不法の子を滅ぼすイエス 2023年9月10日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

2:5 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。
2:6 今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。
2:7 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。
2:8 その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。
2:9 不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、
2:10 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。
2:11 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。
2:12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。テサロニケの信徒への手紙二 2章5節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、1節から4節を中心にしてお話ししました。今朝は、最初にその振り返りをしたいと思います。

 テサロニケ教会のある者たちは、聖霊によって与えられたという預言によって、また、パウロから書き送られたという手紙によって、「主の日は既に来てしまった」と言っていました。「主の日」とは、世界の終わりの日であり、主イエス・キリストが力強い天使たちを率いて天から来られる日のことであります。主イエス・キリストは、父なる神から、権威、威光、王権を受けた人の子として、生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。テサロニケ教会のある者たちが、どのような意味で、「主の日は既に来てしまった」と言っていたのかはよく分かりません。「主イエス・キリストは、既に、この地上に来ておられる」と教えていたのか。それとも、主イエス・キリストの再臨を、霊的に解釈して、「主の日は既に来た」と言っていたのか、よく分かりませんが、ある者たちは、主の日は既に来てしまったかのように言っていたのです。そのことによって、テサロニケの信徒たちは動揺して分別を無くし、慌てふためいていたのです。そのようなテサロニケ教会の状況を聞いて、パウロは、二通目の手紙、『テサロニケの信徒への手紙二』を書き送ったのです。パウロは、テサロニケの信徒たちに、「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」と言います。そして、主の日はまだ来ていないことの根拠を、主イエス・キリストの教えに基づいて記すのです。主イエス・キリストは、『マタイによる福音書』の第24章で、神殿崩壊の予告に続けて、終わりの時(日々)のしるしについて教えられました。終わりの日のしるしは、主イエス・キリストが栄光の人の子として来られることです。しかし、その終わりの日の前に、終わりの日々のしるしが起こることになっているのです。パウロは、その終わりの日々のしるしについて、3節でこう記します。「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなければならないからです」。パウロは、終わりの日々のしるしである神に対する反逆がまだ起こっていないこと。不法の者、つまり滅びの子がまだ出現していないことを根拠にして、「主の日はまだ来ていない」と言うのです。4節に、不法の者である滅びの子が、どのような人物であるかが記されています。「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには神殿に座り込み、自分こそ神であると宣言するのです」。パウロがこの手紙を記した時代、紀元50年頃には、このような人物は現れていなかったようです。しかし、紀元90年頃に記された『ヨハネの黙示録』には、不法な者が現れたこと。その名前は数字で六百六十六であることが記されています(黙示13:18「賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である」参照)。そうであれば、主の日は、いつ来てもおかしくないわけです。「主の日はまだ来ていません」。しかし、「主の日はいつ来てもおかしくない」のです。それゆえ、聖書は最後に、「然り、わたしはすぐに来る」という主イエス・キリストの宣言と、「アーメン、主イエスよ、来てください」という教会の祈りを記しているのです(黙22:20)。

 ここまでは前回の振り返りであります。今朝は、5節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 5節から7節までをお読みします。

 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。

 『使徒言行録』の第17章によれば、パウロは三週間、テサロニケに滞在して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました(使徒17:2「三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い」参照)。そのとき、パウロは、主の日の到来に先立つ終わりの日々のしるし、まず神に対する反逆が起こり、不法の者である滅びの子が現れると、繰り返し語っていたようです。そのことをパウロは、思い出させて、「今、不法の者を抑えているものがあることを、あなたがたは知っている」と言うのです。この「不法の者を抑えているもの」が何であるのかについては、いくつかの解釈があります。伝統的には、「社会の秩序を維持するための警察権を持つ国家」のことを意味していると解釈されます。私もこの解釈を取って、不法の者を抑えているもの(中性)は、「ローマ帝国」であり、不法の秘密の力を抑えている者(男性)は「ローマ皇帝」であると解釈したいと思います。聖書によれば、国家は神が定めた制度であり、その目的の一つは人間の罪の増大を抑制することであるのです。パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第13章で、こう記しています。新約の292ページです。第13章1節から4節までをお読みします。

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

 このように、国家為政者(国の政治を行う人たち)の権威も神によって与えられているのです。神は国家為政者に剣の権能(ここではおもに警察権)を与えて、悪を行う者に罰を与えられるのです。神は国家を立て、警察権を与えることによって、人間の罪が増大しないようにしてくださっているのです(国家は人間の罪の増大を抑制する一般恩恵である)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の381ページです。

 8節をお読みします。

 その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。 

 パウロは、不法の者はまだ現れていないが、不法の秘密の力は既に働いていると言います。不法の秘密の力とは、神の敵であるサタン、悪魔の働きのことです(一ペトロ5:9参照)。その不法の秘密の力は、ローマ帝国の警察権によって、その働きが抑えられています。しかし、その働きが取り除かれるときが来ると言うのです。国家が無くなって、無政府状態になれば、そこに不法がはびこることは、歴史が示している通りです。そのような時に、不法の者が現れるのです。しかし、ここで注意したいことは、『ヨハネの黙示録』の第13章によれば、ローマ帝国が、自らを神とする不法の者となってしまったということです。『ヨハネの黙示録』の第13章に、竜である悪魔は、二匹の獣を呼び出します。一匹は海の中から上って来た獣で、自らを神とするローマ帝国です。また、二匹目は地の中から上ってきた獣で、ローマ皇帝を神として拝ませる偽預言者です。パウロが『テサロニケの信徒への手紙二』を記した紀元50年頃、ローマ皇帝を神として崇める皇帝崇拝は行われていませんでした(41~54年クラウディウス帝)。ですから、パウロは、ローマ皇帝も神によって立てられている権威であるのだから、従うようにと記したわけです。しかし、『ヨハネの黙示録』が記された紀元90年頃は、ローマ皇帝を神として崇める皇帝崇拝が行われていたわけです(81~96年ドミティアーヌス帝)。それゆえ、ヨハネは、ローマ帝国を、自らを神とする不法の者として描いているわけですね。『ヨハネの黙示録』の第17章に、「大淫婦が裁かれる」というお話しが記されています。そこには、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名を額に記し、聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれる大淫婦の姿が描かれています。この大淫婦こそ、ローマ帝国であるのです。神によって権威を与えられている国家為政者たちが、神の御心に背いて権威を乱用して、不法の者となってしまったことを、『ヨハネの黙示録』は、私たちに教えているのです(国家が宗教的権威を帯びて、絶対化して獣とならないために、政教分離の原則や立憲主義がある。立憲主義とは、国家権力を法的に制限した憲法に基づいて政治を行うことを言う)。

 不法の者が現れるとき、主イエス・キリストも現れます。そして、主イエス・キリストは、不法の者を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれるのです(イザヤ11:4「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」参照)。主イエス・キリストは、不法の者を滅ぼすのに、指一本動かす必要がないのです。主イエス・キリストは、不法の者に圧倒的な勝利を収められるのです。そのことは、『ヨハネの黙示録』が教えていることでもあります。新約の476ページ。第19章19節から21節までをお読みします。

 わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。

 このように主イエス・キリストは、獣と地上の王たちとその軍勢に、圧倒的な勝利を収められるのです(戦いの場面は描かれず、キリストの勝利だけが記されている)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の381ページです。

 9節から12節までをお読みします。

 不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。

 不法の者が、サタン(悪魔)の働きによって現れるとき、偽りの奇跡やあらゆる不義によって、多くの人々は欺かれます。多くの人々が不法の者に欺かれて滅びることになるのです。『ヨハネの黙示録』の文脈で言えば、多くの人々が、獣であるローマ皇帝を崇めるようになるのです。では、その人々は、なぜ、不法の者にだまされてしまったのでしょうか。パウロは、こう言います。「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなったからです」。ここでの「真理」は、福音の真理であり、さらに言えば、「イエス・キリスト」のことです(ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」参照)。神は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2:4)。しかし、多くの人々は、自分たちの救いとなる真理を愛そうとはしないのです。彼らは明確な意志をもって、イエス・キリストの福音を受け入れないのです。それゆえ、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになったと言うのです。神は、その人が心に望んでいるものを確認されたうえで、その人が望んでいるものをお与えになるのです(ローマ1:24「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」参照、ヨハネ3:19「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」参照)。不法の者に欺かれている人々は、不義を喜ぶ人々でもあります。真理であるイエス・キリストを愛さないで、不義を喜ぶ者たちは皆、自分の罪のゆえに滅びることになるのです(ヨハネ8:24「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」参照)。  

関連する説教を探す関連する説教を探す