怠惰な生活をしてはいけない 2023年10月08日(日曜 朝の礼拝)
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怠惰な生活をしてはいけない
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- 村田寿和 牧師
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テサロニケの信徒への手紙二 3章6節~18節
聖書の言葉
3:6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
3:8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
3:9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
3:12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
3:13 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
3:14 もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
3:15 しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。
3:16 どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。
3:17 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。
3:18 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。
テサロニケの信徒への手紙二 3章6節~18節
メッセージ
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8月13日から『テサロニケの信徒への手紙二』を学んで来ましたが、今朝は、その最後の学びとなります。今朝は、第3章6節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
テサロニケの信徒たちの中には、怠惰な生活をしている者がいました。怠惰な生活をしている者については、一通目の手紙、『テサロニケの信徒への手紙一』にも記されています。第4章11節で、パウロはこう記していました。「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」。また、第5章14節で、パウロはこう記していました。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい」。このようにパウロは、一通目の手紙において、テサロニケの信徒たちに、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように。また、怠けている者たちを戒めるように記していたのです。しかし、それから数ヶ月経っても、テサロニケの信徒たちの中には、怠惰な生活をしている者がいたようです。それで、パウロは、今朝の御言葉、『テサロニケの信徒への手紙二』の第3章6節で、こう言うのです。
兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟たちを避けなさい。
6節の「兄弟たち」は、怠惰な生活をしていない兄弟姉妹たちのことです。パウロは、まず初めに、怠惰な生活をしていない兄弟姉妹に語りかけます。怠惰な生活をしていない兄弟姉妹とは、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働いている兄弟姉妹のことです(一テサロニケ4:11参照)。パウロは、自分の手で働いている兄弟姉妹に、「わたしたちから受けた教えに従わないで怠惰な生活をしている兄弟姉妹を避けなさい」と言うのです。それは自分の手で働いている兄弟姉妹たちが怠惰な者とならないためです。今、自分の手で働いていても、怠惰な生活をしている兄弟姉妹と交わることによって、怠惰な生活をするようになってしまう恐れがあるからです。そうならないように、パウロは、テサロニケにいたとき、自分たちがどのような生活を送っていたかを思い起こさせるのです。
7節から10節までをお読みします。
あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変労苦して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
パウロたちはテサロニケに滞在していたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。パウロたちは、夜も昼も働きながら、テサロニケの信徒たちに神の福音を宣べ伝えたのです(一テサロニケ2:9参照)。それは、援助を受けるという権利がパウロたちになかったからではありません。『コリントの信徒への手紙一』の第9章でパウロが記しているように、主イエス・キリストは、福音を宣べ伝える人たちに福音によって生活の糧を得るように指示されたのです(一コリント9:14、マタイ10:10「働く者が食べ物を受けるのは当然である」参照)。主イエス・キリストから遣わされた者たちにとって、福音を宣べ伝えることが、生活の糧を得る仕事でもあるのです。しかし、パウロたちは、援助を受けるという権利を用いないで、自分の手で働いてパンを得ました。それは、テサロニケの信徒たちがパウロたちに倣うように、模範を示すためであったのです。また、パウロたちは、模範を示すだけではなく、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ここで注意していただきたいことは、「パウロは病気や障害などで働きたくても働けない人のことを言っているのではない」ということです。パウロは、「働けるにもかかわらず、怠け心から働こうとしない者は、食べてはならない」と言っているのです。
テサロニケの信徒たちは、夜昼大変労苦して働き続けたパウロたちの姿を見ていました。また、パウロたちから、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じられていました。しかし、テサロニケの信徒たちの中には、怠惰な生活をしている者がいたのです。
11節と12節をお読みします。
ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
11節と12節は、怠惰な生活をしている兄弟姉妹に向けて語られている言葉です。怠惰な生活をしている兄弟姉妹は、少しも働かないのですが、忙しく動き回って余計なことをしていたのです。「余計なこと」が何なのかは分かりませんが、おそらく彼らは、主の日について触れ回っていたのではないかと思います。そもそも、テサロニケ教会のある者たちは、なぜ、怠惰な生活をしていたのでしょうか。それは、「主の日が近い」というパウロの教えと関係があるように思われます。「主の日」とは「主イエス・キリストが再び天から来られる日」であり、世界の終わりの日のことです。もうすぐ世界が終わりを迎えるならば、仕事なんかしていられないと考えて、怠惰な生活をしていたのかも知れません。しかし、聖書が教える終わりの日とは、主イエス・キリストによって、私たちが裁かれる日であります。『マタイによる福音書』の第25章に記されている「タラントンのたとえ」にあるように、私たちは主人であるイエス様に、与えられたタラントンをどのように用いたかの報告をしなくてはならないのです。そうであれば、世の終わりが近いからと言って、与えられたタラントンを土の中に隠して怠惰に過ごすことはできないはずです。私たちには、イエス・キリストが再び天から来られる日まで、与えられているタラントンを誠実に用いること、自分の賜物を用いて働いてパンを得ることが求められているのです。聖書の教えによれば、人間は働く者として造られたのであり、働くことは究極的には神に仕えることであるのです(創世1:28、2:15参照)。
また、テサロニケ教会のある者が働かずに怠惰な生活をしていたのは、教会が飲み食いを一緒にしていたからかも知れません。『コリントの信徒への手紙一』の第11章に、食べ物を持ち寄って食事を共にしていたこと、その後で主の晩餐の礼典が行われていたことが記されています。そのような食事を当てにして、働かないで、パンを食べていた者たちがいたのかも知れません。あるいは、教会からの施しを当てにして、怠惰な生活をしていた者がいたのかも知れません。ともかく、パウロは主イエス・キリストに結ばれている者として、怠惰な生活をしている兄弟姉妹に、「自分で得たパンを食べるように落ち着いて仕事をしなさい」と言うのです。
13節から15節までをお読みします。
そして、兄弟たち、あなたがたはたゆまず善いことをしなさい。もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。
パウロは再び、自分の手で働いている兄弟姉妹に語りかけます。パウロは、怠惰な生活をしていない兄弟姉妹に、「怠けることなく善いことをしなさい」と言うのです。ここでの「善いこと」は「働きたくても働けない人への施し」であると思います。「働きたくても働けない人に、パンを与えることを怠けてはいけない」とパウロは言うのです。また、パウロは、「この手紙で言ったことに従わない者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい」と言います。ここで私たちは、新約聖書の手紙が教会の礼拝において、公に朗読されたことを思い起こしたいと思います。パウロは、テサロニケに滞在していたとき、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。また、第一の手紙において、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と命じていました。そして、この二通目の手紙において、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と命じるのです。パウロは三度も怠惰な生活をしないように命じているのです。しかし、それにもかかわらず、怠惰な生活を続ける者がいるならば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさいと命じるのです。それは、怠惰な兄弟姉妹を恥じ入らせて、自分の手で働くようにさせるためです。ここでパウロは、怠惰な生活を個人のこととは考えておらず、教会全体のこととして捉えています。怠惰な生活をして、教会に負担をかけている兄弟姉妹は、教会訓練の対象であるのです。パウロにとって、キリスト者であることと怠惰な生活を送ることは相容れないことであり、正すべきことであったのです。
16節から18節までをお読みします。
どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。
パウロは、怠惰な生活を送る兄弟姉妹とはかかわりを持たないように。しかし敵とは見なさず、兄弟姉妹として警告するように記しました。その後で、主イエス・キリストの平和を祈り求めるのです。そして、怠惰な生活を送っている兄弟姉妹を含めたテサロニケ教会一同のために、主イエス・キリストの恵みを祈り求めるのです。パウロは、この手紙を、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」という祈りをもって書き始めました(1:2)。そして、この手紙を閉じるに当たって、主イエス・キリストの平和と恵みを祈り求めるのです。教会と訳されるエクレーシアという言葉は、「呼び出された者の集い」という意味であります。私たちは、主イエス・キリストに呼び出された者の集いであるのです。その私たちの営みを支えているのは、主イエス・キリストの恵みと平和であるのです。そのことを心に留めて、私たちも主イエス・キリストの恵みと平和を祈り求めていきたいと願います。