、4参照)。神の御子であり、ダビデの子孫であるイエス・キリストの御支配にあずかる者とされているのです。そのようにして、私たちは、幸いな時代を生きているのです。
イエス・キリストを信じる私たちも、何が起こるのかを告げることはできません。私たちにも災いが重くのしかかるかも知れません。しかし、どのようなときも、私たちはイエス・キリストの命と恵みの支配の内に守られているのです。私たちも寿命を延ばしたり、自分が死ぬ日を支配したりすることはできません。しかし、私たちは、死んだ後に、自分がどこへ行くのかを知っています。十字架の死から復活して、天に昇られたイエス・キリストのもとへ行くことを知っているのです。それゆえ、私たちの顔は輝き、顔の険しさは和らぐのです。私たちは、上からの知恵である聖霊のお働きによって、畏れ敬う心からイエス・キリストに従う者とされているのです。