信用できる人間はいるか 2023年10月08日(日曜 夕方の礼拝)

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信用できる人間はいるか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 7章23節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:23 これらすべてを知恵によって吟味し/私は「知恵ある者になろう」と口にした。/だが、遠く及ばなかった。
7:24 存在するものは遠く/深く、さらに深い。/誰がそれを見いだせるのか。
7:25 心を転じて/私は知恵と道理を知り、見いだし/突き止めようとした。/そして、悪は愚行、愚かさは無知であると知った。
7:26 私は見いだした、女は死よりも苦いと。/女は罠、その心は網、その手は枷。/御心に適う人は彼女から逃げ出すことができるが/罪人はこれに捕らえられる。
7:27 「見よ、これこそ私が見いだした」/とコヘレトは言う。/一つ一つ積み重ねて見いだした結論。
7:28 私の魂はなおも探し求めたが/見いださなかった。/千人の中に一人の男を見いだしたが/これらすべての中に一人の女も見いださなかった。
7:29 ただし、見よ、これを私は見いだした。/神は人間をまっすぐに造ったのに/人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。
コヘレトの言葉 7章23節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第7章23節から29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今夕は、お配りした「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。

 23節から25節までをお読みします。

 これらすべてを知恵によって吟味し/私は「知恵ある者になろう」と口にした。だが、遠く及ばなかった。存在するものは遠く/深く、さらに深い。誰がそれを見いだせるのか。心を転じ/私は知恵と道理を知り、見いだし/突き止めようとした。そして、悪は愚行、愚かさは無知であると知った。

 コヘレトは、すべてのものを知恵によって吟味し、「知恵ある者になろう」と口にしました。しかし、遠く及びませんでした。「存在するものは遠く、深く、さらに深い。誰がそれを見いだせるのか」と言うのです。ところで、「知恵」とは何でしょうか。国語辞典を引くと、「知恵」は「物事の道理をよくわきまえ、すぐれた処理や判断ができる能力」と記されています(『福武国語辞典』)。ただし、聖書においての知恵は、主を畏れることを源とします。『箴言』の第1章7節に、「主を畏れることは知恵のはじめ」とあるとおりです。主を畏れる心を源とする知恵をもって、地上に存在するすべてのものを吟味するとき、ある法則を見出すことができます。いわゆる自然法則を見出すことができるのです。しかし、その存在の根拠ということを考えると、それは遠くて、深く、人間の理解が及ばないものであるのです。それは創造主である神の秘密に関わることであるからです。それで、コヘレトは心を転じて、存在するものの根拠を問うのではなく、現に存在している人間社会の知恵や道理を突き止めようとしました。そして、コヘレトは、悪は愚かな行いであり、愚かさは無知であると知ったのです。コヘレトが「無知」というとき、それは「知恵が無い」ことであり、神を畏れる心がないことを指しています。神を畏れる心がないことに、愚かさと悪の原因があるのです。

 26節と27節をお読みします。

 私は見いだした、女は死よりも苦いと。女は罠、その心は網、その手は枷。御心に適う人は彼女から逃げ出すことができるが/罪人は捕らえられる。「見よ、これこそ私が見いだした」とコヘレトは言う。一つ一つ積み重ねて見いだした結論。

 このような言葉を読むと、コヘレトが男であったことを改めて思います。また、この書物が記された時代が、男性中心の社会であったことが分かります。『箴言』にも、女性に対する警告の言葉がいくつも記されています。例えば、『箴言』の第7章6節から27節に次のように記されています。旧約の999ページです。

 わたしが家の窓から/格子を通して外を眺めていると/浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。通りを過ぎ、女の家の角に来ると/そちらに向かって歩いて行った。日暮れ時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって。見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。騒々しく、わがままで/自分の家に足の落ち着くことがない。街に出たり、広場に行ったり/あちこちの角で待ち構えている。彼女は若者をつかまえると接吻し/厚かましくも、こう言った。「和解の献げ物をする義務があったのですが/今日は満願の供え物を済ませました。それで、お迎えに出たのです。あなたのお顔を探し求めて、やっと会えました。寝床には敷物を敷きました。エジプトの色糸で織った布を。床にはミラルの香りをまきました。アロエやシナモンも。さあ、愛し合って楽しみ/朝まで愛を交わして満ち足りましょう。夫は家にいないのです、遠くへ旅立ちました。手に銀貨を持って行きましたから/満月になるまでは帰らないでしょう。」彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされて/たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく/自分の欲望の罠にかかったことを知らない。それゆえ子らよ、わたしに聞き従いわたしの口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女への道に通わすな。彼女の道に迷い込むな。彼女は数多くの男を傷つけ倒し/殺された男の数はおびただしい。彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る。

 このように『箴言』も女に気をつけるように教えているのです。私たちにとって魅力的な異性は、罠になり、社会的な死をもたらす者になる危険があるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の1042ページです。

 コヘレトが、「私は見いだした、女は死よりも苦いと。女は罠、その心は網、その手は枷」と言うとき、コヘレトの実体験がもとになっているのでしょう。ですから、ここにはコヘレトの女性観が記されていると読むことができます。ここに普遍的な真理が記されていると読むよりも、時代に制約されたコヘレトの女性観が記されていると読むべきであると思います。コヘレトは、「御心に適う人は彼女から逃げ出すことができるが/罪人はこれに捕らえられる」と記します。ここで興味深いのは、「神の掟を守る人は彼女から逃げ出すことができる」とは記されていないことです。イスラエル人ならば、誰もが「姦淫してはならない」という掟を知っているわけですが、その掟を守ることによって彼女から逃げ出すことができるのではなくて、神の御心に適う人が彼女から逃げ出すことができると言うのです。彼女の罠から逃げ出すことができるかどうかは、神の御心次第というのです。しかし、コヘレトは、「御心に適わない人は捕らえられる」とは記しません。「罪人はこれに捕らえられる」と記します。彼女の罠に捕らえられたのは、自分の罪、肉の欲望のゆえであるのです。このようなコヘレトの言葉を読むと、コヘレトは女性嫌いなのかと思われるかも知れません。しかし、そうではないようです。コヘレトは、第9章9節でこう記しているからです。「太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい」。ですから、コヘレトが気をつけるように言っている女は、自分の妻ではない、他の女のことを言っているのです。

 28節と29節をお読みします。

 私の魂はなおも探し求めたが/見いださなかった。千人の中に一人の男を見いだしたが/これらすべての中に一人の女も見いださなかった。ただし、見よ、これをわたしは見いだした。神は人間をまっすぐに造ったのに/人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。

 ここでコヘレトは、どのような人を探し求めたのでしょうか。『箴言』の第20章6節に、「親友と呼ぶ相手は多いが、信用できる相手を誰が見いだせよう」とあります。おそらく、コヘレトは信用できる人を探し求めたのだと思います。そして、コヘレトは、「千人の中に一人の男を見いだしたが、これらすべての中に一人の女も見いださなかった」と言うのです。ここで「男」と訳されている言葉は「アダム」で人間と訳すことができます。信用できる人間は、千人の一人しかいない。しかもその千人の中の一人はすべて男である、とコヘレトは言うのです。このようなコヘレトの言葉を聞くと、女性を蔑視する発言だと思われるかも知れません。しかし、それは致し方ないことであると思います。と言いますのも、『コヘレトの言葉』が執筆された時代の社会が男尊女卑の社会であったからです「男尊女卑」とは「男性を重くみて、女性を軽んじること」の意味)。

 ここでコヘレトが言いたいことは、男にしろ女にしろ、信用できる人間はほとんどいないということです。神は人間をまっすぐに造られました。そうであれば、信用できる人間がたくさんいるはずです。しかし、信用できる人間はほとんどいない。なぜか。コヘレトは、こう言います。「神は人間をまっすぐに造ったのに、人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ」。ここでコヘレトは、『創世記』の第3章に記されているエデンの園の物語を背景にして記しています。神は人間を御自分のかたちに似せてお造りになりました。神は人間をまっすぐに造られたのです。そして、神は人間に、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」というまっすぐな掟を与えられました。しかし、蛇(悪魔)の言葉を聞いて、人間はさまざまなことを考えるわけです。「なぜ、他の木から食べてもよいのに、善悪の知識の木から食べてはいけないのか」。「神のようになったら、すばらしいではないか」とさまざまなことを考えるわけです。そして、神の掟に背いて、罪を犯すのです。その罪によって、まっすぐであった人間は曲がってしまったのです。心根が曲がった人間は、いつも悪いことばかりを考えるようになります。神のようになろうとさまざまな策略を練るようになるのです。その典型は、バベルの塔の建設であります。神は人間を御自分に向かうものとしてまっすぐに造られました。しかし、始祖アダムにあって創造の状態から堕落した人間はさまざまな策略を練って、神に逆らい、自分が神であるかのように振る舞うのです。そのような人間の中に、コヘレトが信用できる相手を見つけることができないのは、当然と言えば当然であります。神の目から見れば、「信用できる人間は一人もいない」のです。だからこそ、神は御子を人として、この地上に遣わしてくださいました。そして、イエス・キリストにある私たちをまっすぐな人間、信用できる人間としてくださったのです(信用できる人間とは、神の御前に自分の罪を認めることができる人間のこと)。男だからとか、女だからとか言うのではなく、イエス・キリストに結ばれているゆえに、神は私たちを信用してくださるのです。

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