ヨナの祈り 2023年10月22日(日曜 朝の礼拝)
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ヨナの祈り
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ヨナ書 2章1節~11節
聖書の言葉
2:1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。
2:2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、
2:3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。
2:4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。
2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
2:6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
2:7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。
2:8 息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した。
2:9 偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうとも
2:10 わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。
2:11 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
ヨナ書 2章1節~11節
メッセージ
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前回は、『ヨナ書』の第1章を学びました。今朝は最初にその振り返りをしたいと思います。ヨナは、『列王記下』の第14章によれば、北王国イスラエルの王ヤロブアム二世の時代、紀元前8世紀に活躍した預言者でした。そのアミタイの子ヨナに、次のような主の言葉が臨みます。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」。ニネベは、チグリス川沿いにある大きな都で、アッシリア帝国の首都でした。アッシリア帝国は、まことの神を知らない異邦人の国です。しかも、イスラエルを苦しめていた敵とも言える国でした。その都ニネベに行って、ニネベの人たちに、主の言葉を語るように、ヨナは命じられたのです。しかし、ヨナは主から逃れようとして、ニネベとは逆方向にあるタルシシュに向かいました。タルシシュは、南スペインにある町で、当時の地中海世界では地の果てとも言えます。ヨナは主から逃れるために、船に乗って、タルシシュへと向かうのです。しかし、主は大風を放って嵐を起こします。主はヨナがタルシシュへ行くことを阻まれるのです。船乗りたちは、恐怖に陥り、それぞれの神に助けを求めます。船にはいろいろな国の人々が乗っていたのです。また、彼らは船を少しでも軽くするために、積み荷を投げ捨てました。そのような彼らをよそに、ヨナは船底でぐっすりと眠っていました。ヨナは、主から逃れることができたと安心して、眠っていたのです。船長はヨナを起こしてこう言います。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」。しかし、ヨナは自分の神、主に祈らなかったようです。なぜなら、ヨナは、自分の神、主が、この嵐を引き起こされたことを知っていたからです。しかも、その原因が自分にあることをもヨナは知っていたのです。案の上、くじを引くと、くじはヨナに当たりました。これによって、嵐の原因がヨナにあることが人々に明らかとなったのです。人々はヨナに詰め寄ってこう尋ねます。「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」。ヨナはこう答えます。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」。そして、ヨナは、自分が主の言葉に従わずに、逃げてきたことを白状するのです。ヨナは、「わたしは・・・主を畏れる者だ」と口では言いながら、主に従わずに逃げて来たのです。つまり、ヨナはその行動においては主を畏れていないのです。荒れ狂う海の中で、命の危険を感じた人々は、ヨナにこう言います。「あなたをどうしたら、海が静まるだろうか」。するとヨナはこう答えます。「わたしを抱えて、海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」。ヨナは、主の御前から逃げ出したことが預言者である自分にとって死に値する罪であることを知っていました。それで、ヨナは、自分を抱えて海へ放り込むようにと言うのです。イスラエルの神としての主を信じるヨナにとって、ニネベに行って、主の言葉を語ることは死んでもしたくないことであったのです。ヨナは、口では、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と言いますが、その信仰は、イスラエルの神としての主を信じる、民族主義的な信仰であるのです。ヨナが信じている神は、イスラエルの神であり、ニネベに預言者を遣わして、救おうとされる神ではないのです。そのような神の名を呼ぶならば、死んでもよいとヨナは考えているのです。乗組員たちは、船を漕いで陸に戻そうとしました。荒れ狂っている海にヨナを放り込めば、ヨナは死んでしまいます。そのような罪を彼らは犯したくないわけです。しかし、海がますます荒れ狂い、襲いかかってきたので、ついに彼らは主に向かってこう叫びます。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実な者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」。ここで、異邦人である人々が、海と陸とを創造された天の神、主の名を呼んでいます。そして、ヨナを海へと投げ込むことを罪に問わないでくださいと願い、すべてはあなたの御心によると告白するのです。彼らがヨナを抱えて海へ放り込むと荒れ狂っていた海は静まりました。そのことは、この嵐が主によって引き起こされていたことを示しています。それで人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てました。彼らは、海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者になることを誓ったのです。
ここまでは、前回の振り返りです。今朝は、その続きである第2章から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
荒れ狂う海の中に放り込まれれば、その人は溺れて死んでしまいます。しかし、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられました。主は、大きな魚を用いて、ヨナが溺れて死んでしまわないようにされたのです。「ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた」とあります。後に主イエス・キリストは、このことを取り上げて、御自分のしるしとされました。『マタイによる福音書』の第12章38節から40節までを、お読みします。新約の23ページです。
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」
ヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中にいたことは、イエス・キリストが三日三晩、大地の中にいるようになることを示していたのです。このイエス様の御言葉によると、大きな魚の腹の中は大地を、つまり、死の領域を指しています。しかし、『ヨナ書』の文脈においては、大海の底が死の領域であり、大きな魚の腹の中は命の領域であるのです。なぜなら、ヨナは、大きな魚の腹の中で感謝の祈りをささげているからです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の1446ページです。
ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげました。嵐の船の中で祈らなかったヨナが、主に祈りをささげるのです。
3節をお読みします。
苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。
ここには、ヨナが魚の腹の中で祈る前の祈りについて語られています。ヨナは、荒れ狂う海の中に放り込まれて、主に助けを祈り求めたのです。そのヨナの祈りに答えて、主は大きな魚に命じて、ヨナを呑み込ませ、その命を救ってくださったのです。
4節から7節前半までをお読みします。
あなたは、わたしを深い海に投げ込まれました。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。
ヨナを海に投げ込んだのは船乗りたちですが、ヨナは、その背後に主の裁きを見ています。それゆえ、ヨナは、「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれました」と言うのです。主は御自分に背いて、逃げようとした僕ヨナを、深い海に投げ込みました。当時の世界像によれば、海の底には、死の世界、陰府がありました。死の世界、陰府には命の神はおられないと信じられていました(詩88編参照)。また、死の世界、陰府に降った人は、帰って来ることができないと信じられていました(ヨブ10:21参照)。その死の世界、陰府にヨナは閉じ込められたというのです(聖書協会共同訳2:7「私は山々の基、地の底に沈み/地の扉に長く閉じ込められた」参照)。
7節後半から10節までをお読みします。
しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうとも/わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。
ヨナは、深い海の底で息絶えようとしたとき、主の御名を唱えました。ヨナは、自分を深い海に投げ込まれた主に、助けを祈り求めたのです。すると、ヨナの祈りは主のもとに届いたのです。そもそも、主、ヤハウェという御名前には、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれていました(出エジプト3:12参照)。主はヨナと共にいてくださる神として、大きな魚に命じてヨナを呑み込ませ、命を救われたのです。ここで面白いのは、ヨナが9節で「偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも」と言っていることです。第1章を振り返るとき、偽りの神々に従う船乗りたちの方が、ヨナよりも主に忠実でした。ヨナは「わたしは・・・主を畏れる者だ」と言いながらも、主から逃げようとした不忠実なものであったのです。そのことをすっかり忘れて、ヨナは、「偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも/わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう」と言うのです。ところで、ヨナは何を誓ったのでしょうか。それは、「主の言葉に従って、大いなる都ニネベに行き、呼びかけること」であったと思います。ヨナは、主に裁かれることによって、さらには主の裁きから救われることによって、救いは、主にあることを経験として知ったのです。主は、深い海の底から、大きな魚を用いて、ヨナを救うことによって、御自分が罪を赦す憐れみ深い神であることを個人的に示されたのです。
主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出しました。第1章13節で、乗組員が船を漕いで陸に戻そうとしたとき、神はそれを許されませんでした。神の御心は、ヨナに滅びと救いの経験をさせたうえで、陸地に戻すことであったのです。そのようにして、主は、ヨナが「救いは、主にこそある」と確信をもって語ることができるようにしてくださったのです(主の救いについて確信をもって語るには、自分が主から救われたという経験が必要である)。
今朝の御言葉は、私たちに、主イエス・キリストの使徒パウロのことを思い起こさせます。パウロは、主に逆らう者、主に拳を振るう者でした。しかし、そのパウロに主は現れてくださり、パウロの罪を赦して、福音を宣べ伝える者としてくださいました。そのことは『使徒言行録』の第9章に記されています。新約の229ページです。
パウロは、イエスの弟子たちを捕らえるために、ダマスコへと向かいました。パウロがダマスコに近づいたとき、突然、天からの光に照らされて、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きます。パウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、次のような答えがあったのです。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。パウロは、主に仕えているつもりで、イエスの弟子たちを迫害していました。しかし、イエスこそ、主であることをパウロは知ったのです。パウロは、三日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。そのパウロのもとに、主イエスはダマスコに住む弟子、アナニアを遣わされます。主イエスはアナニアを遣わすことによって、パウロの罪を赦し、御自分の教会の一員とされたのです。アナニアは、パウロの頭に手を置いてこう言います。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、パウロはまた見えるようになったのです。パウロは、「イエスは主である」と告白して、洗礼を受けて、福音を宣べ伝える者となったのです。そして、主イエス・キリストは、このパウロを、イスラエルの敵とも言えるローマ帝国の都ローマへと遣わされるのです(使徒23:11「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」参照)。
今朝は、最後に、ヨナをニネベへと遣わし、パウロをローマへと遣わされた主イエス・キリストが、私たちの罪を赦して、それぞれの生活の場へと遣わしてくださっていることを確認したいと思います。新約の60ページです。『マタイによる福音書』の第28章18節から20節で、復活された主イエス・キリストは、弟子たちにこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。このように、主イエス・キリストは、私たちをそれぞれの生活の場へ遣わされるのです。主イエス・キリストは、この礼拝の場から、私たちを祝福して、それぞれの生活の場へと遣わされるのです(礼拝が「祝福と派遣」で終わることの意味)。